蟲 箱 師 4
「あそこが俺の…友のいる里だ」
「………」
ゆるりと弧を描いた美しい浜。そこを縁取るように砂浜と岩場が半々で、そらにその内には浜風を遮るための広葉樹が、山側から帯を伸ばすように少し。それより内側へ入ると、とりどりの緑を風に波打たせる田んぼと、いろんなものを育てているのだろう豊かな畑。
人々はそれぞれに海へ、田畑へ出ていて、それぞれの仕事にせいを出している。そういう様が、ギンコと九重のいる峠の上からでもよく見えた。
「高台に、わりとデカい家が見えるだろう。ほら、あの蔵を後ろにしたあの家だ。あれが俺の…友の…」
そうやって問われもせぬうちに教えているのに、九重はさっきから黙ったまんまだ。ここに来るまでも、人里に近付くと九重はいつも口を聞かなくなり、山や森に入ると、止めていた呼吸を再開するかのように喋り出す。
「あのな」
と、ギンコは思わず言った。
「化野んちに厄介になるんだから、一言くらい何か言えるんだろうな。あいつはそりゃあ気のいい奴で、だんまりしてたって泊めてくらいくれるだろうが、それにしたって挨拶の一つ…」
「判っとう…」
「……ならいいけどな」
はあ…と一つため息をついて、ギンコは峠を降り始めた。その後ろに九重も続くのだが、その大きな体をギンコの背に隠すようにして、拗ねた顔を横に向けている気配が、ひしひしと伝わってくる。
まるで餓鬼だな、とギンコは思い、それまで以上に九重が、堅く口を引き結んでいることにまでは気付かずに居た。
友、友って…情人だってとっくに知れとう。
あの守り袋を、酷く大事にする姿からだとて、
特別なんだと叫んでるようなもんよな…。
そりゃあ、ただの知り人と違うて、
さすが情人ってこったろさ。
そんな想いは心の奥底で、九重本人も、よくは判っていない。
ギンコが里に入ると、彼を見知ったものはそこここにいて、姿を見ると笑って手を振ってきたり、子供らなどは駆け寄ってこようとし、それでも九重の姿を見て思いとどまって、ギンコへと遠くから笑顔を向けてくる。
「ここにはよく来るからな。蟲患いのもんも何度か診て直したし、里のもんらも俺のこと、よく立ち寄る旅人として覚えてくれてんのさ」
そうと呟くギンコの声は、淡々としているも嬉しそうだ。里に入り、広くもない集落や田畑を越えてゆくと、道はやがて緩やかに上り坂になる。ギンコの歩む足は、だんだんと早くなり、九重は気付いても何も言わずに後ろを着いていく。
「…その…なんか、いい蟲いたか?」
「あ…?」
「いや、この里にいる蟲ん中から、いいのを探しにきたんじゃないのか?」
「…あぁ、そういえばな」
その言い草に、思わずギンコは立ち止まって九重を振り向く。
「おい…っ、お前があんなに言うし、強引だからこんなとこまでつれてきたんだぞ。ちゃんと俺に合う蟲を、この里でっ」
「ギンコぉぉっ…! ギンコ…っ」
いきなりだった、まだ坂を半分くらいしか登っていないから、化野の家までは距離があるのに、叫びながら、その声の主が駆け寄ってくるのだ。びっくりして振り向いたギンコは、大きく広げた化野の腕の中に捕まって、声も出ず、ただただ目を丸くした。
「ギンコっ、あぁ、よく来たなぁ、元気そうで嬉し…」
「あだ…あ、化野」
今まで、こんなふうに迎えられたことはなかった。そりゃあゆくたびに喜んでくれたけれど、駆け寄って抱き付いてくるなんて初めてだ。嬉しくないわけもないのだが、ギンコは単純に喜んではいられない。
「は、はな…離してくれ、化野」
「あぁ、うん、すまんな、つい」
意外に思うほどあっさりと、化野はギンコの体から剥れた。剥れた化野は、ギンコの後ろにいた男を、幾分怪訝そうで、幾分ばつが悪そうな顔で見ている。そして、ギンコへ視線を戻して、誰なんだ?と、目で聞いてくる。
「あ、その…ええと、蟲…、蟲師の知人だ。九重という…」
九重のことを、どう説明しようかなど、考えていなかったギンコは、とりあえず「蟲師」なのだと言っておいた。間違ってはいないのだし、蟲箱作りの職人だ、などと説明するよりずっとマシだと思ったのだ。
「九重、これが話しておいた、俺の友じ」
「わかっとう。散々聞いたお前の情人(イロ)よな」
ぐ、とギンコは詰まった。化野の前に出たら、九重はロクに喋るまいと思っていたのに、その数少ないであろう言葉の最初がこれか、と眩暈がする。
「や、その…ちが…っ、そうじゃ…」
(ギンコ…っ、おいッ)
化野が小声で言う。そうしてギンコの言葉を封じ、いきなりその片腕を捕まえて道の脇の草の中へ引きずってゆく。凄い力で引きずっていかれ、ギンコは転びそうになりながら化野の声を聞いた。
(おまっ、どんなことをどんなふうに話したんだ、いったいっ。珍しいじゃないか、俺の事をそんなふうに知り合いに言うなんて。そのぅ…。そこまで正直に打ち明けるほど親しい知人なのか…?)
ぼそぼそというその言葉の、なんと表情豊かであることか。驚きと、照れと、嬉しさと、戸惑いと。それにほんの少し嫉妬のような思いまで。見れば化野の顔が少し赤くて、ギンコは妙に疲れたような気分になった。
(古くからの知人なのは本当だ。親しいと言えば親しい。でも、別にべらべらなんでも喋ったわけじゃないからな。ただ、故あって、隠し事の通じねぇ相手なんだよ。後でもう少しちゃんと説明する)
と、ギンコもまた小声で言って、それから普通の大きさの声で言った。
「すまんが、化野。今、俺は九重に、ある大事な頼みごとをしていてな。そのために何日か、俺と一緒に九重もお前の家に泊めて貰いたいんだよ。今、平気か? 誰か病人とか家にいたりは…?」
「いや、大丈夫だ。部屋もちゃんと、お客人のために一部屋空けられるし、布団なんかも一揃え…」
「ギンコと共の部屋でなくば困る。布団? そんなもん…一人分ありゃあ、充分ことたりゆう」
「何」
「あーー…っ、歩きどおしで今日は疲れた。さっそく少し休ましてくれよ、化野。急にきて勝手ばかりですまん。だからあとでっ。あとでちゃんと、はな…話をするからっ」
ギンコは変に大声でそう言って、化野ではなく九重の腕を強く掴んだ。そうしてその片腕にほとんど縋りつくようにして、彼を化野の家の方へ引っ張った。
向かうのは自分の住まいだというのに、化野は酷く戸惑ったような顔のまま、暫しそこに立ち尽くしている。
視線だけで追うように見れば、ギンコにしがみ付かれている、九重というその男は、なんだか大きな蓑虫のような妙な格好で、頭にもかぶっているそのぼろから、長いざんばらな髪が零れて凄いような姿だ。とてもまともには見えないが、それでもギンコの親しい知人だという。
ギンコの口から、誰かと親しい、などという話を聞いたのも初めてだった。ギンコが誰かにしがみ付いたりしているのを見るのも初めてだ。
「…なん、なんだよ、ギンコ」
呟いた声には、隠しようの無い不安と不満が滲んでいた。
続
10/07/11
