「雪の東雲」という話と繋がっています。
 そちらもどうぞー♪ 異色ものってとこにあるヨ。







雨の化野  7





 東雲は真っ直ぐに化野の顔を見ながらも、時折はどうしてもギンコへと視線が逸れる。まだ深夜ではないが、充分に夜も更けた刻、人が尋ねてくる頃合ではないし、屋内へと誘う時間でもなかったが、そう言う以外に出てきた言葉はない。
 
「……まぁ、上がれよ」
「…はい」

 数瞬おいて我に返ったギンコは、寝乱れた布団から起き上がるものの、自身の羽織っている着物の裾を踏み、転んでしまいそうになっている。情事の跡も生々しい夜具。同じく、はだけた着物と、自分の姿。

 布団はどうしようもなくて、着物の前を掻き合わせながら、ギンコは竈のある土間へと逃げる。

「…ギンコ、今更、そんな慌てても仕方ない。…あぁ、転ぶなよ?」

 変に落ち着いた化野の声が、こんな場面で返って奇妙だった。



「茶を入れてこよう」

 そう言って、化野は最初に少し東雲の前から離れた。そうして湯を沸かしに竈へ行くと、着物の前を必死で合わせ、固まったままのような顔をして、ギンコがそこに立ち尽くしていた。

「なんて顔だ。しゃんとしろ、しゃんと」
「お、お前、よくそんな冷静な」
「…冷静じゃないさ」

 伸ばされてきた化野の手が、ギンコの手首にそっと触れる。その指は、止まらない震えに曝されて、そのうえ酷く冷たかった。

「…負い目が、あるんだ。…お前がいてくれてよかった。同席しろとは言わんが、そこの戸口のこちらにいて、聞いていてくれたら恩に着る」
「負い目…って」

 今からそれを東雲と話すよ、と、それだけ言って化野は黙った。熾き火を大きくして僅かばかりの茶を沸かし、湯の沸いた鉄瓶を片手に化野は、自分の弟の前へと戻っていく。ギンコへ向けたその背中が、妙に心細げに見えた。板一枚の戸に背中で寄り掛かると、その向こうの声はよく聞こえた。

「寒くないか? 東雲」
「いえ。兄上、こんな不躾な時刻に…申し訳ありません」
「…まぁ、まだ寝入る時間でもないさ」
「夕刻には、近くまで来ていたのですが、この顔があまりに目立つようで…」

 なるほど、と、小さく言って化野は苦笑した。多分、自分と間違えた近隣のものが、びっくりして声を掛けたのだろう。それで人通りの消えるこんな時間まで、里へ入れずにいたということか。

「驚いてしまったのです、本当に…。この里のことをお教え頂いていて。でも兄上がここにおられるとは思って居なかった。私は…」
「ギンコに会いたくて来たか」
「………」

 流れた沈黙が、板戸の向こうのギンコにはどう届くだろう。そんなことを、化野はちらりと頭の隅で考える。今はそんなことを思っている場合じゃないのだと、唇を噛んで暫し黙ると、彼は座っていた場所から、少し後ろに身を下げた。

「東雲」
「…あにうえ…? お、おやめ下さいっ。何故、弟の私に頭など下げるのですか…!」

 乱れた声に、動揺が現れている。両肩に東雲の細い指を感じながら、それでも化野はしばらく頭を下げていた。やがてはゆっくりと顔をあげ、弟の手首を両方とも捕まえて、その、華奢で色の白い手を見た。

「あの家にお前を置いて出て行けば、お前がそののちどうなるかは、大体予想がついていた。彩薬庵への婿入りのことだけじゃない。その病弱な体で、あのあと、お前は…」
「……そのこと、でしたら」

 東雲はどうしてかその時、うっすらと笑った。弟にそんな笑い方が出来るとは、一度も思ったことがない、そんな笑みだった。どこか妖しくて、自虐的で、人を惑わす…ような…。

「兄上のお気にされることではないはず。それどころか私は、あの家で、私が受けるべき役目を、兄上がずっと肩代わりしてきたことも知らなかった。こんな痩せ細った弱い体で、私が生まれてきたばかりに、お優しい兄上は、ずっと…」
「しの…」

 あの家の業。あんなふうに、権力と金とで、数え切れぬ人の心も命も、踏み躙ってきた家の業は、誰かが身に追わねばならぬ。出入りの業者はどこまでも腰を折り、へつらい従い愛想笑いを顔に貼り付けながら、その鬱憤を同じ家の中で晴らしていっていた。

 長い長い渡り廊下の向こう。その向こうの窓の無い離れ。家長をついだ長兄の日輪と、そっくりな顔をした哀れな生贄。それが、いずれは病で命を落とす運命の、末の弟、東雲。

 最初の一度は十一のとき。それを東雲は悪夢のように覚えている。恐ろしいが、とても現実とも思えない記憶。生まれた家に。血の繋がった長兄に。そんな用途で使われ、それを外へ洩らす間もなく、いずれは壊れて死んでいく、ただの道具としての自分。

 けれど永遠のように続くはずのその悪夢は、そのままそこで終わった。その続きの悪い夢のような現実を、東雲にひとつも気付かせることなく、化野がすべてその身に受け続けたからだった。

「お優しい兄上が、私を守ってくれていたことを知り、私は」
「別に、優しいとかじゃない…。体の弱い実の弟が、あんな酷い仕打ちを受けるってのに、それを知らぬ振りするほど、器用じゃなかった…っていうだけでな。なのに、あそこで俺が家を出ては…」

 辛かったろう、と、化野は言った。体を、壊しやしなかったか、と。何人かの出入り業者だけでなく、召使頭や馬丁までが、東雲の振りをする化野に手を出していたあの頃。あの家の、秘めておきたい事実が外へと洩れぬため、化野がさせられていたのは、ただの「栓」の役割。

 その「栓」が逃げてしまえば、別の「栓」が必要になる。あのあと、きっと東雲は…。

「兄上はお忘れです」

 と、東雲は言うのだ、実の兄でも思わず見入るような、そんな不思議な笑みを纏いつかせたままで。

「兄上があの家を去れば、彩薬庵の婿へ入れるのは私一人。病弱なこの体のお陰もあり、店主様は私には無理はさせなかった。大切に、大切にして貰いましたとも。死なぬように、叛かぬように、そして万が一にも裏切らぬように」

 それはもう、洗脳染みたような。と、そこまでは東雲は言わなかった。「家」のすることを疑うことや、命令に否を言うことなど、微塵も浮かばぬままにただ生きて、愛した女を殺すまでしてしまった。それでも魂を「家」に縛られたままで、そのまま命を捨てるところを、救ってくれたのは一人の旅人。

 知らぬうちに幾らか縮こまらせていた身を、しゃん、と伸ばして、東雲は化野に頭を下げた。雪の止んだ眩い冬の朝に、あの壊れ屋でギンコにそうしたように、床に頭をつけて。

「…本当に至らぬ弟で、兄上には今まで、幾重にも御迷惑をお掛けしました」

 顔を上げると、簡単すぎるほど簡単に、東雲はこれまでのことを兄に語った。

 彩薬庵に婿入りし、家の命じるままの薬で妻を死なせ、自分も死のうとして、そこをギンコに救われたのだ、と。こうしてなんとか、一人で生きていられるようになった今、あの雪の日の礼を、もう一度言いたくて、ギンコに会いたかったのだ、という事も。

「今はこうして、薬を分けて歩いているのですよ。最初の数包は代金を頂かず、次に出向いたときに、その薬が役に立ったと言ってくださった方にだけ、また薬をお分けして、初めて代金を頂く。そのように…したいと思って」
「…え、お前が?」
「えぇ、そうです。もしよければ兄上にも。見れば、医家をなさっておいででは…?」
「いや…そうだが。お前が? 薬の行商? でも、道中、熱を出したりとかは?」

「…ぶ…っ…」

 その呆けた声を聞いて、板戸の向こうでギンコが吹き出した。ガタリ、と戸を鳴らして入ってきて、化野のすぐ隣にあぐらをかいて座る。声を掛ける前に、ギンコは東雲の姿を不躾なほどじろじろと眺めて、それから満足そうに笑った。

「痩せっぽちなのは同じだが、幾らか『らしく』なってるじゃねぇか。安心したよ。…にしても化野、お前は、自分の弟のことなのに、そんなに意外そうに仰天してばかりじゃあ、失礼ってもんだろう」

 そんなギンコの笑んだ顔を、眩しい光の零れる何かのように、目を細めて東雲は見つめた。泣きそうな色をその目に滲ませ、彼は本当に、涙すら滲ませたのだった。

















 ひとつ言わせて貰おう。
 東雲さん、それは「置き薬屋さん」というヤツですね?

 まぁ、逞しくなっているのは予定通りに書けたとして、案外「黒い」とこあるんじゃねーの、こいつ、という雰囲気になったのは、完全に想定外です。私どころかギンコも、化野もビックリです。きっと東雲本人に自覚は無いはず。そう願いたいです、マジで。

 あー、この話? 一言でいったら何かって?
 うんそーだね、兄弟で一人の人間を奪い合う、三角関係の話。

 いやいや、嘘ですから、多分。そんなことにはならない筈だ。多分。ギンコを好きなら東雲は彼の幸せのためにも、グッと堪える筈だ、多分。うん、多分。

 待て次回(私も書くの楽しみV) 



11/06/26