「雪の東雲」という話と繋がっています。
そちらもどうぞー♪ 異色ものってとこにあるヨ。
雨の化野 9
「…東雲、東雲」
草の雫に着物を濡らしながら、化野は庭から続いている山道を歩いていた。目を覚ましたら東雲の姿が無かったのだ。荷物は部屋にあったから、何も言わずに旅立ったわけではないと判ったが、こんな雨の朝に、急に姿がないのを気にかけぬわけにもいかなかった。
昨日の夜、俺に言われたことのせいか…。
当のギンコの前で、気持ちを言わせ、
その上、俺のものだと告げて、可能性まで断った。
なんてことを、と今更思う。
まさか、悩んでこの雨の中を、荷物も捨てて出て行った、とか…。そんなふうにも思えてきて、化野は一度泥の中に立ち止まった。当人は泥に足を入れているのも気付いていない。下駄がずぶずぶと沈み、普通に歩き出そうとして、重心を崩す。
「ぅ、わ」
びちゃ…っ
膝から泥の中に転んでしまった。両手を土について、その冷たさに小さく震える。この雨の中に東雲がいると思うと、泥だらけなのも気にしては居られず、勢いよく立ち上がってまた歩き出す。
そうだ、言った言葉だけじゃない。
俺は夕べ、詰まらん焼餅でギンコの喘ぎまで聞かせたのだ。
そのあとに続くギンコの言葉も、きっと聞こえただろう。
居た堪れなくなって当然だ。
俺は馬鹿だ、と思いながら、だったらギンコを譲れるのかと考えれば、答えは激しく「否」なのだ。どう言ってやったらいいのだろう。今からだって何かを言えるとしたら、それはどんな言葉だろう。想うのは自由だ、とでも?
正直、化野は少し不安だった。同じ顔なのに、東雲の持つ雰囲気は昔から自分とは違っていて、なんと言ったらいいのだろう。放って置けない、と言うのか。守っていたくなる、とでも言えばいいのか。ああ見えて面倒見のいいギンコが、ついついほだされて傾いていくのが、見えてしまうようで怖い。
弟で、その上、恋敵。しかもこっちは里から出られない身。東雲は今は、ギンコと同じ旅の体。これからだって、いられるだけ傍にいることが出来るときている。話に聞いた雪の日を最後に、そんな「危険」がなくなったわけじゃないのだ。
「なんとかしないと」
え、なんとか? 何を考えてるんだ。それはギンコと東雲の今後のことか? 今はこんな雨の中、どこにいるんだか判らない、病弱な弟を心配して出てきただけの筈だろうに。
「し…」
呼んで探そうとした声が止まる。まだ木々に遮られた向こうの川べりに、じっと立っている東雲が見えたのだ。あそこは流れも速い深い川だ。少し先で大きな川に合流して、そのまま海へと流れ込む。あんな川岸の草の上にいて、万が一足でも滑らせたら…!
「東雲っ!」
大声で叫ぶと、数秒置いてゆっくりと東雲は化野を振り向いた。この雨の中で、どのくらいそうしていたのか、髪も着物もぐっしょりと濡れて、細い体はますます細く見える。
「あに…うえ…?」
「そこを動くな! そのままでいろ、東雲! 今、今すぐ兄が行ってやるからな」
「あぁ、わかり…ました、あにう…。…っ!」
「し、東雲っ!!」
ばさばさ…っ。何かが彼の顔をかすめて飛んだ。青色の美しい翼、恐らくはここらに住む山鳩。ぐら、と東雲の体が傾いて、その姿が一瞬で化野の視野から消えてしまう。
「東雲…っ。しののめ…!」
化野はぬかるみに足を取られながら走った。いつの間にか下駄のが飛んで片方だけ裸足になり、低い枝葉に頬を打たれて傷を作り、別の枝で着物の裾を破きながら、それでも東雲のいた場所まで駆け寄った。
「しの…っ…」
「ここです」
少し下から声がして視線を下ろせば、東雲は一段だけ低い場所にある、平たい岩の上に座っているだけのことだったのだ。
「あ…、し、しのの…め…」
「…兄上?」
不思議そうな顔で小さく首を傾げて、東雲が化野の顔を見上げる。髪も着物もずぶ濡れで、よく見れば身に着けているのは着物のしたの薄い襦袢だけというなりだった。明け方からずっと降り続く雨で、布が張り付いて肌の色がはっきりと見える。実の兄の化野でも、一瞬ならず目が行く。
あぁ、これだから、と長く彼は息を吐いた。
「東雲、無事か…」
「はい。少し、雨に」
「少しとは言わんぞ、それは」
「…濡れたかったのです。頭を冷やしたかった。ギンコ殿のことを、もう忘れようと」
「忘れなくていい。どうせ無理だ」
化野はそう言い放った。行ってしまってから目元を覆って上を向いたら、手についていた土が顔にもついた。それを笑うでなく、指摘するでなく、東雲は自分の襦袢の袖を掴み、手を伸ばした。化野は草の上に膝をついて屈んで、東雲にも手の届くようにしてやり、黙って顔の土を拭かせた。
「兄上も、あの方をお好きなのでしょう…?」
「ああ『お好き』だとも! 相愛な筈だがあいつはいつも旅の空で、年に四度会えるかどうかだ。そのせいかどうなのか知らんが、いつも焦がれていて大変だぞ。その上、お前まであいつのことを好きで、これからはきっと益々じれる。いっそこの気持ちがさめればと思うが、それもどうしたって無理だろうよ」
やや早口でそこまで言って、化野も東雲と同じ岩の上まで下りた。そこに座ると、丁度真上の木の枝が雨を遮って、いい塩梅だと気付いた。視線の下には速い川の流れ、まだ水は増えていなくて、澄んでいて綺麗だ。
「ギンコは、綺麗だろう…」
川の音に紛らすように、小さな声で化野は言った。東雲も兄の隣に座って、濡れた枝先の葉を見上げながら言った。
「はい。美しい方だと、そう思いました。雪の日に兄上の名で私を呼び止めて、こちらを見ていたあの瞳の色は、あれからも何度も夢で見て…。私はここに来る前、以前に会った時から、ギンコ殿が兄上と懇意なのだと判りましたゆえ。心のどこかで、嫉妬も、しました。何故、私ではないのかと。ここでもまた『私ではない』のだと、そう思えて」
「まだ」
つい、するりと言葉が零れかけた。
諦めてばかりの人生を、東雲が続けてきたのは想像できることだった。だからこそ、またここでも諦めようとしているのだろう。言い掛けた言葉を思い、そんなことを言う気か、と化野は心で躊躇し、しかし飲み込まずに続けてしまうのは、彼が兄という存在だからなのかも知れぬ。
「まだ、判らんぞ。…こうなれば俺も腹を括るとしよう」
「兄上?」
「諦めるな。諦める必要も無い。昨日『俺のものだ』と言ったが、それは『今』の話でな。出会ったのは俺が先で、俺がもう唾をつけたが、ギンコはものじゃない。心変わりも在り得るだろう。お前になら或いは…」
そこまで力説して、化野は頭を掻く。酷くおかしなことを言っている、と、やっと気付いたようだった。立ち上がり、泥塗れのなりを情け無さそうに見て、片足に下駄のないのも気付いた。それでも先に東雲を上へと登らせ、そのあとで自分も元の川べりへ登る。
「東雲、俺はギンコを好きだぞ、お前は?」
「…私も、あの方が好きです」
まだ降り続く雨。けれど少しずつ空は晴れてきて、葉の上で光る雫が、風景を飾るように綺麗だった。
泥だらけで、しかも泥に塗れた下駄の片方を持つ化野。そして襦袢を雨に透けさせて、滝にでも入ったように全身濡れている東雲。そんな二人を縁側で出迎えて、ギンコは雷を落とした。
「こ、の…っ、ガキかお前らは…っ!」
「あぁ、まぁ…ガキならこんな悩みは持たずに済むがな」
「…怒鳴られるなんて、初めてかもしれません」
ずれた言葉に、ギンコは眉を顰める。化野は手水鉢の水を柄ですくって、足と下駄の泥を落としながら笑っていた。
「ギンコ、俺は腹を括ったんだ。お前も、まぁ、覚悟はした方がいいかもしれんぞ」
「何の話だ?」
「何のって…。俺たち三人の恋路の話とでもいうかな」
東雲は風呂場に真っ直ぐ行ったので、今、この場には居ない。
「改めて、遠慮は要らん、と言っておいた。これでこじれても、それが人生だと思うことにする。だからな、ギンコ、お前がもし東雲と今以上の」
「ま、待て! 待てって、何言い出したんだ、お前っ」
慌てふためいて聞こうとしたところへ、早くも東雲が戻ってきてしまう。随分と早い。もしかしたら、化野がギンコに何を言うのか、気になったからかもしれない。
「なら、今度は俺が風呂場を使おう。今の話を詳しく聞くなら、東雲に聞くといいぞ、ギンコ。俺とは言い方も違うかもしれんがな」
濡れた髪もきちんと拭いて、東雲は縁側に正座している。聞け、と言われてもどうしていいか判らず、ギンコは台所へと逃げかけた。頭の中がぐちゃぐちゃで、何の整理も出来ていない。
「ギンコさん」
その時、唐突に今までとは呼び方を変えて、東雲が彼の名を呼んだ。
続
何しよるとですか、化野東雲兄弟。この話は実は、ギンコ受難の連載だったのかと今更思い始めました。こんなことになるなんて、誰が予想したでしょう。私も知らんかったよ。不真面目なヤツなら、「やったぜ、ラッキー♪」ってとこでしょうに、ギンコ、案外?真面目だからね。
まぁ、連載事態、真面目路線から逸れましたが、こうなったら、私も覚悟して腹を括って、楽しませてもらうことと思っておきますですよ。苦情の手紙は…きっと山羊が食べます。はいv
え? 山羊? どこ?
11/07/17
