橙の火  6     だいだいのひ






 帰れねぇよ、ここからは…。

 ギンコは絶望の中でそう思った。泣いたって、喚いたってどうにもなりはしない。「理」の円陣の只中で、消えていった一人の娘を思い出す。だけど帰れないのは自分一人だけの筈だ。咎人は自分なのだから、闇に飲まれて己が消えれば、化野は無事に帰されるはず。

 最後だ。そう思いながら、ギンコの眼差しが静かに、けれど貪るような思いを込めて化野を見る。穏やかで優しい口元、あんましきちんとしていない髪、くるくると表情を変える目。そうして今も、頬に触れている彼の指。
 何度も何度も、ギンコを愛した指だ。愛しげにギンコを呼んだ声。重ねた肌。眠るまで、いつも聞いていた化野の鼓動と息遣い。包み込んでくれたぬくもり。

 いつか俺が来なくなっても、
 気に病むなよ、化野…。

 お前、あんなに怒ったから、きっと覚えているだろう。今がまさにその時だよ。俺がここに一人残って、それを最後に会えなくなるから、そうしたらお前は俺のことなんか、すぐに遠い過去にして、これからも幸せに、笑って暮らしていってくれ。

 ギンコは聞いた。なんでもないことのようにいつもの口調で。

「なぁ…お前、どうやってここに来た…?」
「…青い、小さな蝶に導かれて来たんだ。それから、橙色の光が下りていく場所を見たら、ここにお前が」

 その青い蝶ならどの蟲のことか、ギンコには分かる。ムシツドイの邪魔をしてしまった時は、まさにその蟲を逃がしてやろうとしていたのだから。そしてあの時あの場所から、ギンコはその蟲を無事に空へと放ったのだ。

 なんだ? 恩返しのつもりなのか? 
 もしもそうなら、ありがとうよ。
 最後にこいつと会えて、嬉しかったよ。
 悪いが、もう一つ頼まれてくれ。
 こいつを「ヒト」の世界へ帰して欲しい。

 そうと願いながら、視線だけで闇の中を探すと、その蟲は綺麗な淡い青をして、ずっと遠くから、ゆらゆらと近付いてきてくれる気配を見せた。

「ほら、化野、あの蟲だろう。見失わないようについて行けよ、そしたらきっと、元の場所へ戻れるはず」
「………お前は?」
「俺か、俺はな」

 うっすらと、ギンコは笑った。それから、とん、と軽く化野の背を押して、円陣の外へと押し出すと…

「俺には、しなきゃならないことがあるんでな。迎えに来てくれて、ありがとうよ。それにな…今まで、本当にありがとうな、化野…あだしの、ありがとう」

 化野が円の外に出た途端、光たちの円陣が急に狭くなった。ほの明るいその光は、ギンコの姿をぼんやりと白く照らし、消えそうな蝋燭の火のように儚げに揺れている。照らされたギンコの頬が、零れる落ちる沢山の雫で、濡れるのが見えた。

「…ギ、ギンコ…。お、俺は嫌だぞ、一人でなんぞ帰らない。お前を置いていくくらいなら、俺もそっちへ行くぞ。ついていくぞ、ギンコ…っ」

 叫び声を上げた化野の姿を、青い波が唐突に包んだ。それは、美しく青く光る無数の蟲だ。
 化野をここへ導いた蝶の姿の蟲が、仲間と共に、まるで一つの大きな生きた波のように、青く輝きながら彼を包んでいる。ついて行けなぞとんでもない。むしろ押し流されていくのだ。見失うな? 目が潰れそうなほど眩しいものを、どうやってこれを見失えというのか。

「あ、ぁ…。…駄目だ…っ、ギンコ、お前を置いていくんなら、俺もここに…っ。おれ…も…ッ…」

 蟲は、化野の言うことなど聞きはしない。ギンコが助けたその蟲は、こうして仲間を集めてまで、ギンコへ恩を返そうというのだろう。見るからに頼りない化野を、こうして押し包んで「ヒト」の世へと帰してくれるというのだろう。

 必死になって化野はギンコのいる方を見たが、そこには既に闇があるだけで、愛しい男の姿は見えなかった…。

 あぁ、あぁ…。どうして…。
 どうして、お前がこんな目に…。
 お前はそんなに優しいじゃないか。 
 いつだって、誰よりこれらの小さな命を、
 大事に、大事にしているじゃないか。

 それなのに贄となるのか。
 そうなんだろう?
 ヒトビトの尽きぬ罪を、
 たった一人で、かぶるようにして…。

 そうしていうのか。
 俺へ言うのか。
 忘れてしまえ、と、そんな残酷なことを、

 お前は、言う…のか…

 あぁ、あぁ…


 
 気付いたら、そこはいつもの縁側だった。廊下の板の上に寝かされて、額に濡らした手ぬぐいがのせられていた。傍らにいるのはイサザ一人で、そこから見える庭にも、障子を開け放った家の中にも、ギンコの姿は見えなかった。

「…ぅう……」
「気付いたね、先生。無理に動かない方がいいよ。長いこと沢山の蟲の中にいたから、今はあてられて体の自由が利かないと思うからさ」
「……ギンコ…」
「…あいつなら、今に戻るよ」
「ギンコ…」

 イサザの言葉は、気休めだとしか思えなかった。俺はあいつを助けられなかったのだ。青い蟲たちに押し流されて、ずっともがいていたけれど、結局は何も出来なかった。
 あの蟲たちの「青」は段々と光を増して、目を開けていることも出来なくなって、固く閉じた瞼の向こうに、どうしてか、柔らかな橙の光を見た気がした。理由は分からなかったが、そんなことは、どうでもいいことだった。ギンコを失った今となっては…。

「ぅう…。…ギ…ン…」
「…先生、ほんとにギンコのことが好きなんだね」

 しんみりとそう言って、イサザが化野の髪をそっと撫でる。ギンコと似た野の匂いに、化野はぼろぼろと泣いて、自分の体の上に掛けられている布をきつく握り締めた。その握った手の中に、丸い小さな固いものを感じて、それが何故だか気になって、化野はそれを握ったまま手を持ち上げた。

 固い丸いものは、上着の袖の、釦だった。濃い灰色ともなんとも言えぬ、古びてよれた…これは…? この上着は…。

「だいじょぶか、お前? 俺の上着の袖なんか握って泣いてて」

 びちゃ、と絞り足りない濡れた布が、額に乱暴に当てられた。その布を放った男は、それを握って化野の額どころか、目元まで覆って、そのまま彼の顔をごしごしとぬぐって。

「…っ、ぁ…、え、ギ、ギンコ…っ! ギンコっ?!」
「ぁあっ、いいから…っ、まだ起きるなっ。蟲の影響が抜けてねぇんだ、じっとしてろッ」
「ぎ、ぎんこ…っ? ギンコ、ギ…っ、うぐっ」

 額を冷やすはずの布で、今度は強引に口を塞がれて、やっと化野の目がギンコの姿を映した。あぁ、本当にギンコだった。またぼろぼろと化野の目から涙が零れる。

「…蟲の様子、見てくる」
「そんなしょっちゅう見なくていいと思うけどねぇ」

 イサザの言葉に返事もせずに、盛大な溜息をもう一つ零しながら、ギンコは裏の井戸の方へと行ってしまった。イサザは化野が無理に起き上がろうとするのを、軽く片手で封じながら教えてくれる。

「ちゃんと戻ってこれたんだよ。先生も、ギンコも。ムシツドイが蟲たちにとって、『蟲の宴』ほど大仰なものじゃなかったらしい、ってこともあるけど、なんか、二人一緒に、あの青い蝶の蟲の群れに飲まれたんだって? 凄いね、蟲の恩返しってヤツかな。前にギンコが助けて空に放った蟲だったらしいから」

 ムシツドイ? 蟲のウタゲ? なんだそれは。

 そんなものがあることすら、化野は知らない。イサザの言っている事でわかるのは、自分がギンコと共に、ちゃんとここへ戻ってこられたということくらいだ。それと、自分達が蟲に助けられたっていうことと。
 イサザは化野が、何も分かっていないことを承知で、さらに独り言のように言い足した。彼がずっとギンコに言いたくて、今までずっと言えずにいたこと。そして本人に言っても、多分、根っこから否定されて終わりそうなことだ。

「ギンコは、いつも自分ばっかり悪い悪いって…。罪深いのなんか、生き物全部がそうなんだ。人間なんて、取り分け罪の権化みたいなもんなんだしね。そんな人間たちの中でも、ギンコはちゃんと真っ直ぐだよ、先生も知ってるだろ…?」

 正直、なんの話かわからなかったが、最後の問には化野は大きく頷いた。それを見て、満足そうにイサザは笑う。

「だから、昔の間違いや過ちなんかなんて、もうとっくにあいつはつぐない終えてる。なのに、いつまで『咎人』でいるつもりなんだかね」

 ふう、とイサザは一つ溜息を吐くと、横によけてあった蓑を肩に掛けて立ち上がる。

「じゃ、俺、いくからさ。よろしく言っといてよ」

 そう言って、化野が起き上がろうと足掻きながら引き止めるのも、さっぱり聞かずに彼は行ってしまった。
 まだ寝てなよ、と化野に釘を刺していったが、そんな言葉を聞き入れて、じっとしているわけもなく。化野が無理に立ち上がって庭に下り、壁伝いに裏へ行くと、ギンコがじっと井戸の中を覗きこんでいるのが見えた。

「あいつ…っ」

 見てろって言ったのに、と、イサザへ向けて悪態を吐いたギンコに、もう発ったよ、と化野は教え、ゆっくりよたよたと近付いた。

「何かいるのか…?」
「…あー…。あの蟲だよ、青い蝶の。ちょっと井戸の中の冷えた空気ん中で休ませているが、じき飛び立つ。『標』にも居てもらってるしな」

 標。標というのはその青い蟲ではないのか? ギンコの元まで導いてくれた。そうして荒っぽい方法ではあったが、帰りもヒトの世へ送り届けてくれた。化野が感謝してもし切れぬ蟲だ。落ちないように慎重に近付くと、彼は何も見えない井戸の中へ向けて小声で言った。

「…ありがとう」

 気配は勿論、蟲の姿はもう化野には見えない。あの空間でだけ見えたのかも知れぬ。美しい青だった。もしも宵闇の中で、海の水が真昼のように光ったら、あのようだろうかと思う。

「あ、もう飛べるのか? 無茶すんなよ…」

 不意に、友人にでも言うように、ギンコはそう言って、井戸の中から上へと視線を動かし、ずっと…ずっとずっと高いところを見た。見えない木々の枝の間を縫うように、沢山の青い小さな蝶たちが、空を目指して舞い上がっていくのが見えている。

「あ、あれは…?」
「ん?」
「あれだよ。あそこ、ほら、なんか橙色の…あったかいみたいな光が、あぁ…行っちまう」

 化野はよろけながら空を見ていた。青い蟲たちは見えないけれど、あの空間で見たのと同じ、橙の光が確かにぼんやりと見えて、それがゆっくりと夕の空を渡っていく。

「見えたのか? 今度はあの蟲が『標』になってくれたのさ。俺らを助けるのに、こんな人里まで来ちまったんでな、あの青い蟲たちは自力じゃ住処まで帰れねぇし」

 そうか、と、ぽつりと化野は言い、それからギンコを真っ直ぐに見てこう言った。

「蟲同士だの、蟲が人の標をしてくれたりだの出来るんだ。俺もお前の標になるぞ」
「…何言ってる」
「分からんふりなぞするな。この標を見失って、お前がここに戻らんようなことがあったら、どこへでも、お前の標になりに俺はゆくぞ」
「………」

 項垂れて、首の後ろを掻きながらギンコは黙っていた。

「ギンコ…!」

 さらに言い募ろうと、化野は一歩踏み出すが、まだ自由にならぬ身で躓いて、しっかりとギンコに支えられる。近付いた顔。頬に届いた暖かな息遣い。どちらからともなく互いを抱いて…。

「分かったよ…」

 口付けは、不思議なことにギンコから。深く吸うでも、強く求めるでもなかったが、長い時間唇を触れ合わせてから、彼は言ったのだ。

「あんなとこまで来られちゃ、堪んねぇしな」

 そう言った。そしてギンコの視線がまた、空を見る。蟲の姿でも探しているのだろうか。そしてすぐにでも発つと、言い出すのだろうか。

「ギンコ…。あ、そうだ。そういえば、あのイサザとお前とはどういう関係なんだ? お前に聞けと言われたんだが」

 籔から棒にそう問われ、ギンコは怪訝な顔をする。それに、なんだその聞き方? 友人、知人、幼馴染? 仕事関係? 時には雇い主。どれにも該当するのだが、一言ではなんと言ったものか、咄嗟のことだと分からない。

「あー…。そうだな、お前と俺に近いかな…?」

 なんとなく曖昧に答えたつもりが、化野の目がつり上がる。

「な、何…っ」
「…いや、そうじゃなくてな、あの…。好きとか特別ってんじゃなくて、信頼しているという意味で言ったんだ」
「そうか…。うん、そうか、そうか!」

 途端にご機嫌になる化野の、その理由には気付いていないギンコ。好きだ、と、はっきりそう言った、ギンコの言葉を大事に、化野は胸の奥に抱き締めている。

「ギンコ、俺も…、いや、なんでも。なぁ、今夜は早く寝なくていいのか?」

 そう聞かれて、ギンコは段々と暗くなっていく夕空を眺めて言った。大事な片目が、また見えなくなっていく兆しはない。俺はまた「理」に許されたのか…? どこからも、答えるものはない。なら、生きてていいのだ。きっと「その時」までは、生きろということだ。

 そう思うことを、どうか許して欲しい。

 遠くを見ているようだったギンコの目が、すぐそばにある化野の顔を真っ直ぐに見た。

「あぁ、そうだなぁ、昨夜のあの酒まだあるのか? あるならゆっくり飲みてぇな。次に来た頃には、きっとお前一人で飲んじまってるだろし」

 次にくる時のことを、何気なく口に出来る幸せを、ギンコは静かに噛み締める。

「そりゃそうだ。でも次の時にはまた何か、いい酒を用意しとくから、それを楽しみにくりゃあいい」
「無理して取り寄せたりしなくていいからな、化野。まだ…これから何度でも、俺はここにくるんだから」

 橙の、あの温かな不思議な光。小さくとも確かな、あの命の光のような、俺のたった一つの「標」を目指して、何度でも。何度でも…。




 終







 長すぎなラスト一話。読んでいて疲れ目になってしまった方、本当にスミマセン。打ってる私も相当に疲れ目です。三時間半ぶっ通しとか、もう馬鹿だ。色々と謎な点がある気がしますが、それはほら、アレだ「蟲なんぞ、わかってないことが殆ど」なんで。←オィィ!

 ギンコはきっと、自分はいつか「理」に裁かれる、と思っているんですよね。でも、実際にそうかどうかは分からないわけで、ギンコを好いて、助けようとする蟲もいるわけですよ。
 ムシツドイの邪魔をした人間は、そのまま異界から出られなくなったり、出られても病になったり怪我をしたりして、代償を支払ってヒトの世に戻される。ギンコと化野が許されたのは、あの青い蟲と、ギンコと直接会った橙の火の蟲が「助けるべき」だと思ったからだと思います。

 作中にうまくそれを書けなくて申し訳ない。もっと頑張るわ。うん。さて次は何を書くんだったか…。



12/02/26