若い女の声が聞こえた。それから化野の声も。

 ギンコは、障子を開け放った部屋から外を見て、近付いてくる人影を見る。聞こえた通りに、化野と、そしてあまり見た事のない若い女が、こちらへ向ってくるところだった。

「さ、手を…」

 また化野の声。気遣うような、少しかすれた声を出して、ギンコの視線の先で、化野は女の手を取っている。優しげに手を引き引かれして、二人はヤケにゆっくりと坂を登ってきた。

 垣根の向こうで立ち止まり、化野は女の前に立って、少し言いにくそうにギンコに言うのだ。

「あー…着いたばっかりのとこ、悪いんだがな。半時ばかりでいいんで、外に出てて貰えるか」
「…ああ、別に、構わんよ」
「すまんな」

 ギンコは、そのとき手にしていた紙切れを、くしゃりとポケットの中にしまい込み、木箱を持って部屋の奥へと入った。家の中を通って、裏口から外へ出て、戸を閉める時に、中からまた声が聞こえる。

「旦那はまだ、気付いてないのか? …そうか。そろそろ気付きそうなもんだが」

 女が何か言ったようだが、その中身までギンコには聞こえない。でも、化野の声だけは聞こえてしまう。

「旦那が気付くまで言わないでいたいと言うなら、俺もそれまで黙っとくよ。じゃあ…また、少し、触ってもいいかな…」

 わざとではないが、足を止めてしまっている自分に、ギンコは気付いた。手を掛けたままの戸には、まだ隙間があいている。なんとなく、どちらも少し含み笑っているような、化野と女の声に、ふっと体の力が抜けていきそうな…。


 往診に出る…とか、言わなかったか、さっきは。
 ほんの数時間前、ここに着いたばかりの俺を放って、医療具を持って家を出た癖に、戻った途端に、今度は外へ出てろってか…。

 ああ、違う…。患者優先なのは当然だ。そうである化野だからこそ、好ましく思うのだし、今だって、患者を第一に考えて、ああして真剣に診察とか、治療を…。


『旦那は気付いてないのか?』

『また、少し、触っても…』


 ギンコはぐるぐると考えながら、ふら付いたような歩き方で、裏山の道を歩いた。さっきまでは、全然別のことで悩んでいたってのに、もうそんな事は忘れてしまっている。


 手なんぞ引いて…。
 なんか、随分、優しく笑ってたじゃないか。
 お前、俺の手を引いてくれたことなんか、一度も…。


 馬鹿げていると判っているのに、ギンコはそんなことを思ってしまうのだ。目的もないのに、ただ山道を歩いて、このまま暫くいけばこの里を去る道に出る。

 立ち止まって、煙草を出して、それに火を点けて大きく吸い込んだ。集まってきていた僅かな蟲達が、彼の吐き出した煙に追い払われて消える。煙草を挟んだ彼の指は、小さく震えているのだった。


*** *** ***


「ほんとに送らなくて平気か? 今、転んだら大変なんだから、ゆっくりな。ゆっくり」

 そう言って女の背中を見送ってから、化野はぽりぽりと頭を掻いた。喉が渇いていて、無性に水が飲みたい。その渇きの訳を判っているから、彼は井戸のある裏の方へと抜けながら、見渡せる限りの風景をぐるりと見た。

「ギンコ」

 名を呼んでも、返事は聞こえない。散歩がてら、ぷらりと山へ入って行ったのかもしれない。ほんの半時と言ったのに、何もそんな遠くへ行くこともなかろうが、と化野はブツブツ言う。

 井戸の脇へ行って、冷たい水を汲み上げて、柄杓一杯を軽く飲み干す。それだけでは渇きは言えず、さらに一杯飲むが、それでも化野は渇いていた。

「おぉい…ギンコ…」

 井戸の縁に腰を乗せて、その場にいない相手の名を呼ぶ。手のひらがなんとなく熱くて、彼はまた頭を掻いた。


 まあ、そりゃ、医者だからな。
 誰の体だって診るし、触るけどな。


 そんな事を口の中で呟いて、化野はくたりと首を垂れる。草履を突っかけた自分の足を眺めつつ、彼はごくりと喉を鳴らした。


 けど…仕事関係なく、触りたいのはお前だけだし。
 仕事中に診た女の肌で、お前の体、思い出しちまうってのは、結構…重症だ。


 だから水なんか飲んでも仕方ない。渇いているのは自分の中の気持ちのせいで、飢えているのはお前の存在だけに、なのだから。

 臓腑の底から搾り出すような、深い溜息を付きながら、化野は家の中に戻ろうとした。戻って夕餉の支度をして、ギンコが戻るのを待つのがいい。

 どうせ遅くとも、あと一時もすれば、ギンコはここに戻るのだから、姿も見られるし、話も出来るし、それに夜になったって、昼間ここに来たばかりのギンコは、まだ傍にいてくれる。


 傍に。
 手が触れるくらい傍に。
 息が掛かるくらいに、
 重ねた肌に、隙間のないくらいに、傍に。

 
 戸口の外に、何かが落ちていた。踏ん付けてしまってからそれに気付いて、化野はその紙切れを拾い上げる。何の気なしに表に返して、書いてある文面を、彼は見たのだ。



前略 ギンコ殿

妻が身ごもった旨 取り急ぎお知らせ致します
あの日 妻が貴方様より授かった種が
こうして子になってくれたのだと
妻はとても喜んでおります

事情が事情である為 夫たる私は
心安らかでばかりおられずにおりますが
妻の笑顔がまた見られることは
何にも変えがたい幸福

これも皆 貴方様の情けあってのことと
今また こうべを垂れる思いです

生まれ来る子を
貴方様には見て頂かないわけにはいきませんので
どうぞ近々お立ち寄りくださるよう
お願い申し上げます

                草々



                                続











 病気、です。
 誰が? 私です、今コメント書いてる女です、惑い星ですよ!
 
 持病がふたぁつ。ノベル短く書けない病と。書けたら即アップしたい病。はい、判ってます、仮オープンから一周年記念で2/5アップ予定の、短く書き上げるべきフリーノベルですぅ〜。

 皆様、ご愛顧ありがとうございます。深く御礼申し上げます。これからも頑張っていきますので! そしてこんな長文でもよろしかったら、ご自由にお持ち帰りして下さいませませ。

 て訳でして…。記念日は五日なのに、今日、四日にアップするよ。こんな約束破りは許して貰えますか?

 フリーなのに長いです! まだ記念日の前の日です! あぁん、でもちゃんと「女」で書いたから許してくれよぉー。うわーん。うわーん。うわぁ〜…。

 泣いて煙に巻くつもりの惑い星です。では、また明日。殴。
 (↓何気に一日誤魔化して日付を書く!?)


07/02/05









もつれ糸