贖い傷   - aganai kizu -  5







 水滴の音を聞きながら、化野はギンコの背中へと手を伸ばす。

「…したいか…?」

 ぽつりと聞いたのはギンコの方。見当外れのその言葉に、くす、と小さく笑って聞かせながら、化野もまた言い返す。

「そっちこそ。したいのならしてやるが?」
「…あー…ちょっと、今は疲れてるしな。体力使い果たしてる場合でもないからな」
「だろう」

 耳元でそう言って、化野はギンコの背中に胸を重ねた。腰から前へと手を回し、腹の上で指を組み合わせる。髪に唇を埋めて、低い静かな声で化野は言った。

「このままで眠れるか?」
「…… 聞くくらいなら、すんなよ」

 少し遅れて答えたギンコの声には、小さく笑いが滲んでいる。零れた吐息は安堵しているようで、化野はそっと言ったのだ。

「何だか、お前がさ…。今にも折れっちまいそうに見えて堪らんのだ。だから、簡単には折れないように、こうして添っててやるんだ。…あぁ…自己満足ってやつかもな…。すまん…ギンコ…」

 唇に耳朶が触れる。小さく齧るようにして囁くと、ギンコはくすぐったそうに首をすくめた。それから暗がりの中で、長い長い沈黙が落ちる。水の滴る音は、まるで時を計るように、ずっと響いていた。洞窟に反響して不思議な音に聞こえる。

 もうじき夜が明けるのに、夜へ戻っていくみたいだ。
 それとも…過去に、帰っていくみたいな…。

 ギンコはそう思っていた。気を抜くと、脳裏に浮かぶものに囚われそうだ。過ぎてしまったあやまちが、また追い掛けてきている。震えが止まらない。腰に回されている化野の手に、かすかに力が入った。
 
「…昔…な、刀の研ぎ師が…ある里にいてな」

 唐突に告げられた言葉に、化野は何も聞き返さなかった。黙って、ギンコの肩の上にのせた顎で、ただ小さく頷いた。

「その男には小さな娘と、妻がいたよ。男は厄介な蟲に憑かれていたが、それでも幸せそうに見えた。だけどな、その男の妻も娘も、すぐに、そいつだけを残して死んでしまったんだ。それどころか、その男の里の人間は全部死んだ…」

 それが、自分のせいだというのだろうか。何があったのか、と、それ以上を聞くことが出来なくて、化野はギンコの肩に頬を押し付けた。聞くだけで、楽にしてやれることなど多くはない。

「待て。…刀の? もしかして、これから会うのはその男か?」
「…いいや。その男も、もうとうに死んだよ。そいつは研ぎ師で、今探している男は刀鍛冶だしな。…関係ないが、助けたいんだ…。それだけだ」

 また沈黙が落ちた。水の滴る音が再び聞こえてくる。死んでしまった刀の研ぎ師と、今も苦しんでいる刀鍛冶。同じく刀を扱う生業だと言うだけで、こんなにまでして助けようとしている意味を、化野は考えた。

「…そうか、助けたいのか」

 そして、化野はそう言ったのだ。こくり、とギンコが頷いたのを感じる。聞いた以外の事を、化野は問い質そうとはしない。今度はギンコが言った。

「あぁ、忘れてぇ…って、言ったろ…?」

 そう、ギンコは言うのだ。辛そうだったが、少しだけ安堵したような声だった。化野は分ってくれる、そう思って呟く、そんな言葉だった。

「関係なくても、そいつを助けたら、少しくらいは忘れられそうだと思ったんだ。ずっと前の痛みを、さ」

 
* ** ***** ** *


 俺は名工なのだそうだ。その呼ばれ方にそれほどの感慨はなかったが、打った刀を手にしたものが、時を忘れたようにうっとりと見惚れ、口々に褒め、欲しがるのを見るのは嫌いじゃなかった。

 俺の刀は、手にするとひいやりと冷たくて、それでいて触れた肌に吸い付くような心地がすると、皆がそういう。呼吸でもしているように感じられ、とても血で汚そうなどとは思えぬそうだ。

 だから俺の刀は、大抵が飾るためのものとして頼まれ、そうでなかったとしても、結局は生きたものを斬るためになど、誰ひとりとして使わぬままなのだ。

 そうだとも、と、俺はいつも思っていた。
 それは生きているのだ。
 いや、刀そのものには命など無いが、
 命あるものが、確かに宿っているのだ。

 鉄の塊が、俺に打たれ、打たれして、刀の形を取り始めると、どこからか銀色に光るものが現れる。

 それはきらきらと静かな光を纏いながら、空気に混じってゆれる粉のようなものだ。そうしてそれは俺の刀に纏い付き、刀がとうとう出来上がる時、刀身を覆ってそこに宿る。

 僅かもしそんじることなく、見事に打ち上げたもののすべてに、同じことが起こり、刀は見目もとても美しいというのに、買いに来るものも、手伝いに使っているものたちも、他の誰に聞いても、その光るものは見えていなかった。ただ、


 ある時、ふらりと現れた旅の男が教えてくれた。
 蟲、と呼ばれるものの一種だ、と。
 美しいものに宿る習性があるのだが、
 人の作ったものに憑くのを始めて見た、と。
 その男は、他には何も言わずに去った。

 俺は思ったのだ。それならば、俺は確かに名工なのかも知れぬ。そう呼ばれることを、誇らしく思うことはなかったが、妻が子供を抱きながら、嬉しそうに労ってくれるのだ。

 刀師の妻は苦労が多い。刀を打つことは神聖とされ、妻や娘だとしても、鍛冶場に近寄ることは許されない。いったん刀を打ち始めると、一振り仕上げるまで、刀師は鍛冶場に籠もり、時にはひと月も出てこない。

 その間、一人で家を守り、子供を守り育て、ひたすらに待っていてくれる妻が、まだ幼い娘と笑顔を並べて、俺を労ってくれる。

 俺は刀を打つのが好きだ。妻と娘も、俺の気持ちを分ってくれている。だから俺は、刀を打つのが好きなのだ。刀師というこの仕事で、妻と娘を養えることが、いつもいつも誇らしかった。

 
 そんな、ある日のことだった…。


 刀を打っている途中、外で手伝いの男と誰かが話す声が聞こえたのだ。うるさい、と俺は思った。刀を打っている間は、手伝いのもの以外は、近寄らせるなと言ってあった。

 赤く熱した鉄の塊へ、大きな鎚を振り下ろしながら、わずらわしい、とさえ思っていた。早く帰ってくれ。用があるなら、この刀が仕上がってからにして欲しい。今は手が離せない。刀師とはそういう仕事だ。

 うるさいと思いながら放っておいたが、まだ外で話し声が続いている。俺は懸命に刀を打っていたが、横で手伝うものの手が、俺の呼吸と僅かにずれた。鎚は見当違いの場所を打ち、俺は唇を噛んで手を止める。

 …駄目だ、やり直しだ。

 溜息をついて、俺は槌を横に置き、手伝いの男に休むように言った。火にあぶられて真っ赤な顔から、滝のような汗を流しながら、荒々しく外への戸を開けた。

「…何の用だ。鉄を打つ音がする間は、誰も寄らんでもらうよう言った筈だったのに」

 そこにいた男は俺の顔を見て、俺の言葉を聞くと、戸惑うように顔を伏せながら言ったのだ。

「…あんた、最近、奥さんと会ったかい? 娘さんとは?」
「いや…。刀を打ち始めたら、ひと月会わないことも珍しくない。今も半月は会っていないが」
「だったら、一度家に行ってみた方がいい。何でもないかもしれないが、さっき家の前を通ったら、風に混じって少し…」

 ち の に お い が し た よ 

 一瞬、なんのことか判らなかった。無反応の俺をどう思ったのか、男はきょろきょろと、あたりに生い茂った木々の隙間を透かし見ながら、さらに言葉を続ける。

「知ってるだろう。この辺は山の中みたいなもんだから、山犬も多い。しかもここんとこ、犬ども、旅人を襲って食い物を漁ることを覚えたらしくて、こないだから怪我人が出てるんだよ。それであんたんとこは大丈夫なのかと思って来てみたんだ、そしたらなんか…血の…。…ひ…ッ…」

 きょろきょろと見回し続けていた男の視線が、ある一箇所で止まっていた。彼の見ている木々の隙間から、一匹の黒い山犬がこちらを見ていたのだ。犬は口に何かを咥えていた。

 薄茶色のものだ。布切れのように見える。俺は目を凝らした。偶然だが、山犬がさらに少しこちらに近付いて、咥えた布の模様が見えた。見覚えがある…。あれは…。あの模様は……。




「う…うぅ…ッ」

 呻いて、男は目を覚ました。声を抑えきれないような激痛が来て、いつもこの後だ。嘘のように左腕の痛みが消えていく。

 早朝だが、そんなことは関係ない。起きて作業をしなければならない。痛みがないのは一日二度か、多くて三度きりの短い時間だけだ。腕が使えるのはその間だけだから、刀を打てるのもその間だけ。

「待っててくれ。きっともうすぐ、できるからな…」

 男はそう言って、小さな炉に火を入れた。














 あれっ変だな、今回そんな痛そうじゃないや。じゃなくてー。別に痛くさせるのが目的なんじゃなかったのよ。ほんとだよ? でも…よくみたら。刀鍛冶さんの心が痛そうな。

 とうとうオリキャラさんが出ましたが、回想ばっかりで、外見とか描写する暇がなかった。ギンコさんたちがついた時に書こうと思いますー。そしてまだ蟲の習性をはっきり決めてな…、なんでもありません。

 この通り暗い話ですが、よかったらまた続きを読んでやってくださいね。ありがとうございましたー。

 あぁ、そうそう、友情?出演の「蟲のことを教えてくれた男」とは誰だと思います? ギンコじゃないですよ? チョイ役もいいとこなんで、もう出ませんし、ご想像にお任せしますね。




11/02/25