赤く鮮やかだった紅葉は散り、ススキの穂も痩せて、風景はいつの間にか淋しくなった。夏に通ったこの道から同じように海を見渡すと、その時と今では、海の色の濃さが違っている。
冬が、ゆっくりと近付いてくるのだ。その冬の足音から逃げるように、ギンコは足を少し速めた。化野の家が、もうじき見えてくる。煙草に火を灯し、顔を上げてギンコは思うともなく、化野の顔を思い浮かべ…。
ふと、彼は足を止めた。また夕暮れ前だというのに、ぴったりと雨戸が、閉まっていたのだ。
それが見える場所で一度立ち止まり、ギンコは目を見開く。しばしそのままでいて、今度は足早に近付き、彼は足元の雑草を踏みながら裏口へと向った。鍵など掛けていないと知っているから、慣れた仕草で戸に手を掛ける。
けれども、軋むような音を立てて戸が開いても、中に人の気配はなかった。囲炉裏の火も、絶えて久しいのだろう…。家の中は薄暗く、そして微かに湿っている。
化野は、暫くここには帰っていないのだ。中に一歩入ったものの、それ以上奥に入ろうとはせず、夕暮れの冷たい空気の中へと、ギンコは出てきた。
日が陰ったからだろうか。ギンコの頬に、ただ風が冷たい。曇った空の色が、重くどんよりと彼に圧し掛かってくる。
ぼんやりと斜面から下を眺め、少し離れた場所に人の影を見た。見覚えのある顔、彼も何度か会ったことのある村人。
「……」
化野はどこに行っているのかと、問えば簡単に答えが判るだろうに、ギンコは何故か、立ち竦んだままで、その村人に声をかける事ができなかった。
そうして彼は、化野の家の裏へと戻って、そこから山の中に抜ける道を通り、ゆっくりとそこから離れていく。化野の家から遠ざかる…。それだけを目的として歩くと、また海の見える道に出た。
よぉ、化野。
ギンコ…っ! またお前は、連絡も寄越さず急に寄りやがってっ。まあ、いい。早く上がれ。…よく、来たな。
そんなやり取りが、頭の奥で遠く響いて、彼は我知らず自嘲する。自分の家な訳でも、まして化野が家族である訳もないのに、そんなふうな出迎えを、いつの間にか、ギンコは思い描いていた。
ゆっくりと歩きながら、彼はもう一度、化野の家の様子を思い出す。そういえば、化野が細々と野菜を育てている畑には、ちらほらと雑草が見えた。
家の中には薄く埃が漂っていて、空気がひんやりと冷たくて、ほんの少しだけ、空き家と似た匂いがしていた。かといって、あれやこれや、家財道具はそのままで、何処かへ越したとも思えない。
だったら、あいつに何か、あったんだろうか…?
そう思うと、急に胸の奥に鈍く、何かが刺さるような痛み。戻ろうか、と、ギンコは思った。戻って、隣家を訪ねて、どうしたことなのか聞けばいいのだ。
そう思って立ち止まると、道の向かい側から誰かが歩いてくる。これもまた見た顔で、その村人もギンコを覚えているのだろう。男は朗らかに笑んで手を振って、肩に担いでいた鍬を下ろし、そこでギンコが近付いてくるのを待つような顔をした。
「おぉ、あんた! なんたっけ、ギ…ギ……」
「…ギンコ」
「そうそう。ギンコさん、だっけな。また暫くぶりだなぁ。あ、先生なら、今、ええっと」
ギンコはその時、不意に片手を振って男の言葉を遮った。彼の視線は空を惑って、意味もなく道の端に小石を見ている。
「いや、いい」
「へ…っ?」
「いいんだ。別に」
曖昧に笑って、ギンコはそのまま男と擦れ違ってしまう。擦れ違って遠ざかって、さらに足を速めて、角を曲がった途端、ギンコは道の無い草の中に踏み入った。何も言えず、聞けもせずに…まるで何かから逃げるように。
彼の白い髪を揺らして、耳元で風の音が鳴っていた。風の音に、波の音が混じって、それが胸に冷たく響いている。枯れてしまったススキの穂に、さらさらと身を撫でられながら、ギンコはただ、海の方へと歩いていた。
*** *** ***
化野は夕暮れの空を見上げながら、足を止め、長い溜息を吐いた。別に何日も歩いた訳じゃないのに、こんなにもくたびれているのは、きっと自分が旅慣れていないせいだろう。
「はぁ…っ、疲れた。こりゃしんどい」
この半月というもの、彼は峠を二つ越えた向こうの、隣の里に出向いていた。タチの悪い風邪が流行って、医者の手が足りないから、出来れば来て欲しいと頼み込まれたのだ。
以前、高価な薬を分けてもらったこともあるし、少しくらい遠くても、隣の里の窮地を、知らぬ振りも出来ない。
それでその村の医者と二人、手分けして何十人もの治療をし、風邪にかかった村人達が、やっと快方に向った途端、今度は過労でその医者が倒れた。
化野の父親ほどの年だから、倒れたのも無理はないと思うし、まさか放っておく訳にもいかず、今度はそっちの看病。その医者が起きられるようになる頃には、もう半月も日が経ってしまっていた。
朝日が昇り切った頃に隣の里を出て、夕暮れ時の今、やっと自分の家の見える場所に戻ってきた彼。
「…すっかり秋も終わりだな」
別に何ヶ月も過ぎた訳じゃないのに、それでも季節は移っていて、枯れたススキの穂が揺れるのを、化野はぼんやりと眺める。そして幾分、うんざりした顔で、目の前の緩い坂を眺めた。
「見晴らしがいいのは、好きなんだがなぁ」
遠く見える自分の家を見上げて、彼はもう一度溜息を吐く。家に着いたら飯より何より、まずは一眠りしたいと、そう思いながら坂を上って、やっと彼は、半月ぶりの我が家に辿り着いた。
肩に背負った荷物を下ろし、いつもの着物に着替えて、締め切ってある雨戸を開く。湿った家の中に風と光を入れてから、化野は部屋の真ん中に寝転がった。
このまま寝入るつもりはないが、とにかく暫し横になろう。飯を作る元気は無いから、今晩は隣の家に乞うてしまおうか…。
「あれ、先生も戻ってたのかい?」
そんな事を思った途端、そんな声が聞こえて、化野は少なからず驚いた。人のいい笑顔を見せながら、隣の家の母親が、両手で土鍋を持って、家の中を覗き込んでいる。
「あ、ああ、たった今、帰ったとこだ。何だ、俺が帰ったのを見てたのか」
「いぃや、それは知らなかったけどね。でも、ギンコさんが随分前に、先生のうちに入ってったのを見たからさ」
「…なに…?」
だから気を利かせて、夕餉を差し入れに来たのだと、彼女は言った。不思議そうに家の中を見回して、それから化野の仰天ぶりに首を傾げてみせる。
「ギンコさんは?」
「俺は会ってないぞ。何処にいるんだ?」
「…それはこっちも聞きたいよ。せっかく鍋を持ってきたのに。先生、どこに隠したのさ」
誰が隠すものかと、内心で言い返しながら、化野は彼女に、その時のことを聞いた。この家の裏へと回ったギンコの姿に気付いたが、彼女も後ろ姿を見ただけなのだという。
だが、あんなに間違えようの無い後ろ姿も、そうはないだろう。白髪のものは珍しくないが、同じ村の老人を、ギンコと見間違う筈も無い。確かにギンコは、ここに来たのだ。
「どっちへ行ったっ?」
「そこまでは知らないよぉ。わたしゃ、てっきり先生の家ん中に入ってったとしか…」
「判った。じゃあ、もしまた見たら、家で待ってろと伝えてくれっ」
化野はそのままの恰好で外へ出た。何をそんなに焦るのか、自分でも判らない。けれど、確かに化野に会いに来たギンコが、今は自分の傍にいない。その事が、ただただ悔しい。
どっちから来て、どっちへ行ったのだろう。化野が留守だったからといって、もう、行ってしまったのだろうか。まさかそれは無いだろう。そんな事は無い筈だ。
せっかく来たのに、一目顔も見せずに、次にいつ来るかも判らない旅の道へと、また去って行ってしまった、などという事は…。
海の見える道を過ぎて、少し前に通った峠への道に差し掛かる。そこで化野は、またギンコの名を聞いた。
「おや先生、やっと戻ったのかい。随分戻んなかったねぇ。ところで、ギンコさんを見たけど」
「い、いつ…ッ?」
「えぇ? いつって、夕暮れ前だよ。二又道の手前だっけかな」
礼も言わずに化野は、たった今、走ってきた道を戻った。二又道を右に行けば、それは村から出る外道に繋がっている。左に行けば化野の家の方向で、彼が辿ってきた道。
出会わなかったという事は、ギンコが選んだのは里を出ていく道の方だということ…。道が二つに分かれる場所に来て、化野は黙って足を止めた。
よりによって、なんで俺がいない時に来るんだ?
なんで、ギンコが来た時に、俺は家を空けてたんだ?
思っても仕方ないことを思い、化野は汗ばんだ額の髪を、乱雑に掻き上げる。風が切るように冷たくて、それにも腹を立ててしまいそうだ。
悔しい…。
悔しくて、仕方ない。
今度、いつ会えるかも判らないんだぞ。
なのに、どうして、こんなことになる…?
奥歯を噛んで、化野はきつく目を閉じた。噛んだ奥歯の、さらに奥の喉で、もっと奥の心で、ギンコ…と、名前を呟く。不覚にも目蓋の下の目が潤んで、彼は今度は目を見開き、高い空を見上げた。
青色を濃くしていく空に、星が一つ、見える。目を凝らすと、まだ淡い色の空にも、もっと多くの星がぼんやり光っていた。
二つ、三つ…四つ…。七つ目の星を、海の上に見つけた時、化野はやっと気付いたのだ。月明かりが落ちる海に、そびえ立つ影のような大岩。その一番高い場所に、誰かがいる。
「……ギ、ギンコ…?」
呼んでも、声の届く距離じゃない。だから、もう名前を呼ばずに、化野は道を逸れて、枯れたススキを両腕で掻き分けた。風が吹いて、さやさやとススキが音を鳴らす。波の音が、それに重なる。
ゆっくり近付きながら、化野は瞬きをすることさえも、怖いと思った。大声で呼べば、きっと振り向いてくれると思ったが、声を立てるのも怖い。
月明かりはもう、波の上で銀色に輝いて、岩の上に立つギンコの姿は、ただの黒い影に見える。必死で見据えると、その髪が風に乱れるのだけが、辛うじて白くぼんやり判った。
見ていてこんなに、胸の痛む姿は他の何処にも、ありはしない。
続
ノベル百記念企画、フリー小説「蟲」で「さざなみひめごと」です。投票くださった皆様、ありがとうございました!
ってか、フリーってのは、お持ち帰り自由ってことなんであって、テイクアウトに不向きな、長いなっがい、なんがぁいノベルで、またしてもゴメンなさい。
とても「持って帰って飾って下さいねっ」とは言えない長さでして、場所取るんだよ、てめぇっっ。とか怒らないで頂けると嬉しいです。いや、きっと持って帰る人はいないよ。うん。
でも、持ち帰ってやらぁっ、という方は、どうぞ持って帰って家族の一員にしてやって下さいね。(仔猫とかじゃないんだから)
ここでこんなこと言っていながら、このノベルは実は全体の半分か、三分の一でしかないという…。もう謝るしかないっす。ごめんなさーっいっ。内容についてのコメントは、また日記に書いちゃいますが、もう一時半なんで、それは明日ですね。
とりあえず、アップするぞっ。
06/11/25

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細波秘言サザナミヒメゴト 1