橙 の 火 2 だいだいのひ
ギンコが来ない。
春に来て以来、ずっと来ない。季節はそろそろ冬に差し掛かる。今来なければ次の春まで来ないことは、化野も分かっていて、だからこそ彼は苛立っていた。数年前に告げられた言葉が、耳の奥で何度もこだまする。やめてくれ。わかった、なんて、俺は一言も言ってない。…言ってないのに。
いつか俺が、ここへ来なくなっても …
縁側から見える風景からは、もう秋の色が抜け落ち始めている。色づいた葉が散り、そうこうするうち、雪が降るのだ。冬が来ればギンコは来ない。それでも次の春にはくるだろうと、能天気にしていられないほど長い間来てくれないまま、俺に長い冬を堪えろと言うか。
酷い男だよ、お前は…。
酷い恋人だよ、ギンコ…。
どうすることも出来ないで、庭の落葉樹の葉がまた一枚散るのを、唇噛んで化野は見る。冬の気配から目を背けるように、彼は診療日誌の上に視線を落とした。
かさり、と、その時、誰かが落ちた葉を踏んだのだ。里人か、と顔を上げた化野が、手にしていた筆を取り落とす。文机からそれは転げて、畳に点々と墨の跡を印した。
「…ギン…っ…」
「あぁ、ほら、墨」
「ギンコ…っ…ギンコ…」
会えない間も胸が痛いというのに、会ったら会ったで、同じその胸に何かが刺さったような心地がする。晩秋の冷気をたっぷり纏う体を、化野は目茶目茶な勢いで抱き締めた。力を込めて抱き締めた。
あぁ あぁ この腕二度とほどかずに、ここにお前を縛れたら、どんなにか幸せだろう。どんなにか…もう他の事がどうでもよくなってしまうだろうか。それくらい好きだ。なのにギンコはいつも通りで、会えずに過ぎた日々の長さを、どっかへやってしまおうとしている。
「おいおい、誰かきたらびっくりするだろ、手ぇ離せよ」
「離してもいいが、次の春にまた必ず来ると約束しろ、ギンコ」
「…あぁ、いいよ。嘘になるかもしんねぇ約束しか出来ねぇけど、それでいいんならな」
棒のように立ったまま、化野の体に腕を回してくれることさえない。そうして返ってくる言葉も、こんなに冷たいこの男を、なんで自分は好きなのか。ただ、我慢ができる理由の一つには、このつれなさがギンコの本心じゃないと、とっくに分かってることにある。
「来い」
無理やり腕を引っ張って、靴を脱ぐ間も急かしながら、化野はギンコを家に上がらせた。縁側を跨いだ次の間に引き入れると、さらりと障子の一枚を閉め、もう一方は開けたまま、化野はギンコの首に腕を回した。
「ん」
「……」
何も言わせず、口を吸う。嫌がりもしない、答えもしない。腹の立つほど「無」のままの反応は、けれども長くは続かなかった。冷えたギンコの唇に、化野の唇の温みが移り、それと一緒に彼の想いまで移っていくようだ。斜めに触れた唇の角度を変え、深く重ねて舌を這わせると、ギンコは小さく顔を顰める。
「ひる…ま、…っから…っ」
「…安心しろ、夜は夜で、見合う想いをくれてやるよ。嫌ってほどにな…」
「ん…、ぅ。ふ…」
抗うように、化野の胸に触れたギンコの指が、藍の着物の生地を握る。押し戻すような動きじゃなく、逆に縋りつくようだ。
「なん…っ、で、お前…、俺なんか…に」
唇を離すと、ギンコはそう聞いてきた。初めて聞かれた。化野の胸が鳴る。湧くように嬉しくなってくる。好きだ好きだと何度言っても、そんなもんは気のせいだとか、ただ髪や目が珍しいんだろう、とか、そういう素気無いことしか、ギンコは今まで言わなかったから。
「恋に理由は無いと思うが」
「こ…っ…」
当たり前みたいにそう言ってやると、ギンコは盛大に赤面した。可愛くて堪らなくなって、さらに口を吸おうとしたら、酷い勢いで突き飛ばされる。転ぶまいと踏み止まるも、振り回した手が当たり、ばり、と音を立てて障子が破れた。
「何をするんだ、お前はっ。これから寒くなるってぇのに! こりゃ紙、貼らんと駄目だな」
「知るか。破ったの俺じゃねぇし」
他愛もないやり取りが、図らずもギンコの思惑に味方している。会えなかった長い月日は、もうすっかり埋められて、無かったことにされそうだ。
「なぁ、ギンコ、すき間風が寒くないように、今夜は夕餉の後に酒でも飲もうか。とっておきがあるぞ。お前もきっと、こりゃ美味い、と」
「いや、今日は飯を食ったら床に入りてぇかな。まだ早ぇのは承知してるが、もう食っちまわねぇか? 化野」
「……それ」
早く寝ようという意味かと思って、化野が嬉しそうに聞きかけると、化野の方を見ないようにしながら、ギンコは言った。
「ここんとこ、あんまし深く眠れてねぇんだ。ここなら獣に襲われる心配ねぇし、荷をあさられる不安もいらねぇからさ。ぐっすり眠りてぇんだよ、久々に」
でも、お前が俺を抱きてぇんなら…
…寝入るのは、その後で充分。
言葉になっていないギンコの許しを、化野は肌で感じる。それが当たっている証拠に、化野がますます上機嫌になって、夕餉の支度をする前に床を延べているのを、ギンコは一言も咎めなかった。
ただ、ギンコが早く布団に入ってしまいたかった理由は、別のところにあったのだ。ずっと熟睡できず、不安な夜ばかり過ごしてきたのにも理由はある。
夜が怖い。
闇が、怖い。
灯りなど無意味だ。どんなに太い炎をかざそうと、夜を向かえる刻に、ギンコは容赦なく闇に放り入れられる。ただの草の音は獣の気配に思えた。歩み寄る誰かの足音は、どれもこれも悪さをする輩の足音に思えた。
片目を失ったガキの頃からずっと、宵闇を知らずに過ごしてきたから、いきなり自分を包み込んだ闇が、牙でも生えているように恐ろしい。
ずっと化野に会いに来なかったのも、自分に憑いたその蟲を、払ってからにしたいと思っていたからだった。誰より気心知れてる筈の化野にも、出来れば自分の弱みは隠していたい。そう思われていると知ったら、きっと。
いくらお前だって、怒るんだろうな。
俺はこんなに俺を好いてくれてるお前のことだって、
大して信用しちゃいねぇんだ。
隠して零す歪んだ苦笑に、心の隅で化野の声が、如何にも言いそうな問いを放つ。
じゃあ、どうして会いに来た?
じゃあ、どうしてここでの夜なら、
ぐっすり眠れると思ってるんだ?
まだ夕方というに相応しい時刻だというのに、ギンコの願いを聞いて、化野はうきうきと夕餉の支度をしている。その背中を眺めながら、ギンコは言葉にしない言い訳を綴った。
それはほら、余所より少しはマシだと。
たった、それだけのこったよ…。
「ごちそうさん。…さてと」
掻き込むように夕餉を平らげ、ほんの少しだけ出された酒まで、味わうでもなく、ぐい、と呷ると、ギンコはすぐにも床へ向かった。まだ化野は半分も食べ終えていなくて、びっくりしたようにギンコを見る。
「早いな、おい。あ、風呂は?」
「あー、入った方が…」
「いや、温まりたいかと思っただけだよ。お前、ここに来る前は大抵どっかで水浴びてくるとか、そういうことして来てるだろう? …なんだ、気付かれてないと思ってたのか」
「…別に、たまたまだ、そんなのは」
素っ気無い癖、ギンコは案外そういうとこが見え見えで、だからこそ化野も、遠慮なく彼の肌を求められるというものだ。首筋を染めたギンコを眺めつつ、化野も急いで夕餉を食べ終えた。
化野を待つ様子も無く、ギンコはさっさと床へ向かっている。空に夕焼けの色が、まだ少し残っているくらい時間だったが、重ねた茶碗を台所へ下げて来たあと、化野もそれへついて行こうとした。
隣の部屋へと移るとき、開け切っていなかった襖に、ギンコの肩がぶつかる。ギンコは足を止めて、自分のぶつかった襖に片手で触れた。
「悪ぃ…」
「詫びるほどのことでも。どうした? ギンコ? 具合でも」
「別に、何でもねぇよ、化野」
あぁ、今日はまた早い。床へ行こうと向かった途端、ギンコの視野は暗転していた。日によってバラつきがあるが、段々と、夕刻から見えなくなる日が増えていた。見えてない、なんて知られたくなくて、こんな早くから床に入ろうとしていたのに。
敷かれた布団まで、一歩、二歩。手探りの仕草にならないように、ギンコは必死で、ついさっきまで見えていた布団の場所を思い描く。手を伸べ、中々触れない布団の感触に、気付かれてしまうかと焦りが湧く。
「ギンコ」
「…な、何…」
「ギンコ…」
後ろから抱き締められて、首筋を吸われた。抱きたくて、急いた化野の抱擁が、今は何よりありがたかった。そのまま布団へ押し倒されて、ギンコは見えぬ目を閉じた。
続
夜だけ目が見えないっていうのは、ずっと夜目も利くこととして生きてきたギンコには、かなり大変なことかと思うのです。
普通の人なら「夜は暗くて見えにくい」んでしょうけども、今のギンコは「夜だけ失明」状態なんです。一夜ごと、必ず宿屋に泊まるとか、そんなことは金銭的に無理ですし…。もしもこのまま見えなくなる時間が早まって、昼間も見えなくなったりしたら…? 怖いと思う。怯えるのも当然だろうと。
こんなことになってしまったギンコが、どうやって蟲を払うのかっっっ。まだまだ先は長いですが、続きを楽しみにしててもらえると嬉しいです。私は続きを必死こいて考えるから! ま、次回はエッチシーンが最初だけどねっ♪
12/01/15