橙の火  5     だいだいのひ







 何にも見えない暗がりを、手を引かれながら化野は歩いている。慣れた道の筈なのに、今は昼間のはずなのに。足元が定まらなくて怖い、目隠しの隙間から、光のほんのひと欠けすら入ってこない。

 どこへいくのだろ。
 どこへ。
 ギンコの傍へ行くのだ、どんなことをしても。

「怖いかい…?」

 化野の手を引いた男がそう聞いた。怖くなぞない、早く行こう、と、伝えたくて強く首を左右に振った。よろめいて支えられる。男の着ている着物からは、野の草の匂いがした。どこかギンコの匂いと似ている。

「先生、俺のことは、イサザって呼んでくれよ。まぁ、呼んで貰うような用が出来る前に、先生には一人で行って貰わなきゃならなくなるけどね」
「…ひとりで……」

 緩い斜面を登り、下ってはまた登って、時々曲がって方向を変えて…。澱みなく化野とイサザは歩いていく。化野は目隠しの闇の中を、見つめて歩くばかり。そしてイサザは多分、目の前をゆく何かを追いかけている。

 もう一度、言い当てるように彼は言った。

「怖いかい? 標はあるから、どっちへ行ったらいいかは分かるはずだ。見失わずにいけば、ギンコに会えるよ」
「…わかった。見失うものか」

 怖くないと言えば嘘になる。だけれど迷いはなかった。強く、化野がそう言うと、イサザは握った手のひらに力を入れて、ゆっくりと、ひとつひとつを大切そうに話した。

「ギンコは、多分、人の世と蟲の世の境にいる。こちらに戻れるかどうかは、蟲達が決めるんだ。先生はギンコのことを…。あいつのいいところを、きっと俺より沢山知っているだろう? だから任せるよ、連れて戻ってくれ、お願いだ」
「あんたは…」
「イサザ」
「…イサザは、ギンコの…」

 ふふ、と小さくイサザは笑う。

「俺がギンコの何かって? そうだなぁ、聞きたきゃ連れ戻したギンコに聞きなよ。きっと戻って来られる」

 斜面を、登る、登る。ずっとさっきから、ずっとずっと…。空気が澄んで、まるで真冬の空気みたいだと思った。しっかりと握っていたイサザの手が、不意に、ふ…、と感触を失くして、化野は慌てて闇の中を探った。

「あ…」


 さ
 ここから せんせい ひとり だ
 いって つれもどして くれよ
 きっとできるよ わかるんだ
 せんせいに なら

 
 聞こえた声が酷く遠くて…。

「イ、イサザ…」

 あぁ、違う。探しているのはイサザじゃない。ギンコを探しにきたのだ。迎えに行くのだ。ここから俺一人で。言われていたわけじゃないけど、自然に手が動いて目隠しを外した。真っ暗闇だ。何も見えない。目隠しを外さないでいた時と同じ暗がり。

 こんなところで、ギンコを探すのか。
 見つけられなきゃ、それきりなのか。

 イサザの言った「標」を、化野は遠くに見つけた。それは、青白く光を放つ、小さな小さな蝶だった。小指の爪くらいの大きさしかない蝶が、一匹だけ闇の中にいて、ちらちら、ちらちらと翅を揺らしながら化野の視線の先をゆく。

 そっちか。
 そっちへいけばいいのか?
 待ってくれ。

 ちらちら、ちらちら、ちらちらと。青白い翅の蝶がゆく。よく目を凝らしてみれば、それは蝶ではなかった。二枚の翅は、時に離れて、互いを追いかけるようにひらひらと揺れては、また一匹の蝶の翅のように番になった。きっと、蟲なのだろうと思った。


 待ってくれ。
 待ってくれ、息が切れる。
 待ってくれよ、足が縺れる。

 何処までゆけばいいんだ?
 何処へゆくんだ? お前は。
 あぁ、俺は、何処へ行きたい?


 長い長い、先の見えない彷徨いの中、闇の中でその蟲の光を、追いかけるのは果てしなく。ともすれば右も左も上も下も、自分と闇との境界も曖昧になる、そんな不安が胸に染みてくる。
 こんな濃い闇なんか初めてだ。心の中まで真っ暗になりそうだ。心が真っ黒になったら、自分が怖がりだと思い出す。人は臆病で愚かなんだよ。大切なものが欲しい癖に、失くすときのことを思って縮こまる。

 ちらちらと揺れる、青白い蟲が綺麗だ。捕まえたら、お前、なんていう? おや? お前っていうのは、誰のことだったか。

 待って、くれよ
 あぁ、だけど、俺は、
 どうしてこんなとこにいる…?


 迷いが生じて足が緩む。立ち止まりそうになった化野の前に、青白い小さなその蟲が戻ってきて、ゆっくりと呼吸するように、色を…変えていった。
 青白い色から、ゆるりと…翡翠の色へ。化野が、愛しく思う美しい色へ。淋しがりで意地っ張りで、強がってばかりだけど、ほんとは弱い、そんなあいつを思わせる色…。

 ギン… コ… 

「ギンコ」

 気付けば化野は、どこか分からない山の山頂へと来ていた。相変わらず見えるのは殆ど闇ばかりで、それでも濃い黒の山の稜線と、濃い藍色の空が見えた。それから『標』となってくれた小さな蟲の、小さな光と。
 光は、見ている前でずっとずっと、高いところへ昇っていく。化野の目には見えはしないが、ここに枝を広げる大樹があるように、その蟲は、見えない木の枝の間を縫うようにしながら、ずっとずっと高くまで昇って。

「ま、待ってくれ…っ。そんなところへは行けない! 待っ…」

 標にしてきたその蟲を、見失ってしまったその時に、化野は見つけていた。まるで、夜空に光る星のように、酷く遠くで、ぼんやりと光っている、柔らかくて温かいような、橙の…灯…。 

「…あぁ……」

 化野は、ひいやりと冷え切っていた息を吐いた。何も、考えてなどいない。何故そうしたのかも分かりはしない。両手を真っ直ぐに闇色の空へ向けて、苦しいくらいその空の方へ顔を上げて、切なくなるようなその橙の灯火だけを、一心に見た。見つめた。

 …返してくれ、返してくれ
 どうか、返してくれよ
 俺の、あぁ、俺の大切なあいつを。
 代わりに何かを渡せと言うなら
 なんだってやるよ。

 あぁ、どうか…。

 化野の願いが届いたのかは分からない。けれど橙に光るそれは、ゆっくりと、ゆっくりと下りてきた。受け止めようと手を伸ばして、一心に手を伸ばしていたが、化野のいる場所よりずっと離れたところへと、その灯は下りていく。
 闇の中に下りてきたその灯は、あたりをぼんやりと照らし、ほんの狭い小さな丸い円を作っていた。その円の中心に誰か…人影…。

「…ギン…コ…? ギンコ…っ…」

 ギンコが居た。化野は走った。目茶目茶に走った。相変わらずの闇の中、すぐに転んだ。でも怯まずに起き上がって走った。橙色に照らされた円のすぐ外に、何かがぼんやりと見えていた。
 ほの白い人のような形をして、ゆらゆらと揺れているいくつもの…。それらがギンコを取り囲むように、奇妙な円陣を作っているようだった。どこからか、子供の声がする。

 いっちゃ だめだよ
 いけば なにがおこるのか
 しらないよ

 しらない よ

 だけれど化野は、少しも怯まなかった。いや、怯んだけれど足も心も止まらなかった。うっすらと、人の子供の形の白い影が見えた気がしたが、化野がその傍を走り抜けると、靄か煙のように、それは消えてしまった。

 し らな …よ … 

「あぁ、そうだとも、知るものか…っ」

 大声を出したその声に、ギンコがやっとこちらを見た。驚いて目を見開いた顔が、次の刹那には引き歪んで… 泣いた。ギンコは、泣いたのだ。唇が動いて、声は聞こえないのに、なんと言ったか読み取れた。

 くるな   もう いいんだ   あだしの

 もう じゅうぶん だから 


 よくなんか無い。諦めない。走って走って、転んだらそのまま這うように前へと進んだ。揺れる白い人影に、とうとう伸ばした手が触れて…。

「あだしの…ッ…!」

 悲鳴のようなギンコの声。泣き顔。震える指。濡れている睫毛。触れた手、触れた胸、抱き締めた…体。

「なん…で…」
「は…、すき…だからだ。言ったろ、恋にりゆう、なんか…」
「あだし…」

「…帰ろう、…ギンコ…」

 けれども、二人は、揺れる白い人影の円陣の、内側。
















 書きたかったシーンが書けました。化野が闇の中で青白い蝶を追いかけるシーンと、橙の灯がゆっくりと下りてくるシーンです。が、思うとおりに行かないもので、私がイマイチ、と思っちゃうんだから、読んで下さる方には、どのくらい伝わるのかなあ…と…。

 こういうとき、文字ではなくて絵で表せる才能が少し羨ましくなります。いや、でも私はやっぱり、文字が好きだし、いいのよ。もーう、さっぱりヘタレだけどーーー。

 いつも読んで下さる方、pixivでと、サイトで、両方の方へ感謝っ。多分、次回でラストになります。どうぞまたお付き合いくださいますよう。あ、関係ないが今日はバレンタインでしたよねww


12/02/14