ススキの茎に捕まりながら、化野は急な斜面を下りる。風は容赦なく吹き付け、ススキの穂は、さらさらと音を立てながら揺れ続けていた。

 満ち潮時で、波は段々と高くなり、風に千切られたその飛沫が、時折、化野の頬にまで届く。岩の傍までやっと辿り着くと、見上げるその大岩は、まるで天に向けて立つ巨木のよう。いったい何処から登ればいいのか、化野には判らない。

「……ギン…」

 名前を呼びかけて、化野は不意に口を閉ざした。

 唇を噛んで、息を整えると、あちこち尖った岩肌に、彼は黙って手を掛ける。医者としての仕事以外、せいぜい、庭で野菜を育てるくらいしかしたことの無い手だ。鋭い岩が、指先に痛い。

 両手を伸ばして岩に捕まる。それから足を乗せる取っ掛かりを探しては、精一杯体を伸べて、必死に彼は岩を登っていく。やっと天辺に辿り着いて、間近からギンコの後姿を見たが、彼は化野がそこまできていることに、気付いていないようだった。


  *** *** ***


 風の音と波の音だけを聞いて、遠い波間に白く淡い月の光が落ちているのを、ギンコは静かに眺めている。彼はある蟲のことを、思っているのだ。

 龍宮の主…。海の波の下で異質な光を自ら発し、生き物を捕らえて、その捕らえられた生物の「生きた時間」を喰らう蟲。もう一度、生まれるところから、違う人生を生き直す…。そんな普通では出来るはずも無いことを、叶えてくれる蟲だ。

 悪い冗談だ、そんなのは。そう言って済ませる事など、本当は出来ない癖に。そこで苦く笑うのだって、ただの愚かな強がりだ。

 無くした記憶がある。今となっては、それが大切だったかも判らない記憶だ。だからもう一度生きるのなら、どんな記憶も失くさないように、生きたいと思う。

 そして出来ることなら、何かから逃げて生きるのではなく、自分の選んだ生きたい場所で、時を過ごして生きてみたいと。

 目を閉じて上向いた彼の目に、目蓋越しの月の明かりが眩しい。もう夕方を過ぎて、夜は更けるばかり。風が吹いて、ススキの穂が揺れる音がした。金色に輝くススキの穂を見ようと、ギンコは座っていた岩から半分腰を浮かせて、ゆっくりと振り向き……。

「…っ!」

 振り向こうとしていた体を、いきなり抱き締められてギンコはその時、言葉を発するのさえ忘れた。誰かの腕が、ギンコの両腕の上から、彼の体をきつく縛るように抱いている。

「…あ……」

 誰なのかは判る。その匂い、抱き締める腕、微かに聞こえる息遣いも、よく知った彼のものでしかあり得なかった。名前を呼び掛けて黙り込んで、ギンコはただ、じっと項垂れる。

 涙が零れそうで苦しくて、声を出したら、化野にそれが知られてしまうから、彼は何も言わずにただ、自分の胸を抱いた彼の腕と、その見慣れた着物の袖を見ていた。

 そっと片手を持ち上げて、ギンコは化野の袖に指を立てる。その何の変哲も無い手触りが、胸に刺さるほど懐かしく、顔に押し当てて頬をすり寄せたいほどに切ない。

 ギンコの肩の上に伏せた化野の唇が、浅く熱い息を、何度も何度も吐いて、時折思い出したように、抱き締める腕に力を込めた。月の居場所が動いたと判るほど、その痛いくらいの抱擁が続いて、それは突然、ふ…っと解ける。

「冷たい」
「…何だって…?」

 腕が解かれるなり、耳元でそう呟かれて、ギンコは反射的に聞き返した。化野はいつもと同じ、生真面目な顔で、いきなり彼の前に回り込み、ギンコの片手を掴んだ。

「一体いつからここに居たんだ? 佐久造んとこの長男に会ったすぐ後から、こんな寒いとこに居たのか?」
「いや、サクゾウの長男かなんか知らんが、夕方前くらいからここに」
「だからこんなに、冷え切ってるんだろう」

 化野は怒ったような顔をして、ギンコの左手を自分の両手の中に包んで、ごしごしと強く擦る。親指から始めて、人差し指、中指、薬指。それから手のひらと手の甲、手首から上へいって、袖の上から肘も二の腕も。

 それでも大して温まらないと気付いて、今度はぐいぐいと自分の方にギンコの腕を引っ張って、両の手のひらで包んだ彼の指に、熱い息をあてる。

 一方の手が、少し温まってくると、今度は逆の手にも同じようにして、真剣な顔のまま、化野はその作業に没頭している。呆気にとられて、される通りになっていたギンコが、急に驚いて手を引っ込めようとした。

「な、何考えてんだ、化野、も…もう、いい」

 だが化野はギンコの手を放してくれそうにはない。いきなり着物の襟を寛げて、ギンコの右の手を自分の胸に押し当てる。彼の肌は温かかったが、その素肌にじかに触れさせられて、ギンコは狼狽してした。

「は、放…っ…」
「いいから、もっとこっちに寄れ…。あっためてやる」

 首の後ろを捕まれて、化野の胸に顔を押し付けられた。肩の下あたりに耳が触れて、そこが左の胸でもないのに、どくどくと、速くて強い心臓の鼓動が聞こえた。

 肩も腕も背中も全部、手のひらで擦って温められて、ギンコはもう逃げようとせずに、化野の胸に顔を隠す。

「どこ、行ってたんだ…」
「隣の里の医者のとこだ。半月泊りがけで、流行り風邪の往診の手伝いに行ってた」
「…し…しん…ぱ……。何でもない」

 急に居なくて、心配していたとか、そんな言葉は嘘偽りだ。だからギンコは言わずに黙った。

 会いに来て、会えなくて、胸を傷めたのは本当でも、それはただ、こんなにも会いたかったのだと自分で気付いて、その心に怯えただけのこと。

 折角来たのに何でそこに居ないんだと、駄々をこねる子供のように、拗ねた思いが捩れただけだ。

「幾らか、あったまったかな」

 体全部を擦って温める。そんな要領の悪い方法でも、していた化野は満足だったのだろう。大人しく胸に収まっているギンコの顔を覗き込み、彼は何故か、声をひそめて聞いた。

「あ、あのなぁ、もしかしてお前、俺が家にいなくて、がっかり…とか、したのか?」
「……別に…」

 どきりとした。心の中いっぱいに息づいている想いを、言い当てられてしまうかと想った。だが、化野はそれ以上、問いを繰り返さずに、自分の想いを告げる。
 
「そうだよな。でも、待ってるんなら、こんなとこじゃなくて家で待ってろ。来てたって話を聞いて、里中駆けずり回る俺の身にもなれ。…お前、結構せっかちだからな。俺が家に居ないと見るや、もう旅に戻っちまったんじゃないかと思って、必死になって探した探した」

 あんまり素直にそう言われて、ギンコは思わず、化野の顔を見上げた。照れた様子も、言いにくそうな様子も無く、彼は言葉を続ける。

「年がら年中、来るのを待ってんだぞ? いつ来るかも判らんで、今頃どうしてるかと毎日のように思って…。なのに、やっと会いに来たお前と寸前で擦れ違って、また今度、いつか知れない数ヵ月後、だなんてなぁ」

 化野はギンコを抱く腕に、再び力を入れる。用意していた檻の蓋を堅くきつく閉めるように、熱い腕でギンコを包む。なんて優しい檻だろう。どんなに強く蓋を閉めていても、旅に発つと言えば、いつもその蓋はゆっくりと開く。

「お前はどうか知らんが、こっちはな、実際、会いたくて会いたくて、お前の顔を思い出すたんびに、息も絶え絶えだよ、ギンコ…」

 そこまで言って、やっと化野の頬は、微かに染まってくる。勢いにのって、流石に真っ正直に言い過ぎた。

「その、なぁ…? 気付いてないこと、ないんだろう? 俺の気持ち。だから何ってことはないが、その、俺は…お前の…っ」

 口を塞がれて、化野は黙った。塞がれた口の代わりに、目を見開いて彼はギンコの顔を見る。月明かりの下で、その白い髪は銀色に染まって見えた。閉じた目蓋を縁取った睫毛も、同じ銀の色。

「ギ、ギン…。う…」

 唇が解けて、また絡む。ギンコの方からそんなふうにしてくるのは、余程、甘く体を重ねた夜だけの事で、こんな場所で、話をしている途中で彼の方から欲しがったことはない。

 ギンコは化野の首筋を手のひらで撫で、彼の髪を掴まえるようにして、何度も唇を放しては求め、放してはまた重ねた。されるままにしておきながら、化野もまた、唇と舌でギンコを求める。

 生まれて初めて、ギンコは自分のこの生き方を、強く嫌悪して苦しんだ。出会った時から、そんな痛みを与え続ける非道い男を、こうして求めながら、彼は思うのだ。

 胚まで戻って生まれなおしたとして…、一体、誰が約束してくれる? もう一度、この男に出会える人生を。

 それに今、俺が生みなおされたりしたら、化野とは二十も三十も年の差があることになるんだぞ。俺より何十年も先に老いて、俺よりも先に死ぬ化野を、看取る強さなぞ、ある筈もないのに。

「ああ、本当に…」

 やっと唇を解いたギンコが、化野の顔の間近でさらりと笑った。本当に? 本当になんだというんだろう、と耳をそばだてていると、ギンコは続けてぽつりと言う。

「たいそう、悪い、冗談だ」
「な、何がだ? え? 俺の言ったのが、そんなに? そんなに嫌だったのか? ギンコ、おい…ギンコ…っ」
「別に、そういう意味じゃねぇよ」

 立ち上がって歩き始めたギンコの行く先には、ちゃんと岩に結び付けられた、登りやすそうな縄梯子があった。岩をよじ登ったあの苦労はなんだったのだ、と、頭の隅で思いながら、化野はギンコの後を追う。

「ギンコ、待てって!」
「…腹が減った」
「お、俺だって減ってるぞ」
「なんか食うもん、あるのか?」
「お前なぁ…っ」

 そんな軽口を叩きながら、ギンコはいつもの木箱の中から、一枚の紙切れを取り出して、化野に差しつける。

「なんか、蟲に関わりのありそうな病とか、そういう用があったら、ここに俺宛の手紙を出せば、ちょっと時間は掛かるが、ちゃんと俺に届くからな」
「…あ、ああ、判った」

 それきり何も聞けなくなって、化野は不満げにギンコの横顔を見る。ギンコはちらりと化野の顔を見て、それからわざと顔をそむけて言った。

「『里帰り』ってのは、いいもんだなぁ」

 待っていてくれる人がいる。それだけで人は強くも弱くもなれるのだ。離れている時がどんなに辛くとも、誰にも会いたいと思わない、誰とも深く関われない、そんな孤独な日々に比べたら、それはなんて心の温まる優しい痛みだろう。

「ギンコ」

 坂の上に、化野の家が見えてくる。化野は疲れた体に鞭打って、ギンコの隣を追い抜いて走った。それから家のあちこちに灯りを灯し、大急ぎで囲炉裏に火を入れ、玄関の扉を開け放つ。

 ゆっくりと化野の家の庭を通り、開いた扉の前で化野と向かい合い、ギンコはいつものように言った。

「よぉ、化野」

 それを迎えて笑って、化野はギンコの体を抱き寄せた。

「ああ、お帰り、ギンコ。待ってたぞ」

 まだ冷えているギンコの体の奥底で、凍えた心が、ぬくもりに包まれる。ギンコは零れそうな涙を引っ込めようと、しばしの間、そうして抱かれたまま、じっと目を閉じているのだった。



                                   終





 やっと仕上がりました、ノベル百記念、蟲フリーのちょいラブ化野×ギンコ小説ぅーーーーっ。 あ、あのぅ、ちょっと幾つか自分で突っ込んでいいですか?

 これ? コレがフリーノベル? 持ち帰って飾れって? 無茶言うんじゃねぇよ。その上、どこかちょいラブ? ラブいってのは、もっと甘い雰囲気なんじゃねーの? 不器用に気持ちを伝え合うって言ってたのは、どこのどいつじゃ、誰が不器用なんじゃ、惑い星自身か? そうなんか、おいっ。

 はあはあ。すいません。そんなわけで、リクエストを無視したような内容になってしまいまして、深くお詫び申し上げます。

 予定ではもうちょっと、あったかくイイ感じになる筈だったのにさ。ギンコさんが「気持ちを伝えるのはイヤだ」と言うもんですから…。うう、うう。動かしにくい奴じゃのう、化野先生は素直なのにさ。

 とな訳で、ヘタレまくりながらも、蟲フリーノベルです。持ち帰ってくださる方、いませんね。あはははー。まあ、読んで楽しんでくださいませね〜。失礼致しました。

 
06/12/3
細波秘言サザナミヒメゴト 2