.
…その淡い紅色と花の香に… 前
肌寒い…。
何か、音がしている…。
そう思いながらゆっくりと目を開いて、ギンコはその訳を知った。隣で眠っているはずの化野の姿が、いつもとは違って傍らにない。
触れている肌の温みと、自分を包んでくれる腕がなくて、それで今朝は、心まで寒い気がしたのだと、ギンコはぼんやりと思った。そっと寝返りをうって、部屋の中を見渡す。襖が開いていて、その向こうに、いつもの着物を着た化野の後姿が見えた。
化野は縁側に立ち、半身を通せるだけ雨戸を開いて、じっと空を見上げている。曇天…いや、雨が降っていて、風も少し出ているらしい。まだ布団にいるギンコにまで、雨音と風の音が聞こえていた。
さっきから聞こえる音も、これだったのだ。ギンコはだるい体を起こし、布団の上に手を付いて立ち上がり、化野の寝巻きを羽織る。
「何を見てるんだ?」
すぐ後ろに立って声をかけると、化野は小さくだけ振り向いて、すぐに空へと視線を戻しながら返事をした。
「…いや、雨だな、と思ってな」
「まあ、昨日から降りそうな按配だったしな。ここに着いてからで、俺は助かったが」
旅暮らしをしていれば、嫌でも空を読むくらい出切るようになる。言葉の通りに、今日になって降ってくれたことに、ギンコは安堵していた。だが、化野の浮かない顔を見ると、それがどうしてなのか気になってくる。
「なんか出掛ける用でもあったのか? 今日でなければ出来ないことか」
「…別に…」
歯切れの悪い返事をして、化野は中途半端に開いていた雨戸を全部開け、それから朝餉の支度に取り掛かった。向かい合って食べている間、化野の様子はいつも通りに見える。
だが、思い出してみれば、昨夜ギンコがここに着いた時、彼は変にはしゃいではいなかっただろうか。
いつも来るたび、心の底から喜んで出迎えてくれ、この田舎の一人所帯で、出来うる限りの歓迎をしてくれる彼だが、それにしても昨日は妙に明るくて、傍で見ているギンコもつられて笑ってしまいそうなほどだったのだ。
一体、どうしたことなのだろう。ギンコは何度も思った。朝飯を終え、片づけが終わり、少し離れて縁側に座りながら、二人して、雨に打たれる庭草を見る。
春の盛りのこの庭には、特に植えても育ててもいないのに、薄紫色をした素朴な花が、あちらこちらに咲いていた。今はそれらも、強い風に揺られて、雨の雫を滴らせている。
ふと気付くと、花弁を打っては弾ける水滴の中に、小さく金色に光るものが見えた。とは言っても、それが見えるのはギンコだけで、化野には花と雫以外は何も見えない。
銀の水の雫の中に、きらきらと、金色の煌めき。特に珍しい蟲ではないのだが、ギンコはただ淡々と、それを瞳に映していた。
「…何を見てる…?」
化野が聞いた。そうと聞かれて、ギンコは自分の眼差しが、長い事一点に注がれていたことに気付く。他の人間から見て何も見えない場所を、一人じゃない時にじっと見つめていたりなぞ、滅多なことではしないギンコなのだが。
「何を…。花だよ」
蟲を見ていたとは言わない。どうせ見えはしないのに、今、そこにいると告げるのが何となく気が引けて、ギンコは曖昧に言葉を濁す。
「ハルリンドウの? 何処にでもあるだろう」
「…ん、あの辺りをぼんやりとな。まあ、気にすんなよ」
それ以上は化野も聞かない。けれど、彼が花ではなく、別のものを見ていたのだと気付いただろう。互いに黙り込んで、時折何気ない言葉を交わし、そうするうちに、時刻は昼に近くなる。
起き出したのが遅かったし、それに従って朝飯も随分と遅かったから、すぐに昼餉の支度、という気分にはならない。
「雲が淡くなってきたな」
ぽつりとギンコが言うと、化野は気の無い視線を向けてくる。
「まだ風はあるが、じき、あの雲が流れて晴れてきそうだ」
「本当か?」
「そりゃ、偽っても何の得にもならんし」
化野はギンコが指し示す方を眺めて、急に顔を輝かせる。なるほど、もう雨は殆ど止み掛けているし、空の半分は随分と明るい。それを見ると、彼は唐突に立ち上がり、台所の方へ行って何かゴソゴソと物音を立て出した。
「晴れたか? じゃ、出掛けるぞ、ギンコ。服着ろ、服」
ギンコは驚いたように化野を見上げ、そのあまりに無邪気な様子に、思わず笑いを零した。笑われているのなど意に介さず、化野は布に包んだ何かを腰にをぶら下げ、早く早くとギンコを急がせるのだった。
*** *** ***
「おい、いったい何処へ連れてくんだ?」
雨は晴れた。あの曇天が嘘のように、空は明るくて薄っすらとだが青い。山へ入る道を歩き、その上、細い横道に逸れていく化野の背中を眺めながら、ギンコは少し呆れたような声で言った。
雨上がりだから、足元はぬかるんでいるようで歩きにくい。ギンコは靴なのでいいようなものの、草鞋を履いた化野の足は、既に泥まみれの有様。
「もうすぐだ」
「もうすぐって…。何処に行くんだか教えちゃくれないのか」
「歩きにくいなら、手を引いてやろうか」
振り向いてそう言った途端に、化野の方が木の根に躓いてよろめいたりしている。ギンコは呆れ顔で頭をかきながら、黙って煙草に火を灯した。手を引いてやりたいのは、こっちなんだがな…などと、彼は内心で苦笑する。
山肌に、火山岩の壁がごつごつと突き出たような場所。そのすぐ下を通る細い道を進みながら、ギンコは寸前で気付いた。ふうわりと、微かに香ってくるのは、湿ったような淡い花の匂い…。
「化野」
「着いたぞ、ギンコ」
続
いかがでしょうか? この話は、読む方に「色彩」を感じて頂けたら…とか思って書いてます。うまく書けているかなぁ。
今回も二話同時アップです。ではでは、どうぞ引き続き、読んでみて下さいませ。執筆後感想文?は、明日、日記に書く予定でございます。最近、いつもそんな感じね〜。
07/02/17
