贖い傷   - aganai kizu -  3







「こ…ここ…っ、からも、見える」
「あぁ、お前の家は高台だからな」

 ふうふうと息を付きながら、化野は遠くに見える自分の家を振り返っていた。そんな彼へ竹筒の水を差し出して、ギンコはやんわりと笑う。化野は竹筒を受け取る前に、そっと気遣うようにギンコの腕に触れた。

「痛まないか?」
「…痛かねぇ」

 ぶっきら棒に言って、ぐい、と水を押し付け、ギンコは先を歩き出す。どんな道をも歩き慣れたギンコは、化野のために随分と歩調を緩めていたが、うっかりしていると少しずつ距離があいた。

 少し、離れて歩きたい。

 そんな気持ちがあるのを、ギンコは隠している。もうじきだと判っているからだ。「痛み」が始まれば隠しては置けない。できることなら何か理由をつけて身を隠し、やり過ごしてしまいたいとすら思う。本当は、苦しんでいる姿を見せたくないのだ。

 けれど。

「…っ…、あ…」

 痛みは、唐突に彼へと襲い掛かる。じわ、と滲むように痛んだと思ったら、次の瞬間には、右手首に、そして右肘にまでも。大きな石か何かで、骨をじかに打ち砕かれるような痛みが来た。堪らずギンコは地に膝を付いて、右の腕を胸の前に庇って蹲る。

「ぁあ…っ、くっ、うあぁッ」

 びく、びくッ、と苦痛に背中が跳ねる。身を捩り、額を土に擦りつけ、それでも堪らずに横倒しになった。これほどの痛みは、経験したことが無い。意識が飛び掛けて、いっそ気を失いてぇ、と思いながら、そこまではいけずに呻くのだ。

「…ギンコ…ッ」

 かなり歩き遅れていた化野が、やっと傍に駆けつけてギンコを庇う。しかし、庇うと言っても、その痛みを和らげる術はなくて、ただただ痙攣する背中をさすってやることくらいしか出来ない。

「あ、ぅあ…っ、ぐ、…ぅっ。あだ…し…」
「んっ? なんだ? どうして欲しい? ギンコっ」
「く、口…。く…ちに、何か…。舌ぁ、かっ、噛んじま…ッ」

 言われて、化野は狼狽した。首に手ぬぐいの一枚でもあればいいものを、そんなものはない、慌てて背中の荷を下ろそうとする間にも、ギンコは苦しげに呻いて、額にも頬にも汗を流して青ざめているのだ。

「こ、これを噛んでろ…っ」

 差し付けられた布をきつく噛めば、その下に何か別の感触、そうしていきなり血の味が滲んでくる。食い縛った歯を、緩めることが出来ないまま、目で確かめたそれは、化野の着ている着物の袖。噛んでいるのは化野の手首だった。

「…ば…っ」

 慌てて口を外し、言い掛けた言葉が、嗚咽に飲まれる。肘から、腕が断ち切られたかのような激痛。

「ひ…っ、ぐ…ぁああッ。ん…んん…ぅ」
 
 化野はギンコの口に、自分の手首を押し込んで、無理にでもそれを噛ませた。がち、とギンコの歯が袖の布越しに骨に当たる。熱いものが滲んでくるのがわかる。それでも、ギンコが味わっている痛みの、何分の一か、何十分の一かでも味わえるのが、化野は嬉しかった。

 ギンコとともに、激痛に歯を食い縛って、痛みの去るのを待とうと思ったのだ。だが、それまでそうしていることを、ギンコは自分にも化野にも許さなかった。痛みは続いているのに、無理に化野の腕から口を外し、半分這いずるように無理に立ち上がって、庇おうとしている彼の体を突き飛ばす。

 逃げるように、転びかけながら緩い坂を走って、走って、痛む右の腕を、肩ごと木の幹にぶつけて、そこでギンコは力尽きた。木に縋り、ずるずると座り込んで、歯を食い縛ったまま彼は吐き棄てる。

「…お前を、つ、連れて来たのは間違いだっ…た…ッ。帰ってくれ! か、帰ってくれ、あ…あだし…。う…ッ、ぅあ、ぁ…」

 がくん、と体を揺らして、それきりギンコは意識を失った。化野は再び、必死になってギンコの元へ駆け寄り、ぐったりと木に寄りかかるギンコの体を抱き締めた。

 ギンコの体は熱くて、全身がぐっしょりと汗にまみれている。唇が赤く濡れているのは、化野の手首から流れた血だけではなく、ギンコ自身が痛みで唇を噛み切っているようだった。

「く…そ…ぉ、なんで…なんでギンコがこんな…」

 渾身の力を出して、化野はギンコの体を背中に背負う。ギンコと、ギンコの背負っている大きな木箱の重みで、立ち上がることすら難儀だったが、それでもじっとしていることは出来なかった。

 ギンコの意識がなくとも、ここでじっと目覚めるのを待つよりも、ほんの少しでも解決へ向かう方向へ進みたかったのだ。転びかけ、なんとか踏み止まり、じりじりと這うように時間をかけて、化野は斜面を登り、登り切ったあとは山を下った。

 隣里へ着くまでの間、二度も転んだが、前のめりに潰れるだけで、ギンコを落としてしまうようなことはなかった。膝や手のひらに擦り傷を作ったが、それを手当てすることもせずいたら、里の入り口で声を掛けられた。

「あんたぁ…確か、化野先生じゃないのかい? 山向こうの隣里の。そりゃ怪我人か? 手ぇ貸すよ」
「…あぁ、い、いや…いいん…」
「よかないだろ、先生、怪我までしてるだろうに。ほら、貸しなって。あそこの茶屋の軒を借りようや」

 強引にギンコの体を背中から剥がされれば、化野はそのまま座り込んでしまって、うまく立ち上がることも出来ない有様だ。男はギンコを背負った上、化野に片手を差し出して立ち上がらせてまでくれた。

「す、すまん…」
「いいってことよ。前に悪い風邪が流行ったとき、うちん里は先生に世話になったからさ。おかみぃっ、悪いけどここ貸してくれよ。そいから水をいっぱいくんな、怪我人だからさぁ」
「なんだね、騒々し…。あれまぁっ、隣里の医家先生じゃないかね。その節は世話になって…っ。はいよ、水」

 気の良さそうな茶屋のおかみも、化野のことを判っているらしく、すぐに水を出してくれ。長椅子を二つくっつけて、ギンコをそこへ寝かせてくれた。

「この人、どこ怪我してるんだい? 先生は膝と手のひらだね? うちにゃ塗り薬くらいっきゃないけど…」
「いや、道具は持ち歩いてるからいいんだ。俺のは大したことないし、ギンコのは…その…」

 竹筒に分けてもらった水を、化野は自分の手のひらに少し、着物を捲った膝に少しかけて、土の汚れを落とした。それからギンコの傍に行って、首だけを軽く持ち上げ自分の膝の上へギンコの頭を乗せさせると、彼の乾いた唇へ、ほんの数滴の水を垂らしてやる。

 無理に意識を戻させる気はなかった。もしかしたら意識が戻れば、またあんなふうに苦しむかもしれないのだ。どんなに大変でも、このまままた背負って進もうと、化野はそう思っている。だが、この先の進むべき行く先を、ギンコに聞いていなかった。

「聞きたいんだが、噂ででも、知らないだろうか…。その…。大怪我をしてるのに、痛みを感じていない怪我人の…」
「…あぁ、その話だったら」
「水無川の谷に住み着いた、あの男のこと、じゃねぇのかな」

 知らなくても元々、と思って聞いたのに、村人も茶屋のおかみも、知っているようだった。

「どんな男だ?」
「…どんなって、噂だから詳しくは知らないけどな。なんでも右の腕をぐるぐると布で巻いて現れて、どうみてもその腕が使えないふうだったのに、それでも時々、そいつが住み着いたあばら家から、鉄を打つ音がするんだと」

 場所は、と化野は低い声で聞いた。急いで突き止めたいと思う気持ちの中に、その男への恨みや憎しみが膨れ上がっていたのだ。心臓が胸の奥で、どくどくと鳴っている。

「悪いけど…厄介ごとは、ごめんだよ、先生」

 そう言ったのは茶屋のおかみだった。おかみはその男を、遠目にだが一度見たことがあるのだという。丸めた背中のその後姿から、黒い影のようなものが、滲んで見える気がしたのだと、彼女は恐ろしげに言った。

「もしも先生が、あの男のことを助けに来たっていうんなら、それはいいんだ。だけどとってもそうは見えない。わかるだろ? 余所から入ってきた人間が、誰かに恨まれたまんまこの里ん中で死ぬなんて、ことは…。土地が穢れちまうじゃないか…」

 おかみは化野に水をくれた器を、木の長椅子の上で、すい、と自分の手元へ引いた。

「大丈夫。それは…ねぇよ」

 ぽつり、その声が場に染みるように淡々と…。いつの間にか意識を取り戻していたギンコは、仰のいた顔を少し横へ向け、高い空にかかっている日の光へ目を細めていた。

「この男は医家だ。私情私怨で怪我人に手ぇ出すなんてこたぁ、ありゃしねぇさ。そうだろ、化野」

 よっこら、と、一声言いながらギンコは身を起こす。

「そんな男だからこそ、俺だって、こうして頼ったんだ…」
「……」

 化野は何かを言いかけ、結局は何も言わずに茶屋のおかみからもういっぱいの水を貰った。その水を二人で分けて飲んで、ギンコは水の味を、ほんのりと甘い、と思った。けれど化野にとって、その水は少し苦かった。

「一つ、言っとくぞ、ギンコ。…俺は俺自身の下らん信念なんかよりも、ずっとお前が大事なんだ」
「…下らんなんて、言うな」

 酷く済まなそうに、ギンコは小さく笑って言った。

















 あけまっし! ことよろーり〜。←こら、ちゃんと言え。

 新年書き初めのノベルがコレですかー。迎春ぽいものが書けなくてすみませんっ。暮れにだって、あと、一つや二つ書きたかったものを、さっぱりでしたしね。こりゃあと正月の休みの三日と少し、どれだけ書けるか気合が必要ですことよ。

 ともあれ! 新年早々、脚?を運んでくださいました方、ありがとうございますっ。今年も多分、一番多く書くのは蟲師でしょう。がんばりますっ。




2011/01/01