落 命 の 淵       4
 



 冷えた体。熱い傷。唇は色褪せて、乾いてしまっている。その唇で、ギンコは言うのだ。最後だ、と。そうして薄く開いたその唇の形で、大切そうに化野の名前を呟いた。

「あ、あだし…。あ…いし…」

 声は殆ど出ていない。名前を言うだけで、それに続く言葉はかすれている。それでも化野には判った。ギンコが何を欲しがっているのかが。

 あいして くれ… 
 これで さいごだから
 それ以外は なにもいらない
 いきていることさえ いらないから
  
 唇が、そこから覗く舌先が、化野の口づけを欲しがっている。投げ出された手は、きっと化野の背を抱きたがっているのだろう。そんなギンコの唇を、自分を映す目を、化野は狂おしく見つめて、そっと彼の口を吸った。

 唇は氷のようでも、吸った舌先は少しあたたかい。その温みが嬉しくて、つい強く貪った。ギンコは苦しげにしながらも、出来うる限り化野の愛撫に答えて、首を斜めに傾け、喉を反らして口づけを少しでも深くしようとする。

「さむ…い…寒い…。あだ…しの…」

 口づけが解けると、ギンコは言った。その、体温の失せた肌。なのに、そこだけ火のように熱い脇腹。巻いた包帯には血と膿が滲み、着せられてある着物の布地の上にまで、もう沁みている。

 化野はギンコの着物の前を広げ、濁った赤色の包帯を見つめ…。そしてそこから目を逸らして、ギンコの肌へと視線を辿らせた。

 会うたびに、何度でもこの体を愛した。心の奥底では、これで最後になるかも知れぬ、と口に出来ない不安を抱え、その心の揺らぎを打ち消すように、激しく強く抱いたのだ。なのに、覚悟など欠片ほども出来ていなかった。

 失うのがこんなにも苦しい。今にも気が狂いそうなほど。

 もう駄目なのか、と化野は思う。医家の理性など、残っていなければいいものを、知識が「もう駄目だ」と告げている。「手遅れだ」と。「せめて苦しませず逝かせてやれ」「最後の願いを聞いてやれ」と。

「あぁ、温めて、やるよ…」

 化野は温かな手のひらで、ギンコの肌をゆっくりと撫でた。首筋、鎖骨を撫でて、胸をくすぐり、包帯の箇所を除いて、その下へと。

 脚を広げさせてみれば、愛しい愛しい、ギンコの性器が力なく萎垂れている。

 片方の手のひらで包んで、優しく撫でた。丁寧に愛撫してやっても、それが反応することはなかったが、ギンコは青ざめたままの顔に、ほんの僅かな恥じらいを滲ませる。

「…気持ち、いいか…? ギンコ」
「ぁ…あぁ……。あだし、の…。もっと、もっ…と、おまえ…の、傍に…い、いたか…っ…」

 かすれた声が、最後の力を振り絞るようにそう言った。草の上に投げ出されているギンコの手が、微かに動いていて、その両腕を取って、化野は自分の背中に回してやろうとする。

 けれどもその腕は、背中にすがり付くことも出来ずに、力なく草の上に落ちた。そうしてもう、指先すら、ぴくりとも動かない。

「…ギ…ギンコ…ギンコ……」

 もう一度口づけをして、化野はそうっと、ギンコの肌の上に、自分の胸を重ねた。抱き合うことは出来なくても、こうしてぴったりと肌を重ねてやれば、もう熱を受け止められぬギンコも、少しは温かいだろうと思ったのだ。

 いつの間にか、化野の両目からは涙が零れて、ギンコの髪を濡らしていた。逝ってしまった、と、そう思った。色鮮やかだった世界が、黒と白だけになってしまったような、そんな気がした。

 
 *** *** ***


 化野は、どれだけギンコを抱き締めていただろう。いつの間にか霧雨は上がり、薄く空を覆う雲の陰に、朧な月の輪郭が見えていた。

 そして化野は、何の音も耳に入らない無音の時の中で、ふと、かすかな音に気付く。狂おしくギンコの着物の前を開け、酷く汚れた包帯の上に、そっと手を置いてみる。

 心臓の音が、微かにだけれど聞こえたのだ。狂おしいような思いで抱き起こしたギンコの体は、少し前よりも温かい気がした。

 俺は…いったい何を…
 最後の願いを聞いてやる、だと…?
 それでも医家か。
 まだ死んだと決まってもいないものを、
 絶望に負けて、諦めて…。

「死なせや、しない」

 言葉にしてそう言うと、化野はギンコの体を背中に負ぶった。

 必死で山を下り、もう崩れそうな足で家まで着いた時、道の向こうから小さな影が三つ走り出てきたのだ。口々に呼んでいる声は、浜沿いのある家の子供らだ。

「せんせぇ…っ、すぐ来て。か、母ちゃんが…ッ」
「いつもの薬、飲ませたけど、き、効かなくて」
「母ちゃんが死んじゃう。死んじゃうよぉ…っ」
 
 やっと布団に寝かせたギンコを、じっと凝視しながら、化野は子供らの言葉を聞いた。返事が出来ない。今、ここを離れたくない。離れている間に、もしもギンコの意識が戻れば、彼はまたここから逃げて、死のうとするだろう。

「…今、行けないんだ。だから…家ん中温めて、湯を沸かし続けて…、あ、朝までそのまま様子を…。朝になったら、行く…から」
「嫌だ、嫌だ。母ちゃんが死んじゃう…っ。せんせぇ、どうして…っ」
「せんせぇ、母ちゃんを助けて、助けてよぉッ」

 一番小さな子供は、もう泣きじゃくるしか出来ないでいる。その子供らの顔を見渡し、それから化野はギンコの顔を見て、血の出るほど唇を噛んでいて、そうして言った。

「判った…。行く。母ちゃんは大丈夫だ。お前らの家に行って、薬をすぐに作ってやるから、な」

 化野はそう言ってギンコの傍を離れ、薬棚の前へと走った。片眼鏡を掛け、ランプの灯りを灯し、調合する薬の材料を用意しながら、噛んだ唇の端から、血を滲ませていた。


                                        続











 
 こんなマジなものを書いてるのに、軽くおバカ発言いきます。心の準備はいいですか?

 ここだけの?話ですが、このノベル、書く前の最初の最初の設定に比べて、ギンコを重症にし過ぎました。それでどんな弊害がって? あの〜先生が怒りのあまりギンコを強姦する筈だったんですがね。こんな重症では出来ないよ。死んじゃうよ。

 そこまで鬼畜じゃないからね、先生は。いつも以上優しく愛撫、っていう感じになってしまいましたですよ。目次ページの☆印間違ってる。今日、ピンクからオレンジに直しておきます。緑の☆でもいいくらいか。アハ。

 失礼しました。惑い星、ちゃんと真面目な気持ちで書いてます。みなさん、読んでくださりありがとうございました。


08/02/23