…その淡い紅色と花の香に… 後
灰色の岩壁と、湿った木々の葉しか見えなかった視野が、まるで目の前のとばりを裂いて広げたように開けた。吸い込む息が、花の香りで満ちて、ギンコの瞳に映る全てが、薄くれないの花、花、花。
「……枝垂桜…」
「凄いだろう。これが見せたかったんだ」
化野の声までが、まるで、花弁が開くように嬉しげに響く。ギンコは微かに開いた口を、閉じるのも忘れて見入り、暫くは化野の存在さえも、忘れているようだった。
「おおぃ、ギンコ、いつまで立ちっばなしでいる気だ。こっちへ来い」
気付けば化野は、地面擦れ擦れに枝垂れた桜の向こうで、脚を投げ出して座って笑っている。汚れた草履を脱いで放り出して、子供のように無邪気に。
斜めになった地面で滑らないようにと、ギンコは思いながら歩くのだが、あまりにその花々が見事で、知らずに目を奪われてしまう。もとより、見下ろした足元も、散り落ちた花弁に埋められて、見渡す限りに白く、白く…。
やっと化野の隣に行って腰を下ろすと、さっきまでのぬかるみが嘘のように、その場所は程よく乾いていた。化野は満足げに微笑んで、腰に下げた布を解いて、中から徳利を取り出す。それから杯を一つだけ。
「さあ飲め、とっておきの酒だぞ。よく味わえよ」
嬉しそうに笑って、ギンコは杯を受け取り、まずはその一杯をゆっくりと飲み干す。仰け反った喉の、白い色を眩しげに眺めて、化野はさらにもう一杯を、ギンコに勧めた。
「な、美味いだろう」
「美味い」
風が強く吹くたびに、枝垂れの枝はさらさらと揺れた。無数に咲いた一重の花が、風に乱れて散る様が美しく、まるでこの世のものとも思えないような…。
遠くを見ようとすればするほど、揺れる花枝の薄くれないと、散り飛ばされる花弁の白で、視界は霞のようにぼやけて、ますます夢を見ているような心地になった。
傾けられる徳利。注がれる酒を受ける杯。肴は目の前の花しかなかったが、それがこうも見事な花ならば、美味い酒はさらに美味くなっていく。
ギンコは徳利を受け取って、今度は化野が手にした杯に、彼が酒を注ぐ。同じ一つの徳利、そして杯まで一つきりで、交互に飲むその風情が、いつしか過剰にギンコを酔わせた。
花弁が敷き詰められた地面に、ごろりと横になって、ギンコはぼんやりと桜を見上げる。相変わらず風は強くて、雨に濡れた桜は、花弁だけでなく、時折、花の香りの雫まで降らせてくる。
「どうした? 珍しいな、このくらいで酔ったのか? ギンコ」
「ん…、いや、そうでもないが」
言いながら彼の声が、いつもより幾らかかすれて揺れていた。飲ませ過ぎたか、と心配して、化野はさっきまでよりも少しギンコの傍に寄り、彼の顔を眺める。
化野の視線の前で、花弁の色が映りでもしたように、ギンコの白い肌が薄桃色に上気していた。ギンコは細めていた目を、そのままやんわりと閉じてしまい、すうすうと微かな寝息を立て始める。
疲れているんだろうな、と化野は彼を見詰めながら思った。いつも来るなり、その夜に抱いてしまう。激しく抱いて、目が覚めると蟲の話をねだって、昨夜、ギンコはどれだけ眠れたろうか。
「すまんな…」
ぽつりと言った。疲れているだろうと知っていて、それでも我が侭を通して、いつもすまない。離れている間が、あんまり長くて切なくて、会えば気持ちを抑えられなくて。
自分がこんなに激しく人を思うのだと、化野は知らなかった。いつも彼を待って待って、美味い酒があれば、共に飲みたいと思い、夕の空が赤ければ、共に見たいと思い、桜の季節にはいつも、彼は切なく思っているのだ。
出来るのなら、今ここに、来てくれはしないだろうか。
満開の桜をお前と見たくて、それでもお前は居なくて、
一枝一枝が花で満ちるたびに、
俺は、時間を止めたくてしょうがなくなる。
だから、思いがけず、桜の季節にギンコが来てくれて、一緒に見られると喜んでいたら、今朝は冷たい雨と酷い風。散ってしまう…。一緒に見たかった桜が、今にも全部、散ってしまうと、そんな思いをしていた化野を、ギンコは知らない。
そのギンコは今、傍らで気持ちよさそうに眠っている。
「お前…人の気も知らんで…」
化野の視線が、ギンコの姿をゆっくりと眺めた。その髪、顔、首筋、そうしていつもの服を着ている体。たった今、彼が眺めた全部に、少なくはない桜の花弁が散り落ちて、その姿を埋め尽くしていく経過を見るようだ。
見ている前で、はらり…と、さらに一ひらの花弁が落ちてきて、ギンコの頬の上を滑り、襟の中に入って行く。
ああ、桜…が…。
手を伸ばして、化野はギンコの襟に触れた。閉じているボタンを、一つ二つ外すと、その奥に、たった今落ちてきた花びらがある。それを取ってやろうとして身を屈め、そのまま彼はギンコの顔に顔を寄せた。
口づけだけなら、いいだろ…?
そぉっとだ、そぉ…っと
軽くなら、きっと起きない…
そんなふうに自分に言い聞かせながら、唇を重ねる。酒の匂いもしたけれど、それよりも花の香りを強く感じて不思議だ。唇を何度か軽く吸い、それから無意識に首筋に唇を移して、普段は襟の中に隠れるところを、少し強く吸う。
「…ん…っ」
ギンコが声を零したので、慌てて顔を離すが、自分の付けた口づけの跡を見て、化野はさらに胸を高鳴らせるのだ。
「あ…。お、起こしたか、すまん」
「…いいや」
頬をますます上気させて、ギンコは短く返事をした。別に起こされても構わないと言ってくれたのだろうか。それとも、最初から眠ってなどいなかった、と。
曖昧に笑うその顔が、後者だと言っているように見えて、さらに心臓が跳ね上がる。ギンコは、化野に間近から顔を覗き込まれたまま、視線を微かに横にずらし、目を細めて黙っていた。
「何を…見て…?」
また、お前は蟲を見ているんだろうか。俺には見えないものを見て、心を、俺のいない世界へ飛ばしているのか? 仕方ないと判っていても、そんな時はそれが、痛いほど悲しい。
「花」
さっき家にいた時と、似たような遣り取り。けれどもギンコはその先を言う。聞いた化野は、一瞬呆けたような顔をし、それからくしゃりと顔を歪めて笑った。
「お前と…お前の見せてくれたこの花だけ、見てるよ、化野」
言いながら、ギンコは化野の方へ手を差し伸べる。化野は指でギンコの髪をすいて、そこに絡まっている桜の花びらに目を細めた。銀糸の髪に桜の花びらが、あまりに似合って、あつらえた飾りのようで。
口づけはやはり花の香りがした。抱擁も同じ香りが。そうして目の前の肌は、何処も全部、花と同じ色に染まっていく。
それからあとの二人の甘い抱擁と、時を忘れたような口づけを、全てのものから隠そうとするように、桜は飽きもせずに花を散らし続けていた。
白をほんのり染めたような、淡い淡い薄くれないに、
ただ、揺れて、揺れて…。
終
如何でしたか? 色と匂いを感じて貰えていたら、惑い星はとっても嬉しいです〜。春はまだ少し先だけど、読んだ方と共に春の最中に小旅行できていたらなぁて。ふふふ。
さてさて、49000ヒット御礼〜! こちらのノベルはキリ番踏んで下さった、親愛なるもこ様へ捧げますですー。本当に素敵なリクエスト、ありがとうございました。「しっとりと、お花見、お酒、そしてキスシーン」 頑張って書いて見ましたが、判定や如何に? って、あれ、違う?
もこ様には、いつも読むたび幸せになってしまう、素晴らしい感想を頂いて、感謝感謝でございます。そんな貴方にお礼の品を書かせて頂くチャンスチャーンスっ、てね。ふふふ。
これからもどうぞ末永く、当サイトと当サイトのノベル達と
そして惑い星を(?!)可愛がってやって下さいませませv
07/02/17
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