蟲 箱 師 3
「潮…」
ぼんやり草の上に立ったまま、九重はぽつりと呟いた。急に降り出した雨に追われ、ふたりは広葉樹の下に走り込んで休んでいる。風が少しあるので、完全には雨宿りすることも出来ずに、彼らの上に、時折大きな雫か降ってきていた。
「しお…?って?」
九重の言葉を聞き返し、ギンコは木の根元に腰を下ろし、背中を幹に寄りかけた。こうして何かに寄りかかろうと思う時、いつもの癖で、肩の背負い紐を外し、背中から木箱を下ろそうとしてしまう。
肩へと上げた手が余る。あー…と、呟いてギンコは九重の背中を眺め、もう一度同じことを聞いた。
「しおって何だよ」
「…潮は潮だ。風に混じり居て、海の空気が流れとう。そろそろか、お前の情人のいる里は」
「まだまだ先だよ。ここからもっと行って…。そうだなぁ、あと山三つも越えなきゃ、海の傍には出ん。鼻がいかれてんじゃないのか? それとも気のせいか」
九重は振り向きもせず、ただぶらりと下げていた片手を上に上げて、何もない空を撫でるようにしている。漂っている何かを、そこでかき混ぜるようにだ。それと見てギンコは目を凝らし、殆ど目には見えない、極細かい何かを見つける。
薄紫色をした粉状のものが、うっすらと帯のように漂っていた。それが九重に、海からくる潮混じりの空気を知らせたのだろう。
「荒れとる、言うてもな。別に俺らぁ、魚獲りに行くわけでもないで」
「…蟲が教えてくれたってことか。便利だな、ほんとに」
和やかな顔をして、言葉もない蟲に話しかけている九重に、ギンコはそう言った。この男、蟲を乱用はしようとしないが、本当のところ、最強なんじゃないのか、と思う。
蟲どもは多種多様な力を持っているし、人の感知できない様々なものを判っているのだ。とすれば、これを見聞きする九重は、人以上の能力や知識をいくらでも得ることが出来るということだろう。
悪ぃ蟲、その身ぃに付けて暴れさすぞ、ギンコ
そんなことを冗談で言っていた九重が、少し怖い存在に見えた。彼が思っていることが聞こえた筈はないが、唐突にくるり、と九重がこちらを向いて、何も言わずに無造作に手を差し出したのだ。
「な、なんだよ」
「…お前の情人の匂いがついた持ち物、一つくらいなんかあるだろう。貸せ」
「な…っ。そんなもん、持ってねぇし」
言いながらも、ギンコの片手は上着の胸の辺りを無意識に押さえていた。その裏側にある隠しに、化野がくれた守り袋が入っているのだ。目ざとく気付いて、九重は強引にそれを奪い取り、自分の目の高さにぶら下げて眺めた。
「…守り袋ぉ? ふん、女のようなことする奴らしいな」
「返せ、大事なもんだ」
からかうように言われたのが、自分でもびっくりするほど気に触って、ギンコは九重の手から、それを奪い返そうとした。はっきりと気分を害した目をして、手を伸ばすギンコの目の前から、けれどその大事な守り袋はするりと消えてしまう。
「…っ! てめぇ…ッ、どこへやった!?」
「そう怒るな、蟲に匂いを嗅がせただけだ」
何もない空間にするりと消えた守り袋が、何もない空間から、ぽん、と出てきてギンコの手の中に落ちてくる。九重は悪びれず、また何もない空間を撫でて、そこにいる蟲に何かを頼んでいるらしい。
「先触れするなんぞ、面白かろう。もうじきお前が訪ねてくるぞ、と相手へ知らせゆう」
「やめろ。あいつ、ただでも行くたび鬱陶しいのに、先触れなんかしてから行ったら大変だ。忙しいあいつに、余計な手間を」
「もう行った」
「……ったく…」
ギンコは頭を抱えて、もう一度、木の根の傍へ腰を落とした。なんだかどっ、と疲れてしまった。九重を化野のとこへ連れて行くだけで、酷く気が重いのに、自分と化野とがどんな関係か、これはもう知ってしまっているのだ。
どうせ先触れするんなら、そのことを化野にそれとなく伝えて、べたべたしてくんな、とでも、文に書いた方がよかったかもしれない。だけれど、今となってはそれも遅いのだ。
「なんぞ面白い面白い」
「…はぁ?」
「お前がそれほどくるくると、顔色ぉ変えてんのがな」
そう言って九重が楽しそうに笑うと、彼の体にまといつく蟲達までもが、楽しげに震えて喜んでいるように見えた。
* ** ***** ** *
ギンコはまだだろうか…。
化野はぼんやりと、そんなことを思いながら縁側に座していた。そこから見える海は、今日は少し荒れていて、さほど風もないのに不思議だ。ある時、若い漁師が言ってたことがある。
先生は、海を知らんから判らんでも可笑しかないけど、
浜に風がなくたって、海が荒れるときゃ荒れるもんだよ。
高い波は波打ち際で風が作るものではなく、ここから遠く遠く離れた沖で、波と風とが影響しあって生まれるものなんだそうだ。その高い波を見て、その白く牙をむいて浜に打ち寄せるのを見て、脈絡もなく化野は思っている。
ギンコは、今頃、どこにいるんだろうか…。
「…へ?」
その化野が、いきなり妙な声を立てた。ぼんやり見ていた何もない空間に、唐突に見覚えのあるものが出現したからだ。
渋いよもぎの色をした、小さな小さな守り袋だ。紐は青灰色で少し大きめに蝶結びに結んである。以前、ギンコが蟲患いをなおして助けた、カイナという名の娘が、暫くぶりにこの里によったとき、ギンコと化野に、と、揃いで作ってくれた品だった。
化野がしばらく二つとも、懐に入れて想いを込め、大事に大事にしてから、ついこの前ギンコが来たときに、やっと渡した守り袋。それがなんで、ここに…?
と、いうより、あれは宙に浮いてるじゃないか!
目を丸くして立ち上がって、化野は庭へと飛び降り、それへ手を伸ばして掴もうとした。けれども指が触れそうな寸前で、守り袋は、ふ…と消えてしまった。ギンコの蟲煙草の匂いが、ほんの一瞬香った気がする。
「…まさか、ギンコに…何かあったとか」
だから守り袋があいつの危機を知らせにきてくれたのではないか?! 化野の心臓はきりきりと痛んだ。だって、危機をこうして知ったとしても、彼にはどうしてやる方法もない。どこにいるかもわからなくて、何があったかもわからなくて、出来るのはただ、祈ることだけだ。
帯の中に忍ばせた、自分の守り袋を取り出して、化野はギンコの無事を懸命に祈った。勿論、彼にはこの里に一人きりの医家という、大事な大事な仕事があるから、四六時中ギンコのことだけを想ってはいられなかったが、それでも、よく眠れないほど気にして、夜中に起き出してしまうほどだった。
「はぁ…ギンコ、お前、どこでどうしてるんだ…」
化野がそう呟いたころ、ギンコと九重は、この里へとたどり着くための、最後の峠をのぼり終えたところだった。
続
お守りの先触れ。確かに考えようによっては、不安になりますよね。もともと心配しているってのに、これからますます心配になるよ。それなのにギンコは、知らん男と連れ立ってくるし…。
先生の災難?は続きそうです。次回を乞うご期待!っつったら、先生に悪いか。アハハー。
10/06/25
