蟲 箱 師 2
睨み据えられて、ギンコは視線を惑わせる。やがては後ろ頭を掻いてため息を一つ。彼は背中の木箱を下ろし、上着を脱ぎ、その下に着ているシャツをたくし上げて脱ぎ捨てた。
「…よろしく頼む」
「後ろを向け。そのまま座って…」
九重の声は深く響いた。言われた通りにギンコは九重に背中を向け、岩の向き出した地面に膝をついた。
九重は手を伸ばし、ギンコの背中に触れて、するすると肌を撫でている。その指が、ゆっくりと内へ沈むのだ。されているギンコに痛みは無いが、痛み以外の別の感覚が、じわりと体の奥へと滲みた。
「…い…っ、…ぁ…」
「半ば眠ってるが、弱っているのはいない。寒いところも随分寄ってくれたようだな」
「あ…ぁ、お前が、くれぐれも…と、そう言っ…」
浅い息をついて、無意識に蹲ってしまいながら、それでもギンコは返事を返した。九重は五指を広げ、指先で蟲を感じ取る。ギンコの背に棲む蟲、そもそも九重がそこへ憑かせた蟲だ。
蟲箱師、九重。蟲師の箱を作る生業だ。だが蟲箱師はただの箱師とは違う。箱と蟲師を、蟲によって繋げる。そういう技を持っている。
「温い肌ぁ、しやがって」
「そりゃ、当たり前…だ…。生きてんだぞ」
「そういう意味じゃぁ、ねぇがな」
ギンコの肌に棲まわせた蟲は、時に寒さを欲する蟲だ。人の体に棲ませると、半分眠って半分起きているが、時折は雪のある土地へ行ってやらねばならぬ。ギンコは九重に言われていた通り、蟲の力を借りて蟲箱を背負う代わりに、その蟲のために、用がなくとも雪の降る地へ時々滞在した。
蟲箱師の九重は蟲の言葉を判る。そうして欲するを聞いて、約束を交わす。その約束を守れる蟲師があれば、それを選んで、その者の体につけるのだ。それが蟲師の箱を作る、ということ。
九重の手が、さらに、ぐ…と奥へと進む。蟲を指先で捕えながら、彼は思っていた。ギンコの体のことだ。
以前はもっと乾いていて、もっと冷えてた癖しやがって…。
こいつの体の、いいや寧ろ心の…何かが変わった。
その割、蟲ども、こいつのこの体に、居座りたがってるものもある。
「おら、何か噛んどけ。根ぇ張ってるものもあるで、ちぃとな、無理に引き剥がす」
噛むもの、なんぞどこにも無くて、ギンコはとっさに自分の手首を噛んだ。九重の指が触れているのは背中なのに、あらゆる箇所を弄られでもしているように、ぞくり、と全身が泡立った。
「ふ…、ぐ、ぅう…ッ、あぅっ…」
ほんの一瞬のことなのに、意識はゆるりと遠くなった。
「ぁあ…ぁ…」
ぃ…っちまった、と何処かで判って、小さく膝をもがかせるが、全身からは力が抜けて、ほんの少しも動けない。ギンコは体を横へ向けるように、ずるりと姿勢を崩して、白い髪に隠した頬は、滲んで零れた涙で濡れていた。
気を失ったギンコの傍に、九重は立って、彼の内部を探った片手の周りに、青く光る小さなものを幾つも、まといつかせている。その光はゆっくりと消えて、やがては見えなくなる。
ギンコの意識の無い顔を、九重は眺めた。眺めてそれから、ふい、と背を向けて、岩の窪みにあるランプへと手を伸ばす。
ランプの上蓋を持ち上げると、そこには殆どが焦げて燃えてしまった何かの草。強く息を吹きかけて取り払い、ついでその火へ手をかざすと、弱弱しく揺れていた炎は、吸い取られるように消えた。
* ** ***** ** *
ギンコは薄っぺらな布団の上で寝返りを打った。安宿の布団と似たようなものだったから、違和感は感じていない。ただ、閉じたままの瞼の外に、水の色の光が幾つも、揺れながら上昇するのを感じた。
まるで日の差す水の底で、水の泡が光るのを見ているようで、綺麗だ…と、思っている。
「…ほぉ…。広葉の多い山を越えゆき…その向こうの、海の…」
誰かが誰かへ話す声が聞こえる。
「海里だとて…? それほど何度も行くんなら、そこに馴染みの蟲がいいか。そりゃあ、そうだろな…」
髪に誰かが触れた。そのままくしゃりと混ぜられて、ギンコはやっと目を開く。傍らに座して、見下ろしている顔は九重。起き上がれば、彼は上半身裸のままだった。
「お前に合う蟲、探しに出る。暫し共にな、案内しろ、お前のイロんとこに」「……な、に…言って」
起きるなり言われた言葉に、ギンコは絶句した。
「イロだ。情人(イロ)。気付かれんと思うてか? 蟲が教えてくれようでな。俺の蟲箱背負うているんなら、隠し事なぞ出来ると思うな」
「こ、九重、人嫌いだろ。一緒に旅なんか…。人のいるとこ、避け続けてなんて、無理だぞ。それでも行くってか?!」
「…あぁ、嫌いだ。虫唾が走りよう。だが、構うな。俺はお前以外とは喋らん。嫌だいうんなら、お前に蟲はやらんぞ」
そう言われては、ギンコは断れない。脱いだままのシャツを引き寄せ。頭から被って、胸や腹を隠す。夕べ、体から蟲を引き抜かれたせいなのか、酷く寒い気がした。どちらかといえば、冷たい性質の蟲だったはずなのに、不思議に思う。
「箱の中身は其処だ。枠はもうばらして、そっちに残ってた蟲も抜いた。おら、さっさと抽斗をまとめて持て。旅に発つにゃ、いい朝だ」
見れば抽斗がばらばらに、岩の上に置かれている。それらを取り出した後の外箱は、もう跡形もない。幾枚かの板と、革紐とに分けられて、それがすでに紐で括られていた。解体された箱を見ると、ギンコは何故か少し心細い気持ちになる。
「…今はそんな顔、余所でもするのか? お前」
ぽつりと、九重がそう言って、返事も求めぬように、ぷい、と顔を横へ向け、あっと言う間に蓑やらをまとう。そうしてまだ支度の整わないギンコを置いて、先に洞を出て行った。
九重は、人嫌いだ。昔、気まぐれに語った彼の過去を思えば、それも無理の無いことと、ギンコは思っている。過去を忘れてしまったギンコへ、九重は、どうせロクなもんじゃないから、思い出すな、と、そうまで言った。そんな気持ちを傾けるように、彼は蟲を愛でるのだ。
ギンコは九重を待たせながら、抽斗の一つ一つに紙で蓋をし、紐で括って、その紐にはすぐ判るようにと、それぞれ印をつけた。それを大きな布袋に詰め込んで、なんとか肩の上に背負うと、木箱を背負うのと勝手が違って歩きにくいが、仕方ない。
「行くぞ! ギンコ」
「あぁ、やっとなんとか…。今行く!」
洞を出ると、眩しいほどの日差し。草を掻き分け、枝を避けながら、二人は共に行く短い旅を始めたのだった。
続
これが書きなおし版の二話目。もう少し書き溜めてあります。随分前に書いたので、執筆後の言葉もないという。えへへ。
10/02/09執筆
