つがい の とり ・ 1





 もう随分と寒いが、今夜はここで野宿だ。

 路銀の有る無し問わず、ギンコはこのところずっと野山を褥に夜を過ごしていた。足を止めれば、すぐに蟲が寄る。微細なものたちばかりだが、それらは「蟲」に違いはなく、またそれらが集まれば、気配を感じ取った大きな蟲どもも、傍に寄り付くことがある。

 今はそれを判った上で、里の端にだとて、留まるのが嫌だった。一人でいたいと、そう思う。蟲を寄せ続ける自分は、独りでいなければ、と。

 上着の前を掻き合わせ、薄い毛皮をかぶって、ギンコは膝を抱えて横になる。そうして体を丸めれば、少しはぬくもりをとどめておけたし、小さくなっていた方が蟲にも気付かれにくいだろうか、と。

 ぶるり、と震えた背中。抱えた膝に付けた頬が、ひとつ、零れた雫で濡れていた。涙はすぐにつめたく冷えて、彼の体を包む寒さに加担しているようだ。

 あだしの
  あだしの
   お前の里までは、もう少しだなぁ。

 だけれど、近付いているのはたまたまここが通らねばならぬ道だからで、ギンコは化野に会いにいくわけではなかった。ギンコの行く道は、この先で二つに分かれていて、化野の里へ続かない方を、彼は辿って歩くのだ。

 二度と会わぬ、と、そう決めた。人の身でありながら、ヌシをしていた蟲師が消えるのを、遠いあの里で見届けた時に。そう、あの時、気付かぬふりをしていた事実を、突き付けられたのだと思った。

 俺は、誰かひとりを慕うべきではない。慕う相手がいるとて、何処かの里を強く思い入れるべきではない。浮き草でいるのが性に合っているのだと、あの蟲師にはっきりと告げた自分じゃないか。それが嘘になれば、きっと遠くない未来には、悪い夢は現実になる。

 その蟲師と同じように、愛しいものを失うなどと。そんな正夢は嫌だから、俺はお前から遠くに居よう。夢でなら会えるから、それでいい。それだけで、いい。
 
 ギンコは体をもっと丸めて、さらなる寒さに震えた。寒い方がありがたかった。明け方に日差しなど背にあたって温もれば、その温かさに化野を恋しく思ってしまう。二度と会わぬと決めた人の、あの優しい肌が、恋しくて恋しくて堪らないから。


 *** *** ***


「ん…」

 明け方、厭うていた筈のぬくもりを背中に感じた。日差しのあたらない木陰を選んだ筈なのに、いったいどうしたことだろう。眉をしかめながら首だけを持ち上げて後ろを見れば、そこには白くて丸いものがある。

「…なんだ?」

 兎…? それにしては少し、大きいような…。

 と、その時、その白くて丸いものの向こう側から、ひょろりと長くて、やはり真っ白なものが持ち上がったのだ。それには長い嘴があり、黒くて丸い目がついていた。そうして白い細い飾り羽が。

「え…? 鷺…」

 その鳥が白く美しい体をギンコの背中に添わせていたから、温かいと感じたのだ。ギンコは驚いて言葉を失い、暫し呆けたように、その鳥と見詰め合っていた。いかに、野山を歩き暮す彼でも、警戒心の強い野生の鷺と、寄り添って寝たことなどある訳も無い。

 そうするうちに、白鷺はギンコの白い頭に、自分の頭を一度すり寄せ、それから、すっくり、と立ち上がって彼の傍から離れていった。身じろぎせずに見送るが、鷺はギンコの傍らを離れてから、あまり遠ざからないうちに振り向いて、微かな声で鳴いている。

 くるる、る…。

 細い声で、短く。まるで、ついて来て欲しい、と言うように、だ。

「…あぁ、そうか…お前は」

 鳥じゃない。サイヨクチョウ、だ。漢字でなら『彩る翼の鳥』と、書く。ツガイドリ、と呼ぶものもあるらしい。鷺とそっくりな姿だが、鳥ではなく「蟲」なのだ。酷く美しいが、極端に数が少ない蟲だそうで、こうして出会えたのも、酷く稀有。だけれど。

「北へ行きたいのか? お前。でもな、俺が行くのは真北じゃなくて、北北東だからな、俺を誘っても無駄なんだよ。余所をあたってくれ…」

 北にいくとすれば、それは真っ直ぐ化野のいる里へ向かう道だ。そちらへは行かない。ギンコは唇噛んで、以前、書で読んだこの蟲の習性を思った。

 南で生まれた白の彩翼鳥は、真っ直ぐに北へ。北で生まれた蒼の彩翼鳥は、同じく南の地を目指し、番う運命の二羽は、やがて何処かの静かな水地で出会うのだという。この鳥と番う蒼の鳥は、きっと遠くから、南へ南へと必死に飛んでいるのだろう。やはり南へと向かう旅人を見つけて。

 旅に暮すものを探して選び、空を行き、その旅人を導いてでなければ、この鳥たちは自分の行きたい方向へも進めない。そんなふうに酷く不自由な習性で、だからこそ極端に数が少ない蟲なのだろうか。
 
 この鳥はギンコを選んだ。眠っているギンコの夢を覗き、心を啄ばみ、彼が北へ行くのだと思って、傍らで休んでいたのだろう。

「北へは行かない。読み違えだよ、お前の」

 少し、怒ったようにそう言って、ギンコは片腕を強く横へ払った。鳥は驚いたように翼を広げ、一つ、後ろへ跳ねてギンコから離れる。広げた翼は真っ白だったが、その向こうの風景がおぼろに透けて見えていた。この蟲は霧のような、粒子の集まりで出来ているのだとも、書にあったように思う。

 くるる…るる。

 また一つ鳴いて、鳥はその小さな黒い瞳で、ギンコをじっと見つめるのだ。つがいの相手と会いたいと、泣いているように思えた。ギンコの助けがなければ、会えないのだ、と、そう…。

「泣きたいのは、お前だけじゃない…」

 ギンコは言って、体の上に掛けていた毛皮をまとめ、立ち上がって木箱を背負う。すぐ傍の道へ戻り、ほんの数十歩行くと、もう判っていた分かれ道が見えてくる。北へは右の道だ。行こうとしていた北北東なら左の方。

「少し、だけ…付き合ってやる。だからその先は別の旅人を見つけてくれ」

 頼られれば簡単には嫌とは言えぬ。それが言葉も持たぬ蟲にならば、尚の事。項垂れて、息を詰め、ギンコは右の道へと足を踏み出した。白い鷺の姿の蟲を救うための歩みだ。化野とは何の関係も無いのだ。何の関係も、無い。

 鳥は羽ばたいて、空へ舞い上がってゆく、ギンコの視野から外れないよう、時折振り向いては枝で休み、また音もなく羽ばたいては進んで行った。淡い綺麗な翼の向こうに、常に紅葉の木々を透かし、高い秋の空の色や雲を透かし、時に、行き交う別の渡り鳥の姿を透かし見せる。

 それを見上げて、ギンコは眩しげに目を細めた。なぁ、お前。と、ギンコは心で呟くのだ。

 なぁ、お前。俺は次の分かれ道で、今度こそ別の道を選ぶが、お前はこのまま北を目指すのだろ。だったらあの里へも行くのか? もしも頼めるのなら、どんな高い空からでもいい、あの男の姿を俺の代わりに見てくれないか。

 俺の姿を映した、その同じ黒い瞳に、海を見下ろす家に住む、あの医家の姿を映して欲しい。そんな我が侭な、願いじゃないだろう?

 次の分かれ道が、もう視線の先に見えてきた。右は北へ向かう道。左は北北東、あの男のいる里からは、逸れて離れてゆく道だ。ギンコの視野が、少し霞んだ。頬に雫が零れると、そこだけ酷く冷たくて、ギンコは風になぶられないように、項垂れて、歩みを緩めるのだった。


 *** *** ***


 化野は急ぎ足に坂を駆け下りていた。上ばかり見て走るから、下駄の先を石にぶつけたりして、さっきから鼻緒が切れそうなくらい足の指が痛い。それでも彼は空を見上げている。

 空には、蒼い鳥がいた。別に珍しい鳥じゃないが、その姿の、すんなりした細さ、弱々しく見えるほどの形は、あまりに綺麗で儚く、視野をただ横切らせて去らせるのは、酷く惜しく思えた。もう、見るのは三度目だ。きっと同じ鳥だろう。青鷺、だと思う。

 鷺は刈り取られた後の田んぼになど下りず、迷うように揺れながら、前の二度の時と同じく、波打ち際の浅瀬に舞い降りた。

 るる、くるる。

 声も美しい、と化野は思い、呆けたように砂浜に立ち尽くす。あぁ、ギンコと一緒に、見たいなぁ。彼はそう思っていた。もう半年、いいや、もっと長く、姿を見せてくれない想い人に、会いたくて会いたくて堪らない。

 鷺よ、お前、随分遠くからきたんだろうな。
 連れてきて、くれりゃよかったのに。
 白い髪の、翡翠の瞳の、綺麗な男だよ。
 見やしなかったか?
 ここへ向かって歩いていなかったか。なぁ…。


 くるる、る、くるる…。


 蒼い翼の美しい鳥は、まるで化野の想いが聞こえたように、低く短く鳴くのだ。霧深い明け方の海は、まるでその鳥の翼の色のような細波を立てる。鳥が横切った空も、やはり似た色だ。それゆえ化野は気付いていなかった。

 その鳥の広げた翼は、向こう側の景色を、いつもいつも化野に、透けて見させている事に。













 ブログで前に「書きたいものリスト?」として書いていた『彩翼鳥』のノベルであります。一話完結、程度の長さのつもりが、なんか…真面目に書きたくなったので、一話目を「1」としました。三話くらい続くかも、です。

 鷺は「キャッ」と鳴くそうですが、どうも可愛すぎるので、丹頂鶴の鳴き声を意識して「くるるるー」としました。高くて細くて綺麗な声、で想像していただけると嬉しいです。それと蟲設定、なんかわかり難くてゴメンナサイ。判って頂けるといいなぁ、と希望的観測。汗。

 ではでは、よかったら続きを待っててやって下さいね。

 そして、このノベルは、鷺写真を拝ませてくれるJ様へ、日頃の感謝を込めて捧げたいと思います。



09/11/03