ストーリーの展開で、人の生死に係わる文面が含まれています。読んで下さる方は、どうぞ御注意ください。時期を考えて、ただ今この注意書きを添えさせて頂いています。

贖い傷   - aganai kizu -  7







 カン…ッ カン…ッ


 カン…ッ カン…ッ 


 カ…ン…ッ

  ……


 等間隔で響く音は、まるで永遠だ。その度、腕の中に抱き締めた体が、大きく痙攣する。これまでも何度も見た激しい苦痛。なのにこれまでとは違って、ギンコは深く喉奥にまで布を含んで、ほんの微かな嗚咽以外は漏らさなかった。

 堪え切る嗚咽の代わりに、体の痙攣は激しい。ぼたぼたと滴る汗と涙が、黒い染みを床に広げていく。

「……う…ッッ   …んぅ…ッ   ぐ…ぅ…ッ!」

 ギリギリと歯を鳴らしながら、化野はギンコの顔を自分の胸に押し付けている。零れてしまうギンコの嗚咽は、それで殆ど消えて、間違っても閉じた扉の向こうへなぞ、届きはせぬだろう。

「ギ…ン…」

 名前を呟き、抱き締める腕に力を込めて、続いている鎚の音を化野は数える。二十…、三十…、四十…。同じ数だけ、ギンコの体に痛みが刺さる。

 音と音の間の、短い間で忙しなく喘いで、次の音が来ればギンコは歯を食い縛るのだ。ビクン…と体が揺れる振動、零れる微かな嗚咽。汗に濡れていく髪はもう、頭から水を被ったのと変わらない。


 五十… 五十一… 五十二… 五十三…


 五十四、を数えた途端、ギンコの体からいきなり力が抜けた。とうとう意識を失ったのだ。五十五…五十六…。鎚の音だけは続く。六十回目の音が響いたあと、不意に音は途切れた。そして少ししてから化野の目の前に閉じていた扉が開く。

 鎚を右手首に縛り付けてぶら下げたまま、刀師は部屋から出てきて、そこにいる二人の姿に、ぎくりとしたように脚を止める。

 もしも、凝視することだけで人を殺す術があるのなら、化野の目の前で、この男の息の根は止まっていただろう。それほどの目だった。意識のないギンコの体を包むように抱いて、床に膝を付いたまま、化野の目が真っ直ぐに男を見ていた。 

 刀師の目が、化野の目に吸い寄せられるように止まって、それから男はギンコを見た。びっしょりと汗に濡れた白い髪や、着ている服の、変に濡れた襟元、僅かに血の滲んだ唇、真っ青な顔で目を閉じていて、意識はなく…。

「あんたが…」

 ぽつりと、化野は言った。医家の言葉ではなかった。

「…あんたが憎い。殺したいほどだ」

 告げられた言葉に男は目を見開き、何も言えずにもう一度ギンコを見た。化野の目、そしてその言葉と、ギンコの姿。それだけで、到底信じられないような事実が、男の脳裏で形になっていく。

 男の顔が歪んだ。そうして男は腕を縛った布を解いて、足元に、ごとりと鎚を落とした。どろどろとした膿が、解いた布と手首の間に糸を引いて、酷い腐臭がする。

 もう、分かったのだろう、と化野は思いながら、それでも言わずにはおれなかった。

「分かったか…っ、あんたが今まで感じなかった痛みは、こいつが全部、背負ってたんだ…ッ。さっきだって言わずに、あんたがしたいようにさせたんだっ!」

 よろめいて、男は右肩を壁にぶつける。痛みがもう彼へ帰っていたのだろう。苦しげに呻いて右腕を庇いながら、彼の目がギンコをもう一度見た。

 化野は憎しみの色を目に浮かべたまま、それでも心から懇願する。ギンコの体をそっと床に横たえて、頭を地面につけて言った。

「頼むから…っ、その腕の治療をさせてくれ。もう、無茶なことをしないでくれ…」

 必死の願いが男の耳に届く。

「なぁ、あんた自身、痛みがどんなか分かってるだろう。その腕で無理に刀を打つ、その苦痛がどれほどか。どれほどの苦しみを、無関係のこいつにずっと味わわせてきたか、わかるんだろう…ッ! もう、やめてくれ…」

 男が何を為したいのか、化野には判らない。そんな腕になってまで、その腕を失ってまで一振りの刀を打つ。それが何になるのか、知りたくもない。

 ずるずると座り込んで、丁度数時間前、化野とギンコが見たのと同じ格好になった男は、あの時よりもずっと「人間」の顔をして言った。

「…つぐない、だよ…。俺が、刀の為に全てを費やしてる間に、山犬に食い殺されて妻が死んだ。その妻は食い殺されながら…胸に、まだ小さい娘を抱いて守り通したよ」

 空虚な目が、過去を見ているのだと化野には分かった。忘れてぇ、と、言いながら、ギンコがしていた目と同じに見える。過ぎ去って、もうどうしようもないことを傷む目だ。

「娘はなぁ、俺が駆けつけた時、まだ息があったよ。死ぬ前に、一言っきり、こう言ったんだ…」


 …父さま、お仕事終わったの…?


 小さな娘は怪我一つしていなかった。だけれど犬に食い殺されて、既に冷たく固くなってしまっていた母親に抱かれて、丸一日以上そうしていたのだ。脆い心はもう壊れていた。父親の顔を見て、それだけ言い終えると、命に何の執着もないように、そのまま…。

「…だから、刀を打つのか…」
「あぁ、そうだよ。妻と娘を殺したのは俺だ。なのに、二人を犠牲にしてやってたことを、何一つ、これっぽっちも成し遂げられないで、楽に死んでいいわけがないだろ…?」


 でも、もう…終わりなんだな…。
 俺は結局、出来やしないことの為に
 お前達を死なせたのか…。


 その悲痛な声は、化野にも届いた。続けられた言葉までは聞こえなかったが、きっと、もうこの世にはいない妻と娘の名前を呟いたのだと、化野は思った。

「…化野」

 唐突にギンコの声がして、化野は急いで彼を抱き起こしてやる。痛みが過ぎれば、ただ疲れているだけのような顔をして、ギンコはすっかり平気な振りをする。

「俺の木箱を取って、右下の抽斗だけ出してくれ。中身には絶対触るな」

 気遣いながら言う通りにすると、底の深いその抽斗から、布の塊を取り出して、ギンコはそれを刀師に見せる。何か言いたげにしている男に、詫びの一つすら言わせる気がなくて、言葉は少し急いでいた。

「これ、あんたが作ったもんで間違いないんだろう?」

 慎重に手にしたのは勿論、彼が古道具屋から買い取った、あの小柄だった。






 

 

 

 話が、凄く重たい。すみませんです。この話は結局、死と償いをテーマにしているのかもしれないですね。ギンコは死なせてしまった研ぎ師のジンに、償いたかったのです。けれどもうこの世にいない人への償いを、いったいどうしたらいいのか…。

 そんな彼の痛み。そして妻と娘を自分のせいで死なせたジンの痛み。さらにこの作中の刀師の男の、同じ形をした痛み。どこかに救いが欲しくて、だけれど、物事はそんなにはうまく行きはしないのですね。

「贖う」という言葉は「償い」と同義だとかwikiに書かれていますが、私はちょっとだけそれと違う気持ちでタイトルに使いました。つまり「本当は罪など償う必要のないものの償い」。

 誰にも罪などない。

 そう言う意味のことを呟いた、原作のギンコの言葉を思い出して頂けましたら幸せです。それにしてもほんとに重たくてスミマセン。



11/03/13