贖い傷 - aganai kizu - 2
「ギンコ…っ」
化野は茶碗を放り出した。茶碗は畳に落ちたため割れず、茶を零しながら部屋の隅まで転がっていった。駆け寄ると、ギンコは項垂れたまま、食い縛った歯の隙間から零すように言う。
「なん…でもねぇ…。大声、出すんじゃ、ねぇ…よ」
「怪我か…っ!?」
「…して、ねぇ」
「なら、病」
「してねぇって…。ぅう…」
ぽたり、ぽたり、とギンコの顔から汗が滴る。蹲るような姿勢で、右腕を庇っているギンコの体を、半ば抱え上げるようにして、部屋の中へと上がらせる。貸した肩にはギンコの震えが響いた。布団に寝かせようとしたが、苦痛に身を縮こまらせるギンコを、楽な姿勢にしてやるのは難しい。
半身を下にして小さく体を丸め、時折、びくり、と体を痙攣させるギンコ。そんな彼を気遣いながら、化野はギンコの体に怪我を探す。痛がっているのはどう見ても右の腕。肘よりも先の方に思えた。だけれど服の上から触れてみても、触れたことによって痛みの増した様子はないし、熱も持っていない。逆に異様に冷えているということもない。
痛がる姿に胸を痛めながら、治療のためだと心を殺し、一度彼の体を無理に抱き起こした。すると化野の胸へ身を預けながら、浅い息の下からギンコは言ったのだ。
「言った、だろ…。どこも悪かねぇ…って」
「……いいから、診せろ」
「…は……。気の、済むように…」
小さく笑って、ギンコは極力体の力を抜いた。化野はギンコの着ている服の上を脱がせ、上半身を裸にさせると、まずは腕から、肩、胸へと…ゆっくり手で触れて確かめた。
灯りを傍へ寄せて、熱を持つ以外、姿形に変化がないのか見たが、見つからない。骨が折れているでもないし、肘や手首が外れているわけでもなかった。打ったような青痣は勿論、切り傷も擦り傷もない。腫れてもいない。
「いったい…何が」
「気ぃ、済んだか…?」
ぽつり、とギンコはそう聞いた。ついさっきよりも、かなり痛がる様子が薄れている。はぁはぁと息は浅かったが、じっとしてもいられぬように激しく震えてはいなかった。
「怪我人は、俺じゃねぇんだよ。あぁ…喉、渇いた。茶、くれよ…化野」
「……判ったよ…」
化野は恨むようにギンコを見たが、すぐに立ち上がって茶を入れ直してくる。湯を沸かしなおす手間を省いたのか、茶は酷く温かった。茶碗を左手で持って、ギンコは嬉しそうに茶を啜る。一息に飲み干し、傍らに茶碗を置き、彼はそのまま化野の布団に仰向けに寝転がった。
「風邪をひく」
化野は短くそう言って、ギンコの体に布団をかけてくれ、その後は何も言わずにきつく唇を噛んだ。いまやギンコよりも、化野の方が青ざめている。医家だというのに、苦痛に苦しむギンコを、助けてやることも出来ない自分を、責めているように見えた。
そうして暫しの沈黙の後、言葉を発したのはギンコだった。さっきまでの苦しげな姿が嘘のような、あまりにいつも通りの声だった。
「あぁ、どうやらおさまった…」
弾かれたように顔を上げ、常の癖なのか、化野は忙しなくギンコの額に触れ、左の手を取って脈などを診た。懸命な顔をしている彼に、ギンコは言った。
「化野ひとつ、話をするから聞いてくれ。俺ら蟲師が、時に、薬代わりに使う蟲がいてな」
「…薬……?」
「医家も、患者の苦痛を和らげるために、時には麻酔の効果のあるものを使うだろう? そういうような、いわば蟲師専用の痛み止めだ。蟲の名を『みうつし』と言うが、俺らは単純に、痛み止めと呼んでいる」
「お前」
と、化野はギンコに言うのだ。
「本当に、もう、痛くないのか。さっきはあれほど苦しそうだったのに。これがその、痛み止めとやらの効果なのか?」
「…いや、寧ろ、さっきのあの痛みの方が『みうつし』のせいだ。『みうつし』は『痛み移し』の意でな。俺のもんじゃねぇ痛みを、俺は味わわされていたんだ。判るだろう? つまり、酷い怪我をしながらも、痛みを感じずに悪化させてくばかりの人間が、どこかにいるってことだよ」
化野はギンコの淡々とした話を、身じろぎもせぬままに聞いた。ギンコが言葉を切ると、膝の上で固く握りこぶしを作り、激しい思いを必死で抑えながら言った。
「判るさ。つまり…その『みうつし』とやらをお前に憑けた奴は、他人に自分の痛みを押し付けて、自分はのうのうとしているってことだろう」
「いや、別に故意に憑けられたんじゃねぇよ。古道具屋からある蟲絡みの品を買い取ったんだが、迂闊に触れて、この通り憑かれちまった。だから、俺の落ち度も」
「ちょっと迂闊だったせいで、なんでお前が…っ」
「…落ち着けって」
ギンコは身を起こし、化野の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「とにかく、お前の手を借りてぇ。…難儀を掛けると思う。それでも、手伝ってくれるか? 化野」
「……」
化野は目を閉じ、口を引き結んでいたが、やがては目を開けてギンコを見つめ返した。
「手伝う、とかじゃない…。お前がそんなに苦しんでて、俺がそれを放っておくと思うのか…?! 怪我人とやらを探すのだろう? いつ行くんだ? 今すぐか? 支度なら、四半時もあれば…っ」
「…夜が明けてからでいい。ここを留守にするんだ。里人へも話していかにゃならんだろ。どっちにしても、夜明けからだ。化野…」
唐突に、だがゆっくりと、ギンコが化野の着物の袖に触れた。吹いていた風がぱたりと止むかのように、流れていた時間が緩慢になった気がする。ギンコの髪の、不思議な白の色や、翡翠色の片方限りの目から、視線が外せなくなった。
「い、今、そんな場合じゃ…」
「嫌か? 俺は今がいいんだ」
「お前…っ」
「さっきのを見ただろ? 俺がああなってちゃお前は手が出せねぇし、俺だってお前を誘ってなんかいられねぇ。だから今のうちなんだ。どうしても…嫌か? 化野」
「嫌なわけ…無いだろう。…もしも途中で、さっきみたいになったら止めるからな」
「そりゃそうだろ」
くす、と笑う響きを耳元で聞いて、化野はギンコの体を布団の上へと押し倒した。
「は…ぁ…っ、あ…」
胸を吸われて、ギンコは仰け反った。両腕で化野に縋りつこうとし、けれど快楽で弛緩した腕に力が入らずに、ただ小さく首を打ち振る。胸を愛撫していた唇が、ゆっくり下へと滑っていく。痩せた腹を辿り、骨の形が浮き出る腰を謎って、開かせた脚の間へと辿りつく。
「…あぁ…!」
小刻みに吸い付いて、強い快楽に溺れさせながら、口を離すたびに、化野はギンコを責めるように呟く。
「なんで…お前はそう、自分を大事に出来ないんだよ、ギンコ」
心の奥で言葉にしない思いが渦を巻く。判っているんだぞ。蟲煙草に蟲を払う力があるように、その『みうつし』を払う方法も、本当は判っているんだろう。判っているくせに、誰かのために、もしくは蟲のためにでもお前は自分を犠牲にする。
言葉にして責めても、きっとギンコは笑うだけだ。
あぁ? そんなことねぇよ。
払う方法がわかってたら、とっくに払ってるさ。
俺だって、痛ぇのや苦しいのが、
好きなわけじゃねぇんだから。
そんなことを言って誤魔化しても、もう化野にだって判っている。それでも、今までと違うことが一つあるのだ。苦しみや痛みを隠さずに、ギンコが自分を頼ってくれた。これまでには無かったことだった。
「…疲れただろ、ギンコ。もう止すか?」
息の速くなったギンコを気遣い、化野がそう囁く。ギンコは喘ぎながらも、はっきりと首を横に振った。
「嫌だ。今日は、最後までしてくれ、化野」
「朝、腰が立たなくなってても、知らないからな」
うつ伏せにさせたギンコの脚を開かせて、化野は彼の耳元にそう言った。
続
やっぱり師走は忙しいですね! 昨日お休みなのにノベル書けなくて、とっても悔しかった惑い星なのでした。なので今日はなんとか更新。あまり進展無くてすみませんーーー。この話の続きは、正月休みの間に書きたいと思っています。
10/12/24
