落命の淵 5




 判った… 行く…

 そう言った化野の言葉は、おぼろに霞むギンコの意識にも届いていた。布団に寝かされたままで、彼はほんの微かな笑みを口元に浮かべている。


 あぁ そうだ
 こんな 殆ど死んだような俺よりも
 もっと もっと 生きたいと思うものを生かしてやってくれ
 小さな子供を持つ女と こうして死にたがっている俺と
 どちらを救うべきなのか 
 お前は ちゃんと 判ってる

 そんなお前でいてくれて 俺は うれしい

 
 ギンコは、ゆっくりと闇の中に沈んで行く。闇は、柔らかな寝床のようだった。傷の痛みはもう無いが、心が別れの痛みにひび割れていくのが判った。哀しくて、哀しくて、一つきりの目が、どうしてか熱く鼓動を打った。


*** *** ***

 
 そして明け方。ギンコは何かを感じて目を覚ました。まだ生きている自分に落胆し、化野が傍に居ないのなら、昨夜のように外へ逃げて、死に場所を探そうと思った。そこへ、両手を左右から、小さく引っ張られる。

 なんだ? 誰もいない、筈だろう…?

「…ぅ…う…ッ」
 
 ほんの少し首を動かすだけで、全身が軋んで悲鳴を上げた。痛みに呻きながら目を開けると、彼の顔を覗き込んでいるものがいる。

「あ、おきたぁ…っ」

 最初に視界に入ったのは、目の前で揺れている例の角瓶。そうしてそれを首に下げて、大事そうに両手で抱き締めている幼い子供。化野を、ここへ呼びにきた子供の一人だ。

 驚いて目を見開くと、さらに左右から子供らの顔がギンコの様子を覗き込んでくる。身をもがかせようとするが、ギンコの両手は何かに押さえ付けられたように動かない。見ればそう思ったまま、彼の両脇に座る子供が、しっかりとギンコの両手を掴んでいる。

「は、…離して、くれ」
「だめ…っ!」
「そうだよ、僕ら、先生に、たのまれたんだ」

 幼い手で出来うる限りの力を込め、しっかりとギンコの両手を掴んでいる子供ら。子供らは言うのだ。

「ぼくらの大事な母ちゃんは、先生がちゃんと助けるから、先生の大事な人のこと、こうしてしっかり守っててくれ、って」

 見れば、首に角瓶を下げた一番幼い子供は、瓶をしっかりと胸に押さえたまま、懸命に囲炉裏へ薪を足している。その上に下がった鍋の湯が、もう少ないと気付くと、それもちゃんと土間の桶から柄杓ですくって注ぎ足す。

 そんなに小さい子供が、火の傍で働いているというのに、上の子供二人は、ギンコの両手を離さない。

「離してくれ。逃げや…しないから…」
「しんじちゃだめ、って、せんせい、言ってた。せんせいがもどるまで、手ぇはなしちゃだめだって」

 あぁ、よくぞ考えたものだ、とギンコは体から力を抜いた。こんなに小さな子供に腕を掴まれてちゃ、それらに乱暴働いてまで、逃げる体力も気持ちも、ギンコは持てやしない。息を吐いて、ギンコは言った。

「…なぁ、化野は、俺のことをそんなに大事だって…い、言ってたのか…」
「うん、いってた。自分よりもだ、って、いってた…。なによりも守りたいんだって言って、せんせい、泣いてた」
「泣い…て…」

 こんなにも、こんなにも罪深い俺を、
 どうしてそんなにも、お前は。

 言葉を詰まらせ、息までも詰まらせて、ギンコは自分の両手にある、幼い子供らの手を握り返した。ずっと乾いていた目が、随分としばらくぶりの涙に潤んだ。

 翡翠のような色の瞳から、透き通った涙が零れるのを、丁度その時、ギンコの顔を覗き込んでいた末の子供が見て、驚いたように目を丸くしたのだ。涙と一緒に、何かくすんだ青の色のものが、そこから零れて、枕に染みて消えた。

「あ、いま、なんかきれいな、青いの…」

 と、その時、戸口でガタリと大きな音がした。子供らがみんなで振り向くと、戸の傍で化野が膝を付いている。足がもつれているふうで、それでも必死で足掻いて立ち上がり、また転びそうになりながら彼はギンコの傍へと駆け寄る。

「ギンコ…っ、無事かッ。お前、生きてるか…っ」

 子供らを突き飛ばしそうな勢いで、ギンコの傍らに膝を付くと、化野は驚いたような顔で、いきなりギンコの布団を剥いだ。そうして彼の着ている着物の前を開け、包帯ごしに脇腹の傷に触れる。

「…熱が、ひいてる」

 そうしてつっかえつっかえなりながら、子供らに、もう手は離していいのだと伝え、化野はギンコの腹の包帯を解いて見て、今度こそ心の底から安堵の息を吐いたのだ。

「な、なお…って…」

 傷は塞がっていた。俄かには信じられないような速さで、もう殆ど治ってしまっている。そう、丁度、治療してもしても、まったく治る様子のなかった今までの経緯を、帳消しにするような今の傷の状況。

「……ギ…ン…」
 
 名前すらまともには呼べず、化野はギンコの胸へと顔を伏せた。零れた熱い涙が、ギンコの裸の胸を濡らす。感極まって、化野は間近からギンコの顔を見つめ、そうして彼の唇へ、口づけを一つ落とした。

「…あだ…しの……」

 と、その口づけに答えかけ、自分らを見ている六つの目に、ギンコは気付いてギクリとする。ついでに外がガヤガヤと騒がしいのにも気付いた。村人達の声だ。

「おぉい、先生、ギンコさんは大丈夫なのかい」
「なぁ、入っていいかい。うちの子らはどうしてるかと思ってよ。お前たち、母ちゃん、元気なったぞ。先生に頭さげな」
「ほんとにねぇ、一時はどうなるかと。ほんとに先生のお陰で」
「それで、ほれ、ギンコさんは」

 ギンコは呆れた顔で化野を見上げ、喋ったんだな、と渋い顔をする。そう言われた化野は、柔らかく優しい笑みで、じっとギンコを見つめながら言った。

「そりゃあ、話すさ。万が一お前が子供ら振り切って、また彷徨い出て行ってたら、村人総出で山ん中探す気でいたからな」

 閉じたままだった縁側の雨戸を開けると、そこから中を覗き込む、心配そうな顔、顔、顔。ギンコの元気そうな様子を見ると、それらの顔はみな笑顔になって、中には涙を浮かべるものもある。

 項垂れて、ギンコは布団のうえに、またひと粒の涙を零した。そこへと寄ってきて、あの小さな子供が角瓶をギンコに差し出し、不思議そうに首を傾げた。

「ねぇ…さっきのあのきれいな青いの、もうないの?」

 ギンコはそれを聞き、何かに思い当たったようにゆっくりと瞳を閉じるのだった。

「あぁ。ないよ…。憑くのは一人に一つきりだから、一つ、見えたのなら、それで終いだ」


                                         続











 ちょっと暫くぶり(十日ぶり)に書いたのが、このノベルですよ。リハビリも少ししてから書けばいいものを、はぶいたもんで、ちょっとあんまり良くない? でもでも、それこそ私だって、早くギンコさんを元気にしてあげたい気持ちでいっぱいだったんですものー。

 まだ謎な点はありながら、そのヒントもちらちら見えてる五話、楽しんでもらえていたら嬉しいです。それではまたー。


08/03/06