贖い傷   - aganai kizu -  4







「で、次はいつなんだ」

 苛立った声で化野が低く問う。微かに目を見開き、化野にしか聞こえない小さな声で、ギンコは答えた。

「そんなもん、わかりゃしねぇよ」

 そうしてギンコは茶屋の女将に礼を言い、まだ青いままの顔色で立ち上がる。背中に木箱を背負う仕草にも、さくさくと歩いていく後姿にも、具合の悪そうな様子は欠片も無いが、化野は食い入るようにその背を見つめて追いかける。 

「嘘だろう。さっきもお前は痛みの始まる前に、俺から離れようとしてたんだ」
「そんなのは気のせい…」
「…そう言うんなら、もう俺の傍から離れるな」
「わかったよ…」

 化野を置いて行きかねないような、速い歩調が少し緩んだ。項垂れて、唇を噛むギンコの顔が、後ろを付いて歩いている化野にも見るような気がする。そして夕刻。細かい雨が降り出して、丁度よく見つけた小さな洞に、二人で潜り込んで腹ごしらえをした。

 腹ごしらえと言っても、干した雑穀やら魚やらを水と共に口に入れて、しつこいほど噛んで、飲み下すだけの簡素なものだ。

「いつもこんなもんしか食べてないのか?」
「あぁ。持ち歩ける量に限りがあるし、生のものは傷みやすい」
「………」

 継ぐ言葉がなくなって化野が黙ってしまうと、その沈黙が嫌だったのか、ギンコは彼を振り向いて、小さく笑みを見せる。

「だから、お前の家でいつも出してくれてる諸々は、俺にとっては最高のもてなしだよ。作りたての温かい汁物も、乾かしてない菜も飯も、とれたばかりの魚もな」
「そうか…」

 化野の言葉は短い。雨の音が二人の耳に届いている。細かい雫が木々の葉を打つその音は、酷く静かで優しかった。森の夕暮れは短くて、直ぐにも夜が追いかけて来る。木々が黒い影になって、雨が少し強くなり、そんな中で、ギンコは化野の着物の袖に手を伸ばした。

「…もう、じきだ」
「ギンコ」
「は…。意気地がねぇ、よな。本当を言うと、逃げてぇ…ょ…」

 痛みから、という意味だろうか。それともやはり、化野の傍から逃げて、苦しむ姿を見せたくないと…。

「もう、忘れ…てぇ…」

 声は震えていて、袖に届いているギンコの指も、細かく震えていて…。そうすることに何の意味もないと判っていたが、化野はギンコを抱き寄せた。両腕を背中へ回し、包むように抱いて、抱き締めた。そのまま口付けをして、ごつごつと岩の地面を体に感じながらも、互いを抱いている。

 長い長い口付けの最中に、ギンコの体が、突然びくりと跳ね上がり、彼は顔をそむけて化野の体から腕を解く。上着を引き寄せ、左腕も右腕もその中に巻き込み、指先を隠す仕草の意味が、判るような気がする。そう、多分、しがみ付いて化野に怪我をさせないように…。

「あだし…っ。く、来…る」

 薄闇の中で、ギンコの目は酷く怯えていた。化野は黙ったまま、手元に用意してあった手布を固く丸めてギンコの口元に差し付ける。少しばかり笑って、ギンコはそれへ歯を立てた。

「ん…ぅ、ッ。……んんぅう…!」

 仰け反る体が、岩の上でのたうつ。化野は両腕を伸ばして、しっかりとギンコの体を抱いた。上から包むように抱き締めると、ギンコは固く目を閉じながらも、同じように体を丸め、激しい痙攣を、繰り返す。

 岩で切ったのか、いつのまにかギンコの頬に血が滲んでいた。汗にまみれた顔に、白い髪が張り付いて、そのまま乱れてくしゃくしゃになる。苦しんで苦しんで、痛みを押し殺すように項垂れると、顎や鼻の先からぽたぽたと苦痛の汗が滴る。涙までが零れて、彼を抱き締めている化野の、着物の袖を濡らしていた。

「んん…、ぅあ゛…ッ…ぁ」
「…ギン…コ…」

 あぁ、この痛みの半分だけでもいい、俺が変わることが出来たら。無理だというのならほんの十分の一でもいい。ほんの欠片ばかりでも、ギンコの苦しみを減じたくて、化野は彼の体を抱いて押さえつけている。化野の目からも、涙がとめどなく零れていた。

 そして、酷く長く感じるひと時が過ぎた。ぜぇぜぇと喉を鳴らしていたギンコの息遣いが、ゆっくりと穏やかになって、唾液と血を吸い込んだ布が、彼の口からぽろりと落ちた。化野に抱かれたまま、ギンコが唐突に仰け反って、意識を失ったのかと化野は思う。

「あ…。ギン…っ」
「…だい、じょう…ぶだ。も…過ぎた」
「ぁあ…そうか…。そ、そうか…よかっ…」

 抱き起こして、乱れた髪を掻き上げるように撫でてやり、涙と汗で酷い有様のギンコへ、化野は無理して浮かべた笑顔を見せる。

「じゃ…じゃあ、そのまま寝るんだ、ギンコ…。眠ってる間に、俺が体を拭いてやるから」
「悪…いな…。布はもう一枚くらい、そこにある…だろ? 飲み水は余分がねぇ…。けど、外に出れば、多分、雨水、たまってるとこがあるし…無くても、草にたまった水…」
「あぁ、判ってる。判ったから、もう目ぇ閉じろ」

 強引に手をかざし、目を閉じさせると、ギンコはあっと言う間に眠りへ落ちた。化野はギンコの服を脱がせ、全身どこも汗にまみれた肌を、丁寧に拭いてやった。布を絞る水は、飲み水を無駄にせず、ギンコの言ったとおりに洞の外へ出て、草にたまった雫を使う。

 ギンコの右肩には、強く打ったような痣があったが、それは昼間、木の幹に打ち付けた跡だと判っていた。相変わらず、どこにもそれ以外の怪我はない。腕は勿論、他の場所もなんともなくて、そのことが化野にはかえって苦しいのだ。

 痛みの原因が怪我や病なら、俺にも出来ることがあるのに、ただ抱き締めててやるしか出来ない事が、悔しくて辛くて堪らない。打った痣に、痛みを和らげる膏薬を塗ってやり、それを済ませてしまうと、もう何もしてやれることがないのだ。

「せめて、ぐっすり眠ってくれよ…」

 押し殺した声でそう呟いて、化野はギンコの傍に横になり、そっと彼の腕に手を添えて目を閉じた。


    * ** ***** ** *


 雫が滴る音で目が覚めた。どこか、傍で音がする。洞の天井から滴っているのかもしれないが、こんな音…、ギンコが目を覚ましちまうじゃないか、と、化野は思って、ぱたりと目を開けた。

 まだ夜半らしい。闇の中に、ぼうと浮かび上がるようにして、白い後姿。手のひらを上へ向けて差し出して、天井から染み出してくる水を、ギンコは集めているようだった。

「すまんな…。音が気になったか? 洞の中だから響いちまうな」

 そう言って、振り向くこともなく、ギンコは自分の手のひらに溜まった、僅かばかりの水を啜る。

「喉が渇いたのか? そんなの、竹筒に水が…」
「……言ったろ。飲み水は余分に持ち歩いてねぇ」

 幾雫かの滴りを、舌先で舐め取るギンコ。

「…なぁ……」

 ぽつり、と、零れたギンコの声が、案外と大きく洞の中に反響した。

「どうしても、どんなことしても償いてぇ相手。そういう誰かが、お前にも、いるだろ?」
「…あぁ、そうだな」
「なのにもう、その相手はいない。そういうことも、あるだろう?」
「……あぁ」

 そうだ。化野だとて、人の命の重さを、その背に感じたことがないわけはない。それほどの後悔をした相手。彼は医家だから、そういう相手がもうこの世にいないこともある。いくつかの過去を思い出し、その記憶を脳裏に浮かべながら、化野は無意識に強くこぶしを握った。

 償う相手がもういなくて、それでもどうしても償いたい時は、ひとりでも多く、他の誰かを助けるしか方法がない。化野は、そんな気持ちで医家をしている。助けられなかった後悔と痛みを、それで紛らわすわけじゃないが、そうしなければ、と、一人でも多くを救わなければと思うのだ。

「辛いことを…思い出させたんなら、悪かったな、化野」

 そう言って詫びて、ギンコはさっきまでと同じように横になった。その背中を眺めて、酷く苦しそうだった彼の言葉を、化野は思い出したのだ。

 もう 忘れてぇ …

 そう言って、忘れることも出来ず、償う相手ももういなくて、その辛い思いを、ギンコも噛み締めているのだろうか。

忘れてぇ …

 何を? 忘れるために、もがいているのか? ギンコ、お前…。だけどきっと、その痛みを抱えているのは、お前がお前であるがゆえ。岩から染み出す雫が、ぽたり、ぽたりと、微かな音を鳴らし続けていた。



















 そろそろ刀鍛冶さんを出そうと思ったんですが、なんといってもその彼のことが、色々様々未決のままで。←えー、なんですと! 次回は出ると思います。今回はそういうわけで、なんだかだらだらした展開でスミマセン。

 いや、ギンコ、めっちゃ痛そうなんで、だらだらとか言ったら、先生に殺されそうですが…。はは。

 そういえば、この先の何話かあと、結構派手に流血が起こりそうなので、苦手な方は、パソコン画面から十メートルくらい離れて読んでください。それくらい離れれば、血飛沫くらい回避できるかと…。ふふふくくくく。

 っていうか、雪の東雲と贖い傷は、更新ペース通常とか言ってなかったか? おせぇよっ。怒! 冒頭の『次はいつなんだ?』が、私自身への言葉のようだぁぁぁぁぁぁ。げふぅっ。




2011/01/23