橙 の 火 1 だいだいのひ
「橙の火」
化野との幾度目かの閨に、かすれた声で、ギンコは言ったのだ。肌を重ねた甘い余韻に、もっと酔っていたかったものを、そんな甘やかなものは一瞬で消し飛んだ。
「いつか俺がここへ来なくなっても、気に病むなよ、化野」
「………」
ふざけるなよ、と化野は思いながら寝たふりをする。でも、息遣いが明らかに、起きているもののそれだったから、ギンコには、ふりだとすぐに分かった。小さな苦笑が、続けて響く。
「気まぐれに肌を許していく知人の蟲師。それくらい軽い存在にしといてくれ。俺なんぞに、あまり思い入れるな」
でなけりゃお前が、辛い思いするよ。と、そんなふうに静かに言って、ギンコは布団の中で、少し、化野から身を放した。そんな勝手な言い分を、とうとう聞かぬふりしていられなくなり、化野はギンコの体を、強引に身の下に組み敷いた。布団がずれて、一糸纏わぬ互いの体があらわになる。
「ふざけるなよ、ギンコ」
「…ふざけてやいねぇよ。旅に暮らす人間なんてのは、遅かれ早かれ、いきなりの出来事で命朽ちらせるもんなんだ。いつ来なくなるとも知れねぇって、そう思ってた方が、そうなった時に苦しまず済む。だから、お前も…。ん…ぅ…」
いきなりの口吸いには、嫌がりも答えもしない。でも、ついさっきまで絡めていた体を、またも貪る気配を感じ、ギンコは困ったような顔をする。
「…あ…。なぁ…先生、明日は早くに往診だろう。沖へ出てく漁師んとこへ、朝っぱらから診に行くと…言ってたくせに」
「言ってたがどうした。眠気なんぞどっかへ行っちまったよ。酷いこと言う誰かのせいで」
「俺の、せいかよ。…っ…あ…ぁ…」
そう言いながら、首を吸われ、胸を弄られてギンコは仰け反る。この男の愛撫は好きだ。雑に見えて案外優しいから。反応を見て、じわじわと攻め上げてくるから、段々辛くなるけど、それも嫌じゃなかった。上手いんだか下手なんだか曖昧で、それなのに案外感じてしまうのは、もう好きになってしまっているのだと、分かっているけど意識はしない。
そうだよ、化野。いつか不意に、お前に会えなくなる日が来るかもしれない。会いにこれないどころか、どこか遠くで急に、死んでしまうかもしれない旅暮らしの俺が、お前のこと好きなんだ、などと意識したら、その時がきたとき、身を裂くほど辛い思いをする。だから、お前に言う振りして、俺は自分に言ったのさ。
気まぐれに肌を許す相手の、知人の医家。
お前のことは、それくらいの軽い存在にしかするまい。
「んぅ、ぅ…あ、化野…」
しどけなく身を開きながら、心も同時に開いてしまうのを、そのたびに必死で閉じる。体の中心を弄られて、いいように喘がされてしまいながら、脚はどんなに開いて見せても、本音は見せぬ。好きだとか、特別だとか。
「なぁ…? も、欲しい…よ、あだし…」
お前が欲しい、入れてくれ、と、そういう意味のようなふりしながら、ひっそりと本音を零す。ずっと一緒に暮らせるような身の上が欲しかった。何度でも会いにくる、と、朗らかに約束できる存在でありたかった。
分かってる。
所詮は無いものねだりさ。
それでも出会えて、幸せだ。
夜更けになっても夜が明け掛けても、逃がさないと示すように、化野はギンコの体に触れていた。疲れて眠るギンコは、夢も見ないで寝息を立てる。
寝言ぐらいは本音を言えよ。
聞こえないと分かっていて、化野はそんな言葉を呟いて、やっと自分も目を閉じた。
* *** *** *** *
季節が幾度か変わり、それから二度の冬を数えた、ある春先のことだ。
ギンコは切り株に腰を下ろして、眼前にそびえる山を見上げている。燻らしていた煙草を消すと、彼は背中の木箱を背負いなおして立ち上がった。
険しい山だった。だけれど登らねばならなかった。背に負うた木箱の中には、数日前に、ある里で捕まえた蟲がいる。その蟲を死なさず放す為には、急いで山に登らねばならない。そうして、ここいらでもっとも高い場所から、その蟲を空に放つのだ。
まだ春も浅いというのに、ギンコは全身を汗みずくにして、急な斜面を必死に登る。下生えの草に掴まり、低い枝を払い、時には脚を止めて息を落ち着けた。
「 ここから さきへは いっちゃ だめだよ 」
「なんだと?」
斜め上から声が降ってきて、ギンコは怪訝な顔で視線を上げた。七、八歳くらいの子供だ。白っぽい着物を着て、昼間だというのに手提げ提灯を片手で持っている。ご丁寧に火まで入っているのがわかった。白い紙貼りの内側で、橙色の光がぼうと揺れていたから。
「 いっちゃ だめだよ なにがあっても しらないよ 」
「お前にそんなこと、言われる筋合い…」
見も知らぬガキに言われただけで、引き返すくらいなら最初から登ろうなんて思わない。そう思って、幾分、声に怒気が混じった。だが、突っぱねようとしたギンコの言葉は、ふいにぴたりと止められて。こんな険しい山中に、一人で子供がいるのはおかしい。
「…おい、お前…もしかして…」
ひとじゃ ない
直感的にそう思ったのだ。どこがどう人と違うのかなどと、見極める前に感じていた。見れば白い着物の体は、向こうが少し透けて見える。瞬きもせずに見開いたままの、その子供の目が、一体どこを見ているのか分からない。
「…蟲……」
くくくく…っ。
ギンコが言い当てようとした言葉に、子供の笑いが重なった。もやりと輪郭から消えて行き、白い着物の姿は一瞬で掻き消えていた。そうしてまた一歩、先へ行くな、と子供に言われた方向へ、ギンコは足を踏み出したのだ。
しらない よ
もう姿も見えないのに声だけが、すい、と耳へ入ってきて、さっき提灯の中に見えた、橙色の揺らめきが、漂うようにギンコの方へ近付いてきて…。
「……う…わ…ッ」
ずきり、と右の目に激痛がくる。目をやられた、と、絶望に近い思いで自覚したが、次の刹那には痛みが消えていた。
「あ…? あ、見え…る…」
気付けば、辺りにはもう誰もいない。子供も、蟲もだ。いったい、なんだったのか、とギンコは訝った。蟲だったのには間違いあるまい。人に擬態する蟲は、珍しいけれど確かに存在する。その上、人の言葉を喋るなどというのは、もっとも稀だろうが、ヒトタケのワタヒコだって喋っていた。
さすがに、それ以上上へ登ることをギンコは躊躇した。踏み入るなという場所へ行くのが今更怖くなった。そうして彼は、自分が登ってきた斜面を振り向いて、無数の木々の間から、眼下の里を見下ろし、そして決めた。
持ってきた蟲は、ここで放す。なるべく高度の高い場所、人里から離れた場所で空に放って、人の住む領域に戻らないようにしようと思って、運んできた蟲だったのだ。気を遣いながら、瓶に入れてきた蟲を取り出し、手のひらにのせて掲げると、その蟲は木々の間を縫うようにしながら、ずっとずっと高くまで昇っていき、そして見えなくなった。
「よし、これでいい…」
ほんの僅か、右目に残る違和感を気にしながら、ギンコはそろそろと山を下りたが、次なる異変は、夜になってからギンコを訪れたのだ。思いも寄らぬことだった。そしてギンコにとって、それは恐ろしいことだった。
そう、まるで、黒布でいきなり目を覆われたかのように、あたりが真っ黒になったのだった。見回しても、目を見開いても、何も見えなかった。何も…。
続
新連載ですっ。こちらの作品はpivivにも展示しています。そっちも見てるよっていう素敵なお方がいらしたら、おんなじですみませんんんんんんんんんんっ。ご勘弁をををを。まぁ、その目の見えなくなるギンコのお話です。詳しく言うとネタバレだから言わないっていうか、ネタバレるほど続き考えてないってのが本音っす。いつものことだったねっ。
12/01/08