蟲 箱 師 5
なんなんだと思いながら、暗くなる前に、きちんと三人分の夕餉を用意した自分のことを。もしかして馬鹿なのだろうかと化野は思ってしまっていた。もう汁物もすっかり冷えているのに、ギンコもあの男も現れる様子が無い。
なんでこんなもん、用意したんだ、俺は。
呼びには、行っていない。どんな顔して行けばいいのか、どんな言い方で呼べばいいのか判らなかったからだ。ただ、いつものギンコなら、調べものか何かしていても、夕餉の匂いをかいでもそもそと顔を出すから…。
はぁ、と溜息ついて、化野は冷めてしまった汁の器を手に取った。炊いた飯も冷えたし、もちろん煮魚も。
「化野」
名を呼ばれて化野は顔を上げた。廊下からこちらへ顔を覗かせながら、酷く済まなそうな顔を、ギンコはしている。胸に迫る気持ちが何なのか判らないまま、化野はそれでもほっとして、少し笑った。
「あぁ、ギンコ…」
「その、さっきはすまん。変わりもんなんだ、九重は。…あ、それ、もう片付けちまうのか? 食っちゃ駄目か? 結構、腹が減ってんだ」
「勿論だとも。冷えちまってるから、今温めなおして」
「いや、そのままで構わんさ。煮魚が美味そうだなぁ」
化野は力の抜けたようにぺたりと畳に座り、もぐもぐと懸命に飯を食べ始めたギンコを見ていた。ギンコの箸が魚の皿から逸れると、言われずとも判ったふうに、漬物の小鉢を押しやる。
「あ、あの…客人は、夕餉はいいのか。部屋へ持ってくか?」
なんでそんなことを、と言ってしまってから化野は思った。やっとギンコが自分の傍に来てくれたのに、傍から離すような事を…。だけれどギンコは、飯を咀嚼しながら首を横に三度も振って、小さく苦笑う。
「あいつはいいんだ。俺以外の誰かと一緒に、飯を食うとかするとは思えないしな。…人嫌いなんだよ。けど、ほんとに、すまん、化野。寝泊りさしてもらうってのに、『頼む』の一言もねぇとは、いくらなんでも気ぃ悪くしただろ?」
「変わってようと、無愛想だろうと、そんなのは別に…構わんよ」
化野の言葉は淡々としていて、だけれど妙にすとん、とギンコの胸へ落ちた。茶碗に残っていた最後の飯粒を口に入れて、飲み込みながらギンコは化野の姿を眺める。いつもの藍の着物の、その褪せた色が、妙に思えるほど目に沁みた。
構わんよ… お前がこうして、俺へと「帰って」くるんなら…。
かちゃ、と音立てて箸が茶碗に置かれる。その箸の、対の片一方が落ちて畳へと転がった。
「怒るか? ギンコ」
「…いや」
何を、とは問わなかった。聞かなくとも判ったからだ。会いたさは、ギンコの心にいつも強くある。会えば触れたいと、触れて欲しいと思うのだ。怒ったりなどしない。きっと、心は同じだから。
差し伸べてきた化野の手が、ギンコの手首を捕らえると、膝立ちになって、その膝で僅かにいざって、彼は化野に自ら捕まった。
「ん…ふ、っ」
「ギンコ…。ん…ギンコ…」
眩むような、唇の愛撫。濃厚なその口付けに、一気に酔ってしまいそうになって、少しギンコは今更のように慌てる。
「んん、ぁ…あだし…。そのっ、わ、悪ぃ、今は、く…口、だけで」
「どうしてだ? いいだろう、別に。やっと…」
口付けの合間に囁く声は、たったその一言だけで、ギンコの胸の奥へと入って、そのままじわりとそこに沁みていく。畳へ付いた両膝から、急に力が抜けたようになる。腰へ腕が回されて、ぴったりと体が合わさると、鼓動まで絡むように思えて、このまま酔いたいと、ギンコはそう思った。
「ぁ…ぁ、でも…こ、こんなことをしにきたんじゃ、ねぇんだ。話…」
「後でいい」
「や、…ぁ、化…野…」
する、とシャツの下から化野の手が滑り込む。じかに胸を撫でられて、理性が端からとろけていくのが判った。逃げるように身をよじれば、背中に触れているのは畳の目。いつの間に身を横たえられたのか、それも気付けぬようでは、抵抗など到底…。
その時、きし、と廊下の板が軋んだ。ギンコは化野の胸を手で突いて、無理に体を押し離した。視線が焦ったように、障子に映る影を探す。今夜は月が無いから、行灯を灯してある部屋の中から、外にいるものの影は見えなかった。
よくよく耳を澄ませても、物音はもうしない。気のせいかと息をついて、ギンコはもう一度、ちゃんと化野に頼み込む。
「…なぁ、今は勘弁してくれ、化野。後で…夜にはちゃんと、お前の傍にいるから。今のうちにちゃんと、九重のことをお前に話しておきたいんだ。じゃないと…その、変な誤解とかされそうで」
「誤解? さっき、あいつが言ったこととか、か?」
部屋はギンコと同じで。
布団は一人分あれば充分。
心持ち、目がつり上がったふうな化野を見て、ギンコは思わず手をかざした。瞼に指を触れるように、一瞬だけ化野の両目を塞ぐ仕草。息遣いだけで、怒らねぇでくれ、とギンコは囁いた。
言葉にはできないが、数日前、九重のところであったことを思い出している。蟲抜きをして貰うとき、九重に体を触れられながら、確かにイってしまったことを。浮気したつもりはない。ないが、ギンコには後ろめたい気持ちもあるのだ。
「蟲師…って、さっき九重のことを紹介したろ…?」
それでも、ギンコは強引に話し出した。まだ腹の上に化野の手が触れていて、する、と小さく滑るだけで、体の芯までぞくりとする。それをあえて嫌がらず、好きにさせながらギンコは懸命に言葉を繋ごうとした。
「ほ、ほんとは…蟲箱師って、生業なんだ。蟲師の技も持ってるが…俺ら蟲師の持つ木箱を、特殊なやり方で、つ…作る…。ひ…ッ」
胸の飾りを、きゅ、と摘まれ、捻るようにされてギンコは悲鳴を上げた。それでも化野の手を押さえたりせずに、許しを請うようにギンコは彼の目を見た。潤んだ翡翠色の瞳を、しばらくの間眺めていて、化野はやっと目を和ませて、悪い、と短く詫びてくれた。
「元来、俺は嫉妬深いんだ…。話してくれ。聞くよ」
ごく、と息をひとつ飲んでから、ギンコはやっと身を起こした。詫びてはくれたものの、本当はまだ怒っているんじゃないかと疑わしい。すぐに許してくれず、煽り立てるようなことをしてから手を離すのは意地が悪くはないだろうか。
「…これを話すのは初めてだから、信じがたいかもしれんが」
そう言い置いて、ギンコは話し出した。九重が蟲師の木箱を作る、というのは、ただ『箱』を作るのとは訳が違う。蟲を選び、その蟲を蟲師と木箱に憑かせて、蟲の力を借り、蟲師の旅の苦労を軽くする。
恩恵は蟲によって違い、夏に涼しくしてくれる蟲やら、冬に温もりをくれる蟲やら、いろいろいて、自分が前々から九重に頼んで選んでもらっているのは、木箱を楽に背負っていられるよう、手助けしてくれる蟲。
医家の薬の処方とも少し似ていると思うが、同じ蟲をずっと使っていれば、体に支障のあることもあるから、時々は別の蟲に入れ替えねばならず、今、自分につけた蟲が丁度、取替え時に来ているから、その為に九重と行動を共にしているのだ、と。
「…なるほど、信じがたいってことも無いが、確かに意外な話だな」
化野はじっと黙って聞いていたが、話が一段落したと見るとぽつりと言い、それから探るようにギンコの目を覗き込んだ。
「で? 今の話のどこに俺が『変な誤解』をすると思うんだ?」
そう言った。
続
やっぱりややこしい設定の話は、なんというか、説明的文章が多くなってしまって、申し訳なく思ってしまいます。つまんないだろうなー。でも、先生とギンコの色っぽいシーンが少し入れられて、私だけは「ほくほく」してたりしますけども。
あれ? なんか急に、先生ってば格好よくなったんじゃない?
とかとか思ったりもしました。生き生きしてるっていうか。どうしてこう先生は、ギンコを苛めているときに、楽しそうなんでしょうね。あ? そうか、楽しいからか! 判ります、その気持ち。
先生とギンコと九重の、三角関係っぽい話になってしまいそうで、はらはらどきどきわくわくします。でも、泣ける感動話も目指してますよ?(無理がある矛盾してる何考えてんだっ)
どうか続きも待ってやってくださいね。
10/07/22
