落 命 の 淵 1
空が歪んで回っていた。
地面は絶えず揺らいでいた。
目がよく見えない。
眼前の枝が風に撓んでいるというのに、何も音がしない。
身体は冷たくて、石か、もしくは氷のよう。
なのに、脇腹だけが、ずくずくと痛みながら熱い。
何をしているのか。歩いている。何故歩いているのか。何処へ向っているのか。いや、ただ座っているよりもこうして動いていた方が、早いと思っているのだ。
この方が血が流れて、流れた分だけ身体が冷えて、冷えた分だけ心の臓がゆっくりと、止まっていってくれるだろうと。
そうして気付けば、いつしか足は止まっていた。
目の前に家が見えた。知っている家だと思った。雨戸の隙間から灯りがもれている。ごとり、と、その雨戸は音を立て、人、一人分だけ開いて、それを見ているギンコの視野は、唐突に斜めに傾いで下へと落ちていった。
*** *** ***
今夜は冷える。
冬でもないのに火を焚きたいくらいだ、と化野は思った。なのに、閉じた雨戸を開けて、外を見る気になった。何故かは判らない。こんなに冷えているならば、星がさぞや綺麗だと思ったのかもしれない。
だが、雨戸を開けて、外へ顔を出した途端、化野の心は凍りついた。見えたのは星ではなく、風に揺れる木々の影ではなく。そこに、ぼう、と立っているギンコが、ゆっくりと横に、倒れて行く姿だったのだ。
名を呼ぶ暇すらなかった。裸足で外へ飛び出して、垣根を跨いで傍に駆け寄り、抱き起こした途端、恐怖は倍に跳ね上がった。冷たいのだ、ギンコの体が。生きていると思えないほどに冷たい。顔の色も、まるで蝋のようだ。
なんとか抱え、引きずるようにして家へと連れて入る間、さらに恐れは膨れ上がる。こんなに体が冷たいのに、触れた一箇所だけが、変に熱い。
怪我だ! そう思った。獣にやられたか、夜盗にでも刺されたか、ギンコは深手を負っている。
家の中へと運び入れ、とにかく仰向けに寝かせて、上着を肌蹴させた。すると上着の中から、四角い硝子の瓶が転げる。見もせずに拾い上げて、脇へ置く。
それからさらに衣服の前を開き、シャツをたくし上げ、そうして包帯に包まれた傷を見つけた。
「な…に…」
見た途端、化野は言葉を失くす。包帯は腹に巻かれていた。だが、それが血まみれだった。しかもその血が乾いて変色している。いつの血なのか判らないような状況。手を当てれば、その下の皮膚が異様に熱いと判る。
青ざめた顔をしたまま、化野は刃物を取り出して包帯を裂いた。肌を傷つけないように、怪我に障らないように、気を使いながらも手早く、その汚れた布を取り去って行く。
「……っ…」
そして現れた傷に、化野は息すらも止めた。膿んでいる。しかも相当に。元々の怪我がどんなものかも判らないほど、傷口が腐って、血と混じりあった膿が、見ている間も、じくじくと滲み出していた。
化野はその場を立って、奥に入っていくと、すぐに様々なものを抱えて戻ってきた。傷を洗い、消毒し、死んだ皮膚を切開し、足りなければ別の皮膚で継ぎ合わせ、そうして縫わねばならない。
朝までかかる。いいや、もっとか。とにかく急がねばならない。一刻を争う。治療の準備の為に、忙しく手を動かしながら、化野はちらりとだけギンコの顔を見た。
恨み言を言いたかった。
何故こんなになるまで放っておいたのかと。治療して貰うために、ここまで来たのか? そうじゃないだろう。治療を先延ばししていいような傷じゃない。死のうとしたとしか思えない。
何故だ、と問いたかった。けれど、全ては治療のあとのことだった。朝まではまだ長いが、実際よりももっと、長い夜になると、化野にはわかっているのだった。
*** *** ***
化野は、その布団の傍に座って、縁側から見える空を見上げていた。雨になりそうだ。湿気は傷によくないから、出来れば降って欲しくは無い。寒いのも駄目だ。暑いのも。
怪我を負ったギンコが来て、夜通し治療したあの日から、既に二日日が経っている。なのにギンコは目覚めない。栄養は注射で与えているが、それで平気と言うわけじゃない。
化野は殆ど寝ていなくて、ずっとギンコの傍から離れずにいる。離れられるはずがなかった。
「…治療、したのか…」
「っ! ギンコっっ」
唐突にギンコの声が聞こえて、化野は頬を紅潮させて彼の名前を呼んだ。
「よかった、ギンコ。気付いたのなら大丈夫だな。俺がちゃんと治してやるから、安心して」
「治したのか」
「…え?」
「治さなくて、いいんだ」
憤りが、化野の胸で火を噴いた。この怪我人の胸倉を、掴んで揺さぶりたい衝動に駆られる。
「お…前っ」
「あっちへ行け」
酷い言葉を吐くギンコ。見ればその目は化野を見てなどいずに、傍らの畳の上を見ている。医療具が散乱したその端に、古びた硝子の瓶。それだけが、ギンコの持ち物。
「駄目だ、起きるな、ギンコ!」
腐りかけて倒れた古木のように、ぼろぼろな身体を無理に起こそうとして、ギンコは呻く。激痛に呻いて身を捩り、そのためにまた苦痛を味わって、震える唇からくぐもった悲鳴を撒き散らす。
「う、ぐ、ぁあ…ぁ」
「判ってるのか、二日意識が無かったんだぞっ!」
「さわ、らないでくれ」
汚れて乱れた髪。乾いた皮膚。生気の無い目に、ただ、暗い意思だけが灯っていた。ギンコは化野に、布団へと押し戻されそうになりながら、それでも信じられないような力で身を起こし、手を伸ばし、畳の上の硝子瓶を取る。
瓶を手にした途端に力が抜けて、布団に押さえ込まれ、そこでまた痛みにもがいた。
「く、ぁ、ぁぁう…っ」
化野に背を向けるように、ギンコは身体を丸くして、ぜいぜいと息を吐きながら、片手に掴んだ瓶を見た。その肩が震え、狂おしい色に瞳が揺らいでいる。そこにあるのは、絶望、だろうか。
「…それは何だ…? そんな大事か……」
押さえつけていたギンコの身体から、ようやく手を離して化野は聞いた。目は、白い包帯の巻かれたギンコの脇腹をみる。傷はまだ、殆ど塞がっていないだろう。とにかく静かにさせなければならない。
動くなと言い聞かせるより、薬を飲ませるより、事情を…何があったのかを、聞かなければならなかった。そうでなければ同じだ。生きるのだと、そう思わせたかった。
もう、死を選んだような目のギンコに。
続
あ〜…。とてつもなく暗い始まり方ですな。す、すいません。綿胞子のあとの話…と思って妄想していたら、こんなことに。あ、これもまた、いつも書いている二人とは別の世界の話なので、そのように考えていただけると。
なんかPさま。ご希望とは懸け離れた出だしで申し訳ありませんです。考えてたらモノスゴ・シリアスになってしまって、もう脳内修正不可能みたいです。ひぃー。
それにしてもギンコ、先生というものがありながら、そんな…そんなっっっっっっ! 生きてくれよぉ、お願いだっ。とかなんとか、一人で騒いでいる脳内でござる。あー。うるさい、私の脳内。
続きも頑張りますので、よろしかったら皆様、応援お願いします。
08/01/30
