落 命 の 淵       3
 



 薄っすらと開いた視界に、ぼんやりと見える人影。すぐ傍らに化野が座って、じっとギンコを凝視している。幾度目かにギンコの意識が戻ったと判っても、それでも視線を動かさない。

 ギンコもまた身じろぎ一つせずに、自分が今、化野に着せ付けられた着物を着ているのだと気付いた。そうして意識のない間にも、幾度変えられたか判らない白い包帯にも気付く。

「ご…、うな、こった…」
「…何?」

 ギンコのかすれた声が聞き取れず、聞き返しながらも、その言葉の意味が化野にはもう判っている。ギンコがそういう目をしているからだ。声も、嘲るような、失笑するような響きを持っている。

「ご苦労な…こった、と、言ったんだ…」
「……黙ってろ。薬を飲むことと、治療を受けること以外するな。治るまで、俺が許さん」

 何も言わずに、それでも「無駄だよ」とギンコが薄く笑った気がした。それをさらに黙って見ている化野の目が、暗く暗く沈んでいる。生を投げ出そうとしているギンコにも似た、絶望の眼差しだった。

 何故治らんのだ、と、心の奥で化野は叫んでいる。

 治療を始めて三日。傷の縫合もうまくやった。化膿止めの薬もよく効くものだ。ずっと見張り続けて、安静にさせている。なのにギンコの脇腹の傷は、今もし縫合糸を解けば、最初と同じ傷が口を開けるだろう。

 ギンコの意識のない間、持っている医学書を読み漁ったが、これよりも正しい治療法など載っていない。

「ギンコ…」
 
 ぽつりと、化野は彼の名を呼ぶ。天井を虚ろに見ていたギンコの視線が、ほんの僅か化野へと向く。 

「粥を、作ってやる、食うな…?」
「いらん…」
「……っ…」

 激情が、胸を破りそうだと思った。これ程かけがえないのに、それでも壊してしまいたいと、恐ろしい衝動が胸で渦を巻く。歯を食い縛って衝動を堪え、今まで幾度も続けた問いを唇に乗せた。

「そろそろ、何があったか…話す気になったか…」

 長い、長い沈黙が落ちる。ギンコの眼差しが彷徨うように化野を探し、それから彼の顔を見て。

「…聞きたいのなら」

 と、そう言った。それから何か言いかけて小さく咳き込み、その身の揺れに呻いて、乞うように化野の姿を瞳に映す。

「粥よりも…水、くれ…」
「あ…あぁ…! よし判った。待っていろ。少し温くしてやる。冷たくては弱った体に障るだろう。な、待っていろ、ギンコ」

 ついさっき、怒りの渦巻いていた胸に、ほんの僅か、安堵と言う名の想いが生まれて、化野は急いでその場を立つ。

 愚かだ、などと、誰が言えようか。このギンコの言葉を、化野は何よりも待っていたのだ。自身の苦痛を、少しでも和らげようとする懇願を。自分に助けを求めてくれる声を。

 そうして湯飲みに温い湯を入れて、薬と共に盆にのせて戻った化野は、部屋に踏み入ったと同時に、失意へと突き落とされたのだ。

 ギンコの姿は、消えていた。

   
*** *** ***


化野が気付いたのだろう。家の中で、何か大きな音がした。裸足で庭へと下りていたギンコは、振り向きもせずにそれを聞き、小雨の降る中を、山へ続く小道を見やる。

 両腕で何かに縋っていなければ立てない。進むには常に掴まるものが必要で、だからギンコは山を選んだ。生い茂る木々の枝が幹が、辛うじて彼を歩かせてくれ、隠してくれるだろう。

「ん…ぐ、ぅう…」

 脂汗が額に噴出して頬を伝う。それがさらに流れて唇を濡らした。全身は冷たいままなのに、体中を濡らす汗。片手で傍らの枝に縋りながら、もう一方の手で、ギンコは傷に指を立てた。内臓まで引き裂かれるような激痛。視界がさらにおぼろになる。

 あだしの
 と、ギンコは脳裏に言葉を描いた。


 あだしの  あだしの

 すまんな、最後まで迷惑掛けた。

 来るつもりなどなかったのに、偶然にもここに来てた。後はただ、苦痛に裁かれることのみ残した命を、お前に救ってもらおうなどと、ほんの欠片も思っちゃいない。

 迷惑かけたが、これで最後だ、勘弁してくれ。お前は医家だから、この傷で、こんなふうに雨の中を歩いて、もう助からないのも判るだろう。誰にもけして見つからない場所で朽ちるから…探すな。そうして忘れろ。

 そうだ。忘れてしまえ。
 出会ったこと、想ったこと、すべてを。

 
 湿った大地が裸足の足の下でぬかるむ。濡れて膝に絡む着物が、化野が最後に自分にくれたものだと思うと、そのわずらわしさも嫌ではなかった。この咎人に、こんなにも最良の手向けの品。その上この山の奥で死ぬのなら、化野の庭で逝くのに似て嬉しい。

 痛みはもう、うっすらとしか感じなかった。苦しみが強すぎて、すでに体がそれを、認識できていないのかもしれなかった。

 どれだけ歩いたのか、薄暗がりの山奥から、斜面の下を見やっても、家は見えない。海の色も見えず、潮の香りすらもしない。風の一筋も通らない薄暗い谷底だ。ここらでいいか、とギンコは膝を折る。首から提げた角瓶がゆらりと揺れる。

 倒れこんだ胸や顔が、何かにぶつかった。随分と大きな木だ、優しい枝だ、とぼんやり思う。そうして彼は、名を、呼ばれた。

「ギンコ…っ、ギンコ…」
「…ぁ…あ…」
「ギンコ、探した…」

 さがした? なぜ どうして
 せっかく ここまで にげたのに

 焦点の合っていなかったギンコの目が、ゆっくりと化野の顔を映す。そのギンコの目に、怒りとしか呼べない感情が揺れて、化野はそれを哀しく眺める。

 そんなに死にたいか。お前を生かそうとする俺が、そんなに嫌か。

 僅かばかりの抵抗を受けながら、それでも抱き締めたギンコの体。その冷たすぎる体。脇腹の一箇所だけが、異様に熱くて…濡れて、いる。ぬるりとしたその感触は、雨で濡れたためのものではなかった。

 零れ出しているのは今まで隠してきた無数の罪なのだ、とギンコは何も言わずに、ひとりただ思う。その膿に魂が沈んで、とうとう腐って死ぬのだと。もう助からない、助かってはいけない、助けられたくない。

 でも だいじょうぶだ
 どうせもう まにあわない
 そうだろ あだしの

「さいご、だ…」

 くたりと四肢から力を抜いて、ギンコはうっすら笑いながら、化野を見上げた。


                                      続








 ひぃぃ、暗ぁーーーーーーいっ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛。もう救い無い。救い無さすぎ。どーすんだよぉぉぉ。書いてるの私だろう、どうするんだぁぁ。あっ、すいません、どーもオタケんでしまいました。

 でもね。冒頭とか二話目よりは、なんとなく優しい?内容になった気がするよ? だって、ギンコさんが先生のこと、自分の心の中でだけは素直に感じているから。

 偶然来たみたいなこと言っちゃってるのは、まぁ、そんなわけないでしょっ、て突っ込んでやってください。そんなことないです、まったくです。会いたくて来たに決まってます。一目会って、それで終りに…と思ったのね。涙。

 くぉぉ、死なせんぞ、ギンコ!!
 はい、皆さんご一緒に、
 「死なせんぞ、ギンコっっっ」 


08/02/15