「雪の東雲」という話と繋がっています。
そちらもどうぞー♪ 異色ものってとこにあるヨ。
雨の化野 10
「あ、あー…。し、東雲、その」
なんと言っていいのか分からずに、ギンコは口篭る。そんなギンコを見て東雲は薄っすらと笑った。綺麗な笑みだと思った。どこか、あやういような…。そしてどこか自嘲するような。
「兄に、もうお聞きになったのですね」
「…き…聞いたけどな……」
視線を逸らしている横顔を真っ直ぐに見て、東雲は小さく首を傾げる。縁側まで出てきて、踏み石へと脚を出し、東雲はギンコの傍に腰を下ろす。伸べた足先、その足の指も甲も、足首も、すべてが真っ白で、人の肌とは違う別のもののようだった。
「…初めてなのです。誰かに命じられたことでもないのに、ひとりの人のことをこんなに、毎日毎日繰り返し思って、こんなに…会いたいと思うことが。ギンコ殿…。私には、あなたを困らせるつもりなど、ほんの一欠けらも」
ついさっき、呼び方を変えて「ギンコさん」と呼んだはずなのに、またもとの呼び方に戻ってしまったのは、ギンコが酷く戸惑っているのを見てしまったせいだろうか。一度言葉を切って、東雲は雨どいから滴り落ちる雫を見上げる。彼の足の甲や足首に雫が落ちて、それが白く弾けていた。
「…あの家に生まれ落ちたその時から、私は壊れかけの人形だったのです。…言うなりの人形。意思も何も無い、ただ命じられるままの日々を暮らす抜け殻…」
ひいやりと冷たい雨粒、ひっきりなしの。東雲はその雫を見つめながら、ぽつり、ぽつりと話し始めた。化野の言っていたようなこととは、あまりに話が違っていて、ギンコはいつの間にか東雲のすぐとなりに腰を下ろし、彼の言葉をじっと聞いている。
「そんな私に優しくしてくれるのは、兄上だけだった…。兄上に気遣われ、大事にしてもらえる時だけ、自分に心があるのを思い出しました。幼い頃、珍しい菓子が一つだけあれば、兄上はそれを私に下さいました。熱を出した私を案じて、朝まで添って下さるのも兄上でした。要らぬものと罵られても、兄上が居てくれれば気にしないでいられた。…身代わりのことは、私の知らぬうちに、兄上がすべて…」
すい、と東雲は立って、裸足のままで小さな庭へと出た。今は音もなく、絹糸のように降る雨を見上げて、彼は頬笑んで…。
「私などには勿体無い、お優しい兄上…。そんな兄上の"想い人"を、私が横から盗る…など…思ってもおりません」
雨の雫が、つう、と彼の額を伝って、東雲の瞳を濡らす。そうしてその雫は、頬へと零れ落ちてゆく。
「…聞いて頂きたかっただけです。この恋が実ることなどなくても、それでも…"恋"した人に、私のこの想いを、たった一度だけでも」
そう言って、東雲はもう一度薄っすらと笑った。水に落ちる雪のように儚い笑みを見ていると、あまりにも薄幸なその生き方に、ギンコの息が苦しくなる。雨が少しずつ強くなっていくのに、それでも東雲はその雫を浴びて立っていた。着物が濡れて肌に纏い付き、その痩せぎすの体を目立たせる。
もし、こいつの体を素肌で…抱いたら、
まだ骨がごつごつと、痛そうだな。
もっと、ちゃんと喰うもん喰わせねぇとな。
うっかり強く抱くことも出来なくて。
それに…
きっとなんにも、知らないんだろうな。
愛されて抱かれる、なんてことも、
そうやって、抱き合うことの快楽も。
そんなふうに、淡々と思っている自分の感情。きっと、後ろめたいと思わなければならないような心を、ギンコはぼんやりと感じ取っていた。
でも、これは多分、不幸で哀れな幼子を、
抱き締めてやりたいと、そう思う気持ちに近い。
違うだろうか? それとも俺は、
東雲に惹かれていることを自分に誤魔化したくて、
そう思おうとしているのだろうか。
「東雲…。いい加減に、屋根の下へ入れよ」
びく、と小さく東雲の肩が震えた。そんなのは迷惑だ、とでも言われたらどんなに辛いかと、覚悟をした震えだった。それでも彼は言われた通り、縁側の屋根の下に入り、ギンコの傍で彼の言葉を聞いた。
「なぁ…夕べの、聞こえたんだろ?」
「……夕べ」
「あぁ…。俺が化野に、抱かれてる物音とか、声、とかさ。あんたがここに来た時だって、その前に俺とあいつが、どんなことしてたかくらい判ったろ」
東雲の首筋が見る間に染まるのを見て、ギンコはなんだかくすぐったいような気分だった。よく化野が自分をからかって、楽しそうにしている気持ちが少し判った気がしたのだ。
「嫌じゃないか? 大事な兄上が男なんかと」
ひとつ聞いて、ギンコはすぐに次の問いかけを放った。
「兄上様とそんなことしてる俺が、お前とまでしたいと思ったりしたら、軽蔑するだろ? それとも、別に気にしないか? 俺に抱いてほしいとか、思ってるか?」
東雲は長いこと黙っていた。ずっと黙っていて、そうこうするうちに化野が戻ってきてしまい、問い掛けに返る返事は聞けずじまいになってしまった。化野は二人の間にどんな話が交わされたのかを、随分聞きたそうにしていたが、ギンコも東雲もどちらも何も言わない。
「ご馳走になりました、兄上」
「朝飯は足りたか? 東雲。粗末でびっくりしただろ? これでもいつもよりはマシなんだぞ、ギンコが来たときは少し奮発するんだ、うん」
三人しての遅い朝飯の後、朗らかにそんなことを言っている化野だったが、言い終えてから無神経だったかと心配になったらしい。
「あ、その。これからはお前が来たときも、す、少し豪華にしようかと思うが」
「兄上」
「ん、んん…っ? どうした、おかわりか? 遠慮することは…」
「そろそろ、発とうと思います」
一瞬、本当にほんの一瞬だけ、化野が安堵したことにギンコは気付いた。多分、東雲も気付いただろう。そして化野本人も、そのことに気が付いた。
「そ、そうか? あ、雨も止みそうだしな。でも、そんなに急ぐこともないんじゃないのか? なんならもう一晩とか」
「……いいえ」
「じゃあ、また必ず来てくれ。薬はなるべくお前から買うし、商いに関係なくとも、疲れたときとか、怪我したときとか、いつでも寄ってくれ。…待ってるからな。待ってるから」
「はい、兄上、必ず。本当にありがとうございました」
東雲の旅支度は、まるでギンコのそれを見るかのようだった。もともと小さくまとまっているものを、さっと確かめ、特に食料の類を入念に見て荷物を閉じると、それを肩に負って立ち上がる。
「俺も」
それを見ていたギンコまでが唐突に立ち上がり、自分の木箱の背負い紐を持ったのを見て、化野は愕然とした。お前まで発つと? 東雲と一緒に行くというのか? まさか…。まさかさっき…。
「お、お前も行くのか? ギンコ」
「そこの山までついてって、どこらへんで薬草が採れるか教えておきたいんだ。必要な情報だろ? 東雲」
「あぁ…助かります…」
「じゃあな、化野」
「ギ…」
唐突に一人にされて、化野は頭の中が真っ白になった。さっきの話を聞けば、ギンコは動揺するだろうとは思っていた。だけれどこんなことになるなんて、思っては居なかったのだ。ギンコはきっと動揺して、焦って、困って、それでどうしたらいいのか、と自分に聞いてくるだろう、と。
なのにギンコも、東雲も、どんな話をしたかも教えてくれず、その上、一緒に旅を歩くというのだ。項垂れて、化野はぽつりと呟いた。
…嘘だろう…? お前、俺よりもあいつを…
しとしとと降る雨は、いっそ頬に心地が良かった。山の中に入ると、この程度の雨はほとんど感じず、濡れることもなく歩くことが出来る。ギンコが少し先を、東雲がその背を追うように歩いて、小一時間もした頃、ギンコは木々の密集した山の中で、少し遠くを指差した。
「東雲、ここをよく覚えておくんだ。それから、あそこに見える橡の倒木の場所も覚えるといい」
「…はい……」
「ここらには数種の薬草が生えるし、あの倒木には秋口に、喰えるキノコが生えるんだ。それからその斜面を登った向こうにな、美味い湧き水があって」
「ギンコ殿」
「ん?」
「さっきの…答えです」
「……あ…」
唐突にそう言われて、ギンコの言葉が止まる。あのまま有耶無耶になるのだろうと思っていたと同時に、返事が知りたい気持ちがあるからこそ、東雲についてここまできた。そしてさらに、返事のしにくいことをわざと聞いて、何も言わせなくしたい気持ちも…。
ただでも纏まりのつかないそんな思いに、翻弄されているギンコだったのだ。東雲は、つ…と、ギンコの腕に触れ、その袖をそっと握って、ぽつりと言った。
「もしも、あなたが私を望んで下さるのなら…厭わない」
「しの…」
「例え、一夜の慰みでも…。真実恋しい相手、兄上とは遠く離れていて、その身代わりによく似た私を欲するのだと、あなたがそう言ったとしても」
ざ、と少し強い音がした。ひと吹き、吹いた風に枝が揺れて、雨をためていた枝葉が沢山の雫を降らせたのだった。
あぁ おぼえて おくよ
そう言ったギンコの言葉を、東雲は大切に胸の奥へとしまい込む。逃げるような勢いで遠ざかっていく、ギンコの背中を見つめながら、東雲はそっと笑った。
死人となんら代わりのなかった、今までの人生に比べたら、この日々はなんとあざやかで、美しいのだろうか、と。
続
はぁー…。雨の東雲10のお届けです。え? 雨の東雲じゃなくて、雨の化野だろうって? うん、そうなんだけどね。ほんとにもう東雲ったらキャラが立ち過ぎてて…。はぁー。つか、ギンコ、しっかりせんと、完全な浮気ものに成り下がりますよ。
でもなぁ、双子でしょ? つまり東雲はもう一人の化野のようなもんだし…いいのかな? いやいやいや、よくないでしょ! なんか書きにくい人なのに、時々出てきて主役を食っちまいそうな東雲さんなので〜す。
今回で終わるつもりだったのに、終わらなかった…! 待て最終回!ですね。ハハハハハ。
11/07/30
