半月身 ハン ゲツ シン 5
坂を下りるギンコの歩みは、酷くゆっくりだった。
急ぐべきなのかもしれなかった。もっと時間を気にして、走るべきなのかもしれなかった。でもそういえば、月子を連れた化野が、この里のどの家に行くのか聞いていなかったっけ。あぁ、それじゃあ急ごうにも、どうにもなりゃしない。
見上げた空には厚い雲。そのところどころは、裂いたように向こうの空が見えていて、そのままに雲は流れている。空の高みで、風は随分強いように見えた。
月太を布団に寝かせて、その部屋の襖を閉め、隣の部屋の障子も閉めて、雨戸もぴったりと閉ざして来たが、ギンコのしたのはそれだけだ。蔵に閉じ込めてきたわけじゃない。外へ出ようとすれば出られるのだ。
あぁ、そうだよ、最初から。
「決めるのは…俺じゃねぇしな…」
びく、と化野は体を震わせた。月子に向けて語られる、優しい声が聞こえていた。
「…ゆっくり考えておくれよ、おばさん達は待ってるから。そんで良かったら明日は、月太ちゃんと一緒に遊びにおいでねぇ」
時折まだ、ほろと涙を零しながら、月子はどこかぼんやりと女の顔を見ていた。それから彼女はすぐ傍で黙って自分を見ている化野のことを思い出し、彼を見上げた途端、何かに気付いたように少し目を見開いたのだ。
「あ、あた…し…」
する、と彼女の肩から綺麗な柄の着物が滑り落ちた。ぽとり、かんざしが畳に落ちて転がる。月子は化野を見ていた顔を、強く下へ向けると、縁側から裸足のままで、外へと飛び出した。
「…っ、月子ちゃんっ!」
「お、俺が」
我に返った化野が、急いで月子の姿を追い駆けた。子供の脚だ、すぐに追い付けると思っていた。なのに、ちっとも距離が詰まらない。まるで地面を踏んでいないかのようだ。宙に浮いているのかもしれないと、心の何処かで化野は思っていた。
だって、彼女はヒトじゃないから。
だって、月子は『蟲』だから。
でもそうじゃなかった。パキ、と鋭い音がした。落ちていた木の枝が、月子の足に踏まれて折れたのだ。追い縋る気持ちに焦りながらも、一瞬屈んで拾った枝には、赤い、血の色。
「月子っ、止まれ!」
そもそも月子はどこに向かおうとしているのか、化野の家の方角じゃない。寧ろ真逆の方向なのだ。そのまま行くと道は坂になり、ずっと行けば里を出てしまう。駆けながら振り向いた、彼女の顔のその、何かを、諦めたような。
「け、怪我を、怪我しただろうっ、手当てをッ」
必死で言った化野の、遥か後ろから別の声が二重に覆い被さる。あの夫婦の声だ。追ってきたのか。
「つ、月子ちゃんっ、そっちは、そっちは駄目だよぉ」
「行くなっ、戻ってくるんだ…っ、危ないからっ、そっちにゃ、崖が…っ」
あぁ、そうだ。この道の先は、夜になると慣れたものでもあまり歩かない。ましてやこんな月の無い夜では。今までに、道を違えて崖の方へ出てしまい、そこから落ちた旅人だっていたと聞く。焦って、また月子を呼ぼうとした化野の声よりも、女の声の方が必死だった。
「つ、月…っ」
「お願いだからッ! 戻っとくれよおぉ…っ、月子…ぉ…ッ」
化野の言葉は止まり、途切れずにずっと続いたのは、月子を呼ぶその声。躓いて地面に手を付きながら、転びながらも、起き上がり、必死で走ってくる彼女の足にも、履物は…無い。
女は足を緩めた化野を追い抜いた。そして月子は、いつの間にか足を止めて、坂の上からこちらを振り向いていた。
「…あたしは…。だってっ、あたしは…っ」
「月子…っ」
叫びはしたものの、言うな、と、そこまでは声に出せなかった。自分が「ヒト」じゃない、なんて、言わなくていい。そう化野は言いたかったのだ。俺とギンコは知ってるけど、言わないから、月子。ずっと黙っているから。
「どう、してぇ…っ」
その言葉は、化野に向けた言葉だったのかもしれない。
ねぇ、どうして?
だって知ってるんでしょ?
あたしが「ヒト」じゃないって。
なのに、なんで優しくしてくれるの?
言わないでいてくれるの?
けれど、それへ化野が答える間なんかなかった。縋るように、月子の傍に膝を付いて、泣き崩れる女の声が、大きく響いていて、やっぱり何も言えなかった。
「どうして、って…っ、月子ちゃんの、お母さんにっ、なりたいからだよぉ…っ」
泣いている女の涙は、ずっと昔、死んでしまった彼女の娘のためのものかもしれなかった。でもその涙は悲しくて、熱くて、優しくて、月子は抱き締められたままでいた。女の次に追い付いた夫は、どこか怒ったような顔をして、せいせいと息を吐きながらたった一言、震える声でこう言った。
「心配っ、かけんでくれ…っ」
月子の小さな体は、女に縋られたままでそこに座り込んだ。涙に濡れた顔を、真っ直ぐに空へと向けて、彼女は…月を、見上げていた。零れたのは、大切な「弟」へ語り掛ける声だった。
「…月太ぁ。あたし…っ、あたしも…い、生き…」
生きて いたいの …
あぁ、切れ切れになっていた雲が、とうとうすっかり切れてゆく。月は真円の姿を現し、銀色の光が煌々と降り注いでいた。
誰の目にもそれはただの満月、けれども月子の目にだけは、違う姿に映っている。美しい満月は月食のように欠けていき、まるで、見えない何かに喰われるように、片側だけが消えていく。
「だめ…駄目よ。月、太…。つき…た…ぁ…っ!」
見開かれた目が、ずっと月を映していた。彼女はもう一度だけ、弱弱しくもがいて、けれども自分の体をしっかり抱いている女を、突き飛ばしたり出来ずに唇を噛んでいた。
半月身。
人の願いを叶えて
「ヒト」の姿になる蟲の呼び名。
名前の通りにその身は半分だけが「ヒト」。
残りの半分も「ヒト」になる為には、
おのれの半身、願いをかけたその人を、
喰らい尽くさねばならない。
座り込んだまま、じっと月を見上げる月子の顔が、一瞬少年の顔に見えて、化野は目を瞬いた。錯覚なんかじゃない筈だった。何を意味するかも、分かる気がした。
月子はいつの間にか意識を失っていた。夫婦は月子を家まで抱いて帰りたがったが、履物を履いていない女の足も酷い怪我で、そういうわけに行かなかった。気付いたら少し離れたところにギンコが立っていて、当たり前のように近付いて、当たり前のように淡々と月子を背負う。
「…先に戻ってるよ。そちらさんの怪我の治療、すっかりしてから帰ってきてくれ。月子の足、簡単な手当くらいしておくから、ゆっくりでいいぜ、化野先生」
「ギン…っ」
「騒ぐなって。もう、何も変わらねぇんだよ…」
軽く握った片手の甲で、ゴツ、と化野の額を小突いてから、ギンコは月子を背負い、ゆっくりと夜道を歩いて行った。
なんでか二話同時アップでラストまで行きますっ。一話毎はいつもより短いですが、だからって一話でラストまでは長過ぎるんでっ。頑張ったよ、惑さんっ。内容、ちゃんとしてるかどうかは、微妙だけどっ。
ちょっと何だか深い話になりました。これでもハッピーエンドと言い張るっ。では、ラスト一話もどうぞー。
13/03/14