橙の火 4 だいだいのひ
お前、今、見極められてるとこかもしれないよ
イサザは真摯な目をしてギンコを真っ直ぐに見ながら、そんな言葉を放った。化野は奥の部屋で、急ぎの薬作りをしていて傍にはいない。
だが、今にも用事を終わらせて、縁側へ来やしないかとギンコは案じた。イサザの声は大きくはなかったが、聞こえているかもしれない。聞こえれば、誰と話しているのかと思って顔を出すだろう。イサザが言う。
「とにかく、蟲ども今、お前をどうかしようとしているかもしれないんだ、些細なことでも何か」
やめてくれ。ここで今そんな話。あぁ、でも、こんなところまでイサザが俺を追ってくるなんて、それほどのことなのかと怖くなる。気遣う言葉の、一つずつが重い。
「どこか身の回りで変わったことは起こってないか。夢見が悪くて眠れないとか、どこか痛いとかだるいとか」
「目…」
「…目? 目がどうかしたのか、ギンコ」
「夕から朝まで…見えなく…」
見せろ、と言って手を伸ばしかけたイサザの前で、その右目を押さえてギンコが項垂れた。
まるで…
まるで、太陽が唐突に地へと落ちたようだった。眩い日差しが届いていた庭を、薄闇が覆っている。でも多分それはギンコの視野にだけだ。イサザはギンコに訪れた異変が、どんなものかも分からずに彼の肩に触れた。
「どうした?! ギンコ」
「…やめてくれ、大きな声を出さないでくれ…化野が気付く。知られたく、ねぇんだ」
「…ギン…」
イサザは口を閉ざして、ギンコのしようとしていることを見つめた。恐らく、もう殆ど見えなくなっているのだろう。手探りのように縁側から畳の間へ這い登ろうとしている。そして、隅に置かれた木箱の方へ…。
イサザにも、何かを考える余裕などなかった。突き動かされるような心地がして、ただギンコの願い通りにしてやりたいと思った。彼は勝手に中へと上がり込むと、ギンコの手に、彼の取りがっていたものを渡してやる。木箱と上着、それを両方持たせると、ギンコはイサザの腕を強く掴んで、震える声で言ったのだ。
「もう、時間がないらしい…。感謝するよ、イサザ。あいつの見てる前で消えずに済む。出来れば化野に会って、俺が急な仕事の依頼で発ったと言ってくれ。もう来れないなんて、知られたくないから…」
「ギンコ…! 命までとられると決まった訳じゃ…」
「それだって、目は見えなくなっちまうんだ…っ。今まで通りじゃないだけで、理由なんか充分なんだよ…! イサザ…どうか、頼まれてくれ…」
「…わかった」
あぁ、ギンコは本気なのだ。本気で人を好いたのだろう。愛しい相手を危険に曝すくらいなら、二度と会わぬと誓うほど。
「わかったよ、ギンコ…。でも、俺も…お前の大事なあの先生も、お前の戻るのをずっと待ってるよ」
最後に一度、家の奥の方を向いた後、手探りの仕草で、歩き慣れた山へ入っていくギンコを、イサザはその庭先から眺めていた。
見間違いだと、信じられたらどんなによかっただろう。木や枝の向こうになって見えなくなるより先に、ギンコの体が消えていくのが見えた。足元から闇に這い登られるように、黒に覆われて、ギンコは何処かへ消えたのだ。
知らぬ間に縁側に腰を落として、イサザはぼんやりと遠くを見ている。
ムシツドイ、という現象が、蟲どもにとってどれだけ大事か、ワタリのイサザでも知らない。ただ、それと知らずに邪魔したものが、忽然と消えただの、治らぬ病になっただの、そんな話は幾らも知っていた。
この世界が、人間ごときに覆せないもので、満ち満ちているということも分かっている。
「……どちらさん?」
いっそ間の抜けたような声をして、化野がイサザの背へと話しかけた。イサザは立ち上がり、固く強張った顔に無理に笑みを浮かべて言った。
「あぁ、邪魔してるよ。俺はワタリのイサザという」
化野の目が、ギンコの姿を探して惑う。顔色が変に白いのは、何かに気付いているからだろうか。
「…ギンコに、急ぎの仕事を持ってきたんで、あいつは今さっき発ったよ、先生。あんたによろしくと言っていた」
彼の手にしていた山ほどの薬包紙が、ばさばさと畳の上へ落ちた。一つ二つは紙が解けて、磨り潰して拵えたばかりの薬がそこへ零れる。それを拾おうともせず、化野はイサザを見据える。見る間に色を失くした唇が、酷く震えて言った。
「嘘だ……」
無理やり作った笑みを、そのままにしておく努力をイサザはすぐに投げ捨てる。あぁ…ギンコ、悪いな。でも、もう約束は果したよ。お前が言った言葉は告げた。この後何を話そうと、そこまで約束していやしない。
「うん、嘘だ。ギンコは俺らの手の届かないとこへ、連れてかれたんだよ、化野先生」
取り戻したいだろう
あぁ、俺もだよ
奇遇だね
初めて会ったのに
気持ちは同じだ
視野を奪われて、盲目のままでギンコは山へと踏み入った。足が覚えている道を、走るような勢いでゆきながら、枝で頬を切り、足元の木の根にも邪魔をされた。転びかけ、ついには転んで手を擦り剥き、方向すらも分からなくなって、それでも逃げるようにギンコは進んでいく。
蟲を寄せるこの身で、その蟲が見えなくなった自分。この里にとって、化野にとって、このうえなく危険な存在になってしまった。近くにいられる訳がない。
深淵の闇ばかり見つめていたら、その闇の中に、やがては恐ろしいものが見えてきた。光だ。ぼう、と地から立ち上がり、そのいくつもの光で描いた、一個の円陣。
いつしかギンコは、人ならざるものの場所を、歩かされていたらしい。
あれは…そう、あの輪だ
光の輪 が 見える
近付いてくる ゆっくり と
俺を 探して いる のか…
いつかは終わると 分かって いたさ
だけど 今だ なんて
嘘 だろう …?
そういえばそうだった。俺は理に一度は背いた。許されてこの世へ戻されたと思ったが、実はそうじゃなかったのだろう。そうでなくても、もしもあれが二度目の過ちなら、今度こそ世界が俺を許さない。
行くなと言う場所へ、たった一歩踏み入っただけなのに、そんなことですべてを断たれるのか。悪気も何も無い、知らなかっただけなのに、ここでもう終いか、やっと手に入れた何もかもが。やっと楽になれる、なんて、過去の俺なら言っただろうに、今はそんな言葉も出ない。
お前と出会ったからだよ
会えて幸せだったなぁ
ほんの数年、だったけど…
光が描いた円陣は、どんどんギンコに近付いてくる。覚悟なんて出来てない。もう一度でいい、化野に会いたい。最後に一言、声を聞きたい。あの手に触れたい。抱かれたい…。これから何度だって会って、共に過ごして、繰り返す年月を、お前と共の世界で生きたい。
なんて大それた願い
なんて我侭な望み
罪人のくせに
咎人の癖に
涙の溢れる目を見開いて、何も見えぬ天を仰いだ。ずっとずうっと遥か遠くに、ひとつっきりの光が見えた。あぁ、あの日に見た橙の、小さな仄かな灯が、小さくあそこに見える。見失いそうな小さな星のように、ぽ… と、一つ灯って見える。
あったかくって、やさしくって、まるであの橙の灯はお前のようだな…。手が届いたら、も一度会えやしないだろうか。愚かな夢だ。叶いそうもない。
ちか ちかり
灯は瞬いて、今にも、あぁ…消えそうだ。
続
この話を書きたかった理由…。というか、このシーンが書きたくて書いてますーっていうことは、いつだかブログに書いた気がします。いや、もううろ覚えですが。なんというか、蟲と蟲を含む世界が、美しいんだなぁ…って、そう思えるようなシーンが書きたかったんです。
でもって、イサザを出す気はちっともなかったのに、最近、イサザが出張ってくるなぁ。まあ彼も好きだからいいんですよー。え? あ、そうかっ、これ、fさんの影響かもですよv
ふふふっ。
12/02/04