贖い傷 - aganai kizu - 9
「水を汲んできてくれ」
目が覚めかけていたところへ、そんな声が聞こえた。瞼を開けた途端に、ギンコは酷くばつの悪い思いをした。化野の両腕が、しっかりと腰と背中に回されていて、つまりは抱き合っているような格好だというのに、すぐそばに刀師の男が立っていたのだ。
「み…み…水っ?」
「あぁ、水だ。すまんがこの腕では汲むのが大変なんでな。先生と二人で、この桶に十杯ほど。奥の作業部屋の大桶に入れてくれ」
化野も遅れて目を覚まして、ぎょっとしたように飛び起きるのだが、男は二人の姿に何の感想も述べずに、奥へと引っ込んだ。
化野の見送った男の後姿。その右腕には、昨日切り落とした手首から先は当然ない。患部を覆った包帯は既に散々汚れて、いったい何時から起きて作業していたのかと思う。
「…どうやら、顔色はいいようだ。痛まない筈はないが、やっぱりあの刀、仕上げるつもりなんだな」
「らしいな。まあ、乗りかかった舟、ってヤツだ。手伝おうぜ、化野」
ギンコの顔色も悪くはない、と化野は横目で確かめ、荷物の中から紐を取り出して、袖を素早くたすきに括り上げる。なんの準備もいらないギンコが、さっさと行ってしまおうとするのへ、化野は言った。
「ひとつ、言わせて貰うが、ギンコ」
「んん?」
「俺は治療を承諾した時から、あの男の主治医だ」
「あ、あぁ…」
「その主治医に一言の断りもせず、患者に酒なんぞ飲ませたのは感心せんからな」
「……」
一瞬、二の句も告げなかった。そんなギンコの横をすり抜けるようにして、彼の手から桶を奪うと、化野は先に裏の井戸へと向かう。追いかけながらギンコは言った。
「…仕事となると男前だな、先生」
「茶化すな、馬鹿」
そうやって軽口など叩ける今が、本当に幸せだ。そう思っているのは二人同じ気持ちで、昨日見せられたギンコの苦しむ姿も、化野があんなにも人を憎む顔も、互いにもう二度と見たくはないのだ。
水を汲み上げるのはギンコ、それを桶に移して運ぶのは化野。化野が奥の仕事部屋、とやらに水を運んでいくと、男は火を入れた小さな石の炉の前で、夕べ断ち切られた手首に槌を縛り付けていた。
「……研ぐだけじゃないのか?」
「あぁ、少し打ち直す。この刀は確かに完成間際の品だが、素延べと火作りが甘い」
「打つのを一人でやるのか…? 普通、三人がかりの仕事と聞いたことがあるが」
「物知りだな、先生。それはそうだが、一人しかいないから何とかするさ。何、それも初めてじゃないし、素人ごときに手出しできることじゃないんでな」
振り向きもせずにそう言われ、化野はすごすごと井戸へと戻り、ギンコの汲み上げた水を桶に移して、何度も運んだ。そうして最後の一杯を運び終える頃、炉に入れられた火は生き物のように轟々と燃え盛り、そこに突っ込まれた鉄の棒が、真っ赤に色を変えている。
「先生。…痛みがあの男に移る時が分かるんなら、そうなる前に教えてくれ。俺がもしも聞かぬようなら、その時は力ずくで止めてくれるか」
化野に向けられている刀師の背中が、雄弁に何かを語って見えた。
「…いや、もう…大丈夫だそうだぞ。あの原因になった蟲は抜けたと聞いた。それでその、あんたの刀に吸い寄せられたらしいが」
「そうか…。わかった」
轟、と、火を噴く炉。そこから引き出される真っ赤な鉄。大きな鉄の道具でそれを押さえ、刀師は手首から先のない腕で槌を振り上げる。カン…っ、と鋭い音がして、化野は必死にギンコの傍へ行った。
井戸の横の切り株に座って、ギンコはのんびりと蟲煙草をくわえている。それを確かめると、化野は息を吐いて愛しい相手に抱きついた。
「うぉっ。あぶね…! 煙草っ。やけどするぞ、化野…っ」
「本当に、どこも痛まないな?!」
「……見て分かるだろ?」
「嘘じゃないな?」
「そんな器用じゃねぇよ」
はぁ、と呆れたように溜息を吐きながら、それでもギンコは化野の体を押しのけないでいる。
「作業、始めたんだな」
「あぁ、今、打ってるよ。すのべ、だとか、ひづくり、だとか言ってたが」
「ふぅん…。まぁ、あれはまだ出来上がった後の分も少し残ってるし、もともと資質はあるようで、あの男には多少で効くしな。あ、例の酒の話だが、また飲ませるつもりだ」
聞いて片眉をかすかに上げて、化野はちらりとギンコを見た。ついさっき叱られたから、あらかじめ言っておく、というつもりなのだろう。
「…まぁ、仕上がりは今日明日じゃないだろうしな。お前はあの刀に纏い付いている蟲を、あいつに見せたいのだろ? そんなら飲ますしかないのだろう?」
そう言い終えたあとで、化野は一言付け加える。
「俺も見たいが、却下、か?」
「……しょうがねぇな…」
少し笑ってギンコは言った。手持ちの酒は残り少ないが、どちらかと言えば見やすい部類のあの蟲ならば、きっと化野の目にも見えるだろう。
「よしっ、なら、他に手伝うことがないか聞いてくるっ」
そう言い捨てて駆け出していき、戻ってこないと思って見に行けば、傍にくっついて時折刀師の額の汗を拭ったり、腕に縛りつけた槌が緩んだとき、紐でしっかりと括り直す手伝いをしていた。
呆れながら、ギンコは扉のすぐ傍の壁に背中で寄り掛かった。視線がゆっくりと部屋の中を辿る。
実際、そこは凄い様だったのだ。「見える」ギンコにしてみたら、これだけの種類の蟲が集まっているのが壮観で、ひとつひとつ、名や特性を思い出しながら、危険な類のものがいないか確かめるのが大変だ。滅多に見ない蟲もいて、採取したい欲も動く。
珍しいヤツに目の前を横切られ、思わず、ひょい、と手を伸ばして摘むと、懐に忍ばせた瓶に入れる。見られてないだろうと思っていたら、ばっちり化野と目が合った。小声で聞かれる言葉に、ギンコも小声で教える。
「いるのか、蟲が」
「……そりゃもう、大群だ。それだけ見事な刀だってことだよ」
「見たいなぁ」
「じゃあ、一口ばかりのあの酒で、盛大に酔うしかないな」
努力してみよう、などと妙なことを言って、炉の傍で暑そうにしながらも、化野は男の左手の汗を拭いた。
熱する。打つ。冷やす。熱する、打つ、冷やす。それを半日も繰り返したあとで、今度は研ぐ作業が続けられた。片手しかない男は、化野やギンコに手伝わせ、刀を台に括り付けて、根気よく研いだ。
「なぁ…」
少しは休め、と化野に命じられ、ほんの少しの小休止の時に、男はギンコに聞いた。
「あんたから逃げたあの蟲は、もうどこかに行っちまったんだろうな?」
「…いや……」
「い、いるのか?」
短いギンコの言葉に、男は目を見開く。
「いるさ。…待ってる、というべきかもな」
「…そうか。あぁ、だが危険な蟲なんだろう。あんたに憑いたように、もしも別の人間に…」
「そうならんように、いい刀を仕上げてくれりゃいいのさ。そうすれば『みうつし』は、他の生き物の体に宿ろうなどと思わないんだから」
声も無く男は頷く。短すぎるほどの休憩は終わった。刀師は研ぎ粉を左手の指につけて、魂までも注ぐように、たった一振りの刀と向き合うのだった。
続
蛇足なのにな…。長いですよね。せめても先生とギンコのイチャコラを入れてみたり。先生が蟲を見るシーンも、次の話で入ると思いますよー。大変な思いをした先生にボーナス?
あぁ、こんな話なのに、読んでくださっている方、ありがとうございます!
11/05/22
