落 命 の 淵 7
押し退けられて、化野も卓の方へと視線をやった。夕暮れも過ぎた時刻、薄暗い部屋。化野の目は、瓶の中のものがただの砂か何かにしか見えない。
「…なんだ…? 俺に、言ったのか…?」
寝ろと言ったその口で、愛撫しだしているのを、咎められたのかと一瞬思った。だけれど、どうもギンコが妙な顔をしている気がして、化野は身を起こして、少し離れた場所にある角瓶を見る。やはり砂か、土か。
「あれは何だ」
「…な、なんでもない、ただの…ただの砂だ。その、ちょっと調べたくて持ち歩いてたんだが。別に、蟲、じゃあない」
「……ほう…」
身を起こしながらも、化野の手はギンコの胸を撫でている。撫でられる感覚に、ぞくりと肩を震わせて、ギンコはそれでも角瓶が気になる。確かに、動いたのだ。一瞬だが顔も見えた。化野には判らない程度だが、砂にしか見えなかったそれが、今ははっきり緑を帯びている。
い、生きて…いたのか?
確かめたい。でもあんな危険な蟲、化野に気付かせるわけにいかない。自分を抱こうとしている化野。体が辛いから嫌だと言えば、今日ばかりは離れるだろうが、そうしたら興味は瓶へと向くだろう。
「水が、の…飲みたい…っ」
「………」
あぁ、言うべき言葉を間違えた。化野は怒りをあらわにして、ギンコの脇腹の包帯を解きかかっている。水が欲しいとそう言って、化野を傍から遠ざけ、彼は山へと死にに逃げたのに、同じ言葉に騙されてくれる筈が無い。
解かれる包帯。別にもう要らないものだ。薄赤く傷跡は残ったが、もうすっかり塞がった刺し傷。その傷に爪の先をかすめられて、ギンコの喉で、ひゅ…と乾いた息が鳴った。そのまま小さく咳き込むのは演技じゃない。
「や…。ほ、ほんとに水が欲しいんだ、喉が乾いて…。頼む化野。あ、化野先生…っ」
「…逃げるなよ。今度逃げたら…縛るぞ」
怖い目をして、低くそう言って、化野はやっとギンコから離れた。彼の姿が部屋から消えて、ギンコは一瞬全身の力を抜く。いつも優しすぎるほどの男だが、あんな顔もするのだと判って、本気で怖いと思ってしまった。
でも、それもこれも自分を想うゆえだと判っている。だからこそ、あんな危ない蟲に、興味を持たせる訳にいかず、でも、確かめたくて…。ワタヒコが、生きているのかどうか。
「…ワ、タヒコ…?」
震える声でそう呼ばわる。布団の上に、なんとか身を起こして、這うように卓へと近付く。
「ワタヒコ…」
反応は無い、少し緑がかって見えたのは気のせい、願望がそう見せただけか、やはり死んだのかと、胸にきつい痛みを覚えて、項垂れかかるその一瞬。
い いきてたか むしし
と、そう声が聞こえた。幻聴では、ない。顔を上げてギンコは角瓶を掴む。はっきりと緑に色を変えた瓶の中に、前と同じ、柔らかく揺れる小さな子供の顔。
「ワタヒコ…! お前こそ、死んだと…」
死な…ない そのために いっとき眠ル、と そういった
「…聞いてないぞ。そうじゃなく、お前、死にたくないって、言いながら消えたろうが」
そう言っタ
「そうだ、言ったぞ! だから俺は」
死にたくナイから いっとき眠ルと そういった
お前も、ショクランにつかれないよう 眠るかどうかしろとも
「俺には…そこまで、聞こえていない…」
でも、そうだ、確かに。死ぬに等しいほど深く眠っていれば、喰爛はその個体をさけて、別のものに憑く、と、ギンコの読んでいた書物にもある。つまり、ワタヒコもそれを読んで知っていたのか。
でも、判っていたとして、熊やなんかでもないのに、人間は自力でそこまで深く眠る事はできない。そもそも、喰爛が一匹、体についてきていたのだって、ギンコは知らなかったのだ。
そしてギンコは、思っていた。ワタヒコが、死んでゆきながら自分を呪ったと、そう感じたあの声。胸に迫ってきた、あの声のことを。
あぁ、そうか今ならば判る。
死にたくない 助けてくれ
うまレたから生きてきただけ
なのにコろすか
と、
あの時、聞こえてきた、呪詛のような声は、自分の心の陰から零れ出たものだった。ワタヒコが言った、わけじゃなくて。
「死んで、なかったのか…」
しんでない
「い、生きてたのか」
いきている
あぁ、あぁ。こんなにも、嬉しい。
自分の罪を誤魔化すためにだけ、瓶に入れて持ち歩いただけの筈なのに。ワタヒコがこうして、生きていてくれたことが嬉しくてたまらない。
ココはどこだ
と、ワタヒコが無表情にギンコを眺めて言った。それでやっと我にかえって、ギンコは化野のいる奥の方を振り向いてみる。水を頼んだのに、中々戻らない。まさか倒れているんじゃないかと、そう思った途端に声がする。
「ギンコ…っ、いるだろうな、返事しろ」
「…ちゃんといる、逃げてない」
「ならいい」
そうしてガタゴトと音がする。物音から言って、湯を沸かしているのだろう。真水は弱った体に良くないと、そんなふうに気遣う化野の思いが判る。ガタリ、とまた音がする。
きっと、こうして起き上がっているのを見たら怒るだろう。いや、それよりもワタヒコを見られる訳にいかない。隠さなければ。どこに? 木箱、あんな遠くにある。上着は壁の高い位置に掛かっている。じゃあ布団の中、一番簡単だが、駄目だ、捲られたらどうするっ。
足音が近付いてきて、ギンコの脳裏は混乱した。必死で瓶を掴み、なんとか這って、腕を精一杯伸ばして隣の部屋への襖を開け、そこに置いて、陰になるよう押しやり、今開けた襖を閉め…。
「何してんだ、ギンコッ」
襖に手を掛けているところへ、化野が戻ってきて、酷い剣幕でギンコを叱り飛ばした。
「やっぱり何処かへ行くつもりだったか…ッ。こ…のっ」
「ちが…っ。襖が、少し開いてて、き、気になっ…」
「そんなものは、放っておきゃいい。動くのも辛いくせして。俺にそんなに縛られたいんなら…ッ」
怒りの染みた声が、眼差しが、本当に…怖い。想う故でも、それが本気の怒りだからだ。
「わ…わる…かった…化野…」
許してくれ、と目で訴えられ、ギンコの震える唇を見て、化野の眼差しが一刹那で優しくなる。
「…判ったならいい。そら水。いや、ごく薄く入れた茶だが、お前も大分いいから、少し熱くしておいた。ずっと温いものばかりも、もう嫌だろう。これなら体も奥からあたたまる」
この優しさ。ギンコは心底済まなく思って、おずおずと化野の方へ手を差し伸べる。布団から出てしまった自分を、抱えて布団へ戻してくれと、滅多にない甘えた姿に、化野の目がさらに優しくなる。
支えて布団の上に座らせ、当たり前のように口移しで茶を飲ませた。唇が触れた時、なんの意味なのか、ギンコの片手の指が、化野の胸に置かれて、着物の布地を軽く握る。
嫌がりはしないものの、ギンコが何かを気にしているように思え、余計に口を離したくない。茶を飲み干した湯飲みを、半ば放るように畳へ転がして、化野は深く、ギンコの口を貪り出すのだった。
続
ハイハイ。回想ちょっとと、ワタヒコの件と、エチシーンと、みんな詰め込んでラストシーンを一話で…書ける訳がないっすーっっ。もうね。最早ね、これ随分前から、リクノベルの長さではないですからっ。差し上げる相手が優しいので、甘えて長く書いておる惑い星です。
いやぁ、しかし、ちょっと前までの暗さが嘘ぉぉぉぉぉ!のように、明るくエロく書いてます。一貫したイメージでお届けできずゴメンナサイ。でも今、すっげぇ楽しいの♪ 読んで下さる方も、楽しんでくださっていると、ますます嬉しいのですけど、どうかなぁ。…ふ、無理かな。
というわけで逃げるように去ります。また次回〜っ。
08/03/28
