贖い傷 - aganai kizu - 1
ある谷に、蟲に憑かれた男が居るという。
男は過去に一度見た蟲をもう一度見たくて、
命も惜しまぬほどに思い詰めているのだそうだ。
それというのも、男が昔作ったある品に、
その蟲が宿っていたからだという。
「どうだい? 気になるだろう。買うか? この話」
昔馴染みの古道具屋が、ギンコの片目を覗き込みながらそう聞いた。ギンコは冷めた顔をして、視線を横へ向け、ふう、と煙草の煙を吐き出す。
「…昔見た蟲をまた見たがってる? それじゃぁ別に、今その男が蟲に憑かれているのとは違うんじゃねぇのか?」
「まぁ、そうとも言うわな」
もう返事もせず、背中を向け掛かるギンコの上着を掴んで、道具屋が彼の鼻先に、布を巻きつけた塊を突き出した。
「話は最後まで聞きなって。その男の居場所を捜す手がかりなら、ここにあるぞ。そいつの作った小柄だ」
「小柄? どこが小柄だ。そんなぼろ布…」
言い掛けたものの、よく見れば確かに、小柄の柄らしいものの先が少し、布の塊の中から見えている。粗い塗りのようだが、金色で唐草の模様が書かれているらしく、悪い品には見えなかった。
「…細工師なのか?」
「いや。これは刀の装飾の小柄だから、刀と対で作ったものだろうな。刀鍛冶なんだそうだぜ。その道のものに聞けば、大抵は知っているってくらいの名工らしい」
「刀…。刀鍛冶…」
一瞬、ギンコは視線を足元へ落として目を閉じた。何か遠い過去が、彼の脳裏へ押し寄せようとしたのだ。
「ちょっと…見せてくれ、それ」
「あぁ! 駄目だよ。ぐれぐれもこれの布を解くなと言われたんだ。危ねぇから、って」
「…誰に?」
「売りに来た奴にさ。なんでも、この小柄と一緒に、それだけは違えるなって、その但し書きがついてくるんだそうでな。だから俺も解かねぇで、このまんま店に並べてたんだ」
受け取って、布を解いてしまおうとしていたギンコの手が、中途半端に空に止まっている。彼はその手を引っ込めると、徐に背中の木箱を下ろして蓋を開け、一つ取り出したカラの抽斗を道具屋に向けて突き出した。
「じゃあ、そのままここへ入れな。買い取るから」
抽斗を元通りおさめた木箱を、いつもの通りに背中へ背負って、ギンコは項垂れて道をゆく。とうに過ぎ去った過去が、もうすぐ後ろまで追いついてきているようで、彼は自分のそういう性分が、心底嫌だと思っていた。
後悔なんぞ、生きている以上いくらでも繰り返す。誰でもがその記憶を少しずつ少しずつ薄れさせて、日々の忙しさに紛れさせることで過ごしているのだろう。なのにギンコはそうするのが下手で、時折こんなふうに、過去に飲まれそうに思う。
気付かぬうちに、何かに追い立てられるような気分で、随分と歩いた。息もどうやら切れていて、ギンコは道の脇の岩の上に腰を下ろし、さっき買い取ったばかりのあの布の塊を、木箱の中から取り出して手にする。
無造作に、本当に無造作に、適当な布を巻いただけの小柄。すべてを覆ってあるわけじゃなく、柄部分は空気に触れていた。慎重に、そっとその柄に指先を触れ、ひいやりとした冷たさに、かすかな蟲の気配を感じ取る。
「…いるようだな…。しかし、特に危なそうでもないが」
この気配、この冷たさ。どこかで知っているような気がして、それから視線を離して思い出そうとした。蟲そのものの姿を見れば、多分判るだろうと、そう思い、それでもすぐに布を解こうなどとは、思っていなかったのだが。
顔の高さに持ち上げて、さらに気配を探ろうと斜めに傾けたら、きつく布が巻いたままだというのに、柄から刃が滑るように抜けて、落ちたのだ。
からん、と音を立てて、それは踏み締められた地面に落ちた。反射的に屈んで拾い上げ、すぐに柄へ戻そうとした。だが、手を伸ばして拾った、その格好のままで、ギンコは動きを止めていた。
触れた柄が、何かでぬるりと濡れていた。葉に雫を結ぶ朝露のような、きらきらとした何かが指を濡らしている。氷のような冷たさが、濡れた場所から一気に手首までを覆って、鈍い痛みが、鼓動するように肘の方へと。
「…い…てぇ」
痛むのを構わず、その小柄を、布の中に納まったままの鞘へと押し込んだ。だけれどもう、痛みは消えず、ギンコの右の腕は、ずきずきと痛んでいる。
「く、そ…っ」
今更つく悪態は、気休めにすらならない。そんなこととは思いもせずに、ギンコは見も知らぬ「ヒトの痛み」を、買ってしまったのだった。
* ** ***** ** *
化野はその夜、今までに書き溜めた大切な記録を読み返していた。年にほんの幾つかずつしか増えないのに、気付けばその書き付けは数冊にも渡っている。それを大事そうに捲りながら、貴重な蝋燭が減るのも、惜しいとは思えず、夜半の月が既に随分と空を渡った。
それは、ギンコに聞いた蟲の話や、彼が珍しく話してくれた旅の話を、あとから化野が書き取ったものなのだ。
一つ、一つ、読んでいると、離して聞かせてくれた時の、ギンコの顔を思い出す。その表情や仕草も思い出されて、なんと言っていいか判らない気持ちになった。
「…お前、今頃…どこに」
そう呟いて、ふい、と顔を上げれば、閉じた障子に映る影が、見知った形を作っていて。
「ギ…ギンコ…?」
錯覚かと訝りながらも、するり、と名を呼ぶ言葉が漏れた。呼べば影はゆらりと揺れ、さらに部屋へと近付いて。
「珍しいな、随分と夜更かしだ。…化野」
「ほ、本当にギンコか…!?」
焦って立っていって、化野はうっかり障子紙に引っかき傷を一つつけた。そんなことにも構わず開ければ、月の青い灯りに照れされたギンコが、その白髪を薄っすらと青いような色に見せて、真っ直ぐに化野の顔を見ていた。
「…こっ、こんな時間に…」
「悪ぃ…。構わねぇで、いいからな」
言いながら、何故だか崩れるようにギンコは縁側へと腰を下ろす。いつもは背に背負っている木箱を、今日はどうしてか左手に提げていた。長い上着の袖に腕を通さずにいるのが、酷くらしくなく見える。そのせいだろうか、訳も判らず不安になった。
「どうした…? 疲れて、いるのか?」
間もなく早朝の訪れる、冷えた空気と判っていて、化野は縁側へと出て、ギンコの座った隣に膝をついた。ギンコは言った。
「治して貰いてぇ怪我人が、いる」
「あぁ。…どこに」
「…さてなぁ…。はっきりとはまだ判らん。だが、酷い状態でいるのだけは判ってんだ。少し、難儀をかけると思うが」
意味が、よく判らないと思った。だが、それでも化野は頷いた。わかった、とそう言って、ギンコのために、せめても熱い茶でも入れようと傍を離れた。
少量の湯を沸かすまで、ほんの少しの時間を使い、湯気の立つ湯飲みを持って、縁側へと戻ったそのとき。ギンコは…きりきりと奥歯を鳴らしながら、苦痛の汗を、額から零して震えていたのだった。
続
実は名工の書き直しです。とは言っても、ぜんっっっっっっっぜん、前の話と関係ないものを書いているのですけどね。とりあえず、名工、と呼ばれる腕を持った職人?さんは出てきます。
ギンコがかなり痛そうな話なんで、書いてても腕が痛みそうな感じです。苦手な方は避けて通るか、もしくは覚悟を決めて読んでくださいねー。←オイィ。
大変そうですが、頑張ります。冒頭ワンパターンなのは、触れない方向で。
10/12/09
