半月身 ハン ゲツ シン 6
「…だぁれ…?」
揺れるその背中で、月子はすぐに意識を取り戻した。でも月子は暴れたりせず、大きな声を立てることもなかったから、ギンコも静かにこう言った。
「そうだなぁ。ただの通りすがりだよ、ちっとばかり、お前らの事情を知ってはいるがな」
「月太のことも、知ってるのね…」
ギンコは軽く、月子の体をゆすり上げた。
「もうちっと、しっかり掴まっててくれっか? あぁ、月太な。お前の弟だろ? 知ってるよ、さっきちょっと話をしたんだ」
ギンコは月子が聞けなかった、月太の言葉を教えてやった。それがあの少年の最期の言葉になるなんて、ギンコだって知りはしなかったけれど、声の響きの一つずつまで、はっきりと覚えている。
「月太はなぁ、お前の事が、好きだと言ったよ。お前と一緒にいたいっ、て、そういう意味の事を言ってたよ。お前がどういう存在か、小さいなりに分かってて、それでも自分が生きていたいんだ、なんて、言わなかったよ」
ギンコの肩に掛かる小さな二つの手が、両方とも、ぎゅう、とそこにしがみつく。月子は白い髪した彼の頭に、自分の額をくっつけて、そうして、小さな声で言ったのだ。
「知ってるわ。だって…あたしと月太は、さっき一つになったんだもの。月太は月のあかりに溶けたの。そうしてそのあかりは、あたしの中に入ってきたのよ」
ずうっと、傍にいるって、
あの子、言ったわ。
勿論よって、あたしも言ったの。
だって、元々ひとつなんだもの。
ギンコは足を止めた。そこはもう化野の家の庭だった。何にも遮られずに、月明かりが煌々と降り注ぐ庭の真ん中に、月太が着ていた着物が、脱ぎ散らかしたかのように落ちていた。
月太はここに居るままで、月子のことを全部分かっていたのだろう。今までよりもずっと強く、生きていたい、死にたくないと、そう思い始めた月子を感じていた。だからここで月明かりを浴びて、すべてを月子に渡したのだ。命も、この先の時間も、切なる願いごとまで、全部を。
「月太は消えたんじゃ、ないんだな」
「違うわ…」
月子の声は震えていて、さっきからギンコの髪は、何かの雫で濡れていたけれど、それでも彼女の言葉は嘘じゃないのだろう。嘘じゃないと、ギンコも思っていたかった。
「居なくなってもいない」
「そうよ、あたしの…中に居るの。ずっと居るのよ」
見上げた空に掛かる月は、これ以上ないほど綺麗に、円を描いている。
ギンコがこんなに長いこと滞在するのは、初めてのことだった。もう今日で七日にもなろうか。彼は部屋の隅の方で、黙々と蟲煙草を煙らせながら、縁側に座っている化野の背中に向けて、こう言った。
「中々、嘘が巧いな、感心したよ」
「…仕方ないだろ、ああ言うしか…」
化野は静かにギンコの方へ顔を向け、低くて小さな声でそんなふうに言う。彼が視線を戻した先と、ギンコが見ているものは同じだ。庭先から出て坂を下りて行く夫婦と、その間にいる赤い着物の月子。
昨日、化野は夫婦に言ったのである。実は、月太は元々罹っていた病で死んでしまった。月子はその病を知っていて、だからあの日、これから自分だけが生きて幸せになるのが辛くて、何処かへ逃げようとしたのだ、と。
それからこうも言った。そんな月子だが、もしもまだ気持ちが変わっていなかったら、ふたりの子にしてやって貰えるだろうか。月子は死んだ月太の分まで、幸せにならなきゃと思うんだ。
勿論、夫婦は喜んで頷いた。そうして今日、ようやっと少しずつ明るくなって、笑顔を見せるようになった月子を、連れに来たのである。
唐突にギンコが言った。
「今更だが、いいのかい?」
「何が?」
本気で分からないらしく、化野が眉を上げて聞き返す。
「…月子は元々蟲だったのが人になったんだぜ? そんなのを、この里に置いていいのか?」
「今更」
化野の答えは簡潔だった。彼は笑って、縁側に居るまま立ち上がる。
「いおがいるだろう、この里には。一人も二人も、仮にあともう一人増えて、三人居たって、同じだろうよ」
いおは元々人だったんだから、違うだろう、と言い掛けて、ギンコはやめた。違いやしない。この里で生きたいと望む命だ。どこを分け隔てろと言うのか。
「…あぁ、そう言やぁそうだったな」
ギンコは短くなった煙草を消して新しいのに火を灯す。そろそろここにいるのも限界だ。すぐにも発たねばならないだろう。あたりを漂い、足元を這う蟲たちの姿が、ちらちらと目に映っている。
「なぁ…ギンコ、夫婦にはああ言ったが、俺には一つ分からないことがあるんだよ。なんであの時、月子はあんなに急いで里から出て行こうとしたんだ?」
「…消えようとしたのさ。あん時ゃまだ月子の体は、人として不完全だった。どれだけ弱っていようと、元々人で生まれた月太の方が命として強いから、片方が里を出ちまうくらいに、二人が離れたら、命の均衡が崩れて」
月子は、蟲としても「ヒト」としても、存在できなくなって、崩れて、消えて無になる筈だった。
例え、自分が消えても、
大切な相手を、守る。
「流石は元々が一つの魂だ。月子と月太は考えることまで、そんなに一つだったんだ」
泣いて叫んで縋って、引き留めた「母親」の声がなければ、どちらが消えていたのだろう。いや、月太は消えたんじゃない、月子の中に今も居る。
「そう、か…」
しんみりと項垂れて、化野はそう言った。そこへいきなり女の声がした。たった今、坂を下りて自分たちの家に月子を連れて行ったはずなのに、一人だけ駆け戻ってきたらしい。
「せんせ、今の今でごめんねぇっ、釣竿、持ってたら貸しておくれでないかい?」
「つ、釣竿っ?!」
「そう、釣竿をさね。月子ちゃんがね。釣りを教えて欲しいって。弟がきっと喜んだだろうから、代わりに自分が覚えたいんだって。優しい子だねぇ」
何も今でなくとも、などと笑いながら、化野は慌てて蔵へと走った。女もそれへついて行く。その様子を見つつ、ギンコはのんびり立ち上がった。咥え煙草のままでふらりと立ち、木箱を背負って靴を履き、庭を出る前に彼は呟いた。
「…ありがとうよ」
面と向かっては言えなかったが、今回のことは、俺まで救われたような気がするんだ。死にたくないと訴えた子供を、ギンコは殺したことがある。あの子供は人の姿をした蟲だった。
ああするしかないと思ってしたことだし、今だって、あれ以外にどうできるとも分からないが、あれはずっと深く刺さった痛い棘のような記憶だった。似た命を一つ救えば、許されるというものでもないけれど。
「ありがとう…」
生きるということに素直だった月子にも、そうして別の命になって「姉」の中に生きる月太にも、そう言いたい気がしていた。
「…参ったね、この里、ますます…いい里になる」
今まで以上に、来ずに居られない場所に、なっていく。背を向けて、この里を出ながらギンコはそう思っていた。
終
難しかったですー。今、ちょっと、何か言いたいのに言葉出てこないっ。あ、あの最初にちらっと話だけ出て来た、月太の母親、ラストにギンコと擦れ違う予定だったんだけど、やめといた。
なんか、このままがよさそうですし。…っというわけで、読んで下さった方、ありがとうございましたっ。
13/03/14