なんだ? これは。


 たすきを外しかけた手を止めて、戸口に立ったままで、化野は唖然としていた。見ている筈の文面が、ちゃんと頭に入ってこない。


 妻が授かった「種」?
 それが、子になった?
 誰か、女が身ごもって…

 その「種」を授けたのは
 ギンコ…だと…?


 化野は家の中に入り、部屋に上がる手前の段差に、転びそうな恰好でへたり込んだ。食い入るようにその手紙を見て、両手で持って、くしゃくしゃにしかけ、寸前でそれを思いとどまる。


 待て…待て…
 ちゃんと読むんだ。
 何か読み違いだろう。まさかあのギンコが、夫のいる女と。
 しかもその夫にも関係が知れていて…
 もう赤子が産まれると?

 いや、読み違えただけなんだから、もう一回ゆっくり読めば…。でも、そもそもこれはギンコに宛てた手紙なのに、それを俺は、こそこそと読んで、ヒトとしてどうなのだ。


 そう思いながらも文面から目が離せない。どう見ても、どう読んでも、これはどこかの女に、ギンコとの子が生まれるという意味だろう。

 目の前が暗くなる心地がした。もう夕暮れだし、暗くなるのは当然だが、その宵行きの暗さを、化野は絶望と共に意識する。


 女…。女がいたのか。そう…だったのか…。

 その女は俺がそうしているように、きっといつも、ギンコが来るのを待って、恐らく好きな食べ物を用意し、それに俺が出来ないことも…。例えば、新しい服など縫って…。

 
 そんなふうに、段々と化野の考えは、あらぬ方向へと逸れていく。夫のいる女だと判っているのに、そんなもう一人の男のことなど、関係ない気がしている。気になるのは、ただ、ギンコに女がいた、という事だけで。


「何してんだ…?」

 声を掛けられて顔を上げると、小さな行灯に火を入れて、目の前に立っているギンコと目が合う。咄嗟に言葉が出なくて、震える手で、化野は手紙を差し出していた。

「あぁ、ここに落としてたか。何処で失くしたかと探してたとこだ」

 ギンコはそれを受け取って、丁寧に畳んでポケットに入れると、化野の横を通って、部屋の中に入って行く。縁側も何も開いたまま、夕餉の支度も何もされていない事に気付いて、彼は何も言わずにそれらをやり始める。

  灯篭に灯りを入れ、縁側に向う障子を閉め、肌寒いので囲炉裏にも火を入れて、その傍に座り、煙草を一本出して咥えかかりながら、彼はぽつりと言った。

「さっきの…もう帰ったのか…? 化野」

 その声が震えているのに、化野は気付かない。それどころじゃない。聞かねばならない事がある。

「ギンコっ、お前…ッ」

 掴みかかるようにして、化野はギンコに詰め寄る。責める権利があるとか無いとか、そんなものは知らない。

「お、女がいたのか…っ? 子供まで…ッ」
「……なに…」

 何を言っているんだと、ギンコは言い返しそうになった。
 それはお前の方だろう。今、それを言いたいのは俺だぞ。
 
 なのに、化野の剣幕に押されて、咥えた煙草がぽろりと口から落ちる。元々、彼の唇も指も震えていたから、その動揺を知られたくなくて、いつも通りに煙草を咥えていたのに。

 ギンコの視線が化野の手のひらに止まって、彼はちょっと笑って言った。彼自身、無意識の、少し歪んだ笑みだった。

「…式、あげるんだろう? 俺はもう今夜にでも発つし、きっと暫く来ないから祝えそうに無いが。いや、もうそんなのは済んだのか。あのひとと、いつから一緒に暮らすんだ」

 よく、そんなふうに言えたと思う。眩暈がして、息が辛くて、体の何処もかしこも冷たくて、凍えるようだってのに。押し寄せる胸の痛みに、今にも倒れてしまいそうだ。

 なのに、化野はきょとんとして、訳が判らないとでも言い出しそうな顔。眉間に皺を寄せて、彼はギンコに言った。

「式? 何がだよ? あのひとって…。昼間のこと言ってるなら、患者だぞ。腹に子がいて、週一度、具合を見せに来る」
「…は?」

 化野の目の前で、ギンコはその翡翠の色の瞳を見開いた。

「患者…? 腹に、子…って」


 でも、旦那はまだ気付いてないのか、とか。

   …身ごもってるのを旦那が気付かないって意味か。

 触ってもいいかと。

   …相手が妊婦なら、腹なんかも触って診るだろう。

 けど、あんな優しく手を引いたり。

   …坂道だし、そりゃ転んだら大変だからだ。


 自分があんなに気にしていたことが、一々、全部納得がいって、ギンコは床の上に、へたりと膝を崩す。安心した途端、化野がさっきから言っていることの意味も判って、今度は笑いが込み上げた。

「はははは…っ」
「なっ、何が可笑しいんだ」

 自分に掴みかかっている化野の胸に、ギンコは自分の額を埋めて、止まりそうにない笑いを堪えながら言った。

「綿吐きの話、したろ。この手紙は、あの時の夫婦から届いたんだよ。種ってのは、俺が綿吐きの種子だと偽って渡した、丸い鉱物のことだ。ただの鉱物が、女の腹に入ってヒトタケになる訳がないんだから、身ごもったっつったって、それは旦那との子だろうよ」

 そうしてまた、ギンコは声を立てて、ひとしきり笑う。心底、楽しそうに目に涙まで溜めて。彼は腕を伸ばして、化野の背中を抱き締め、片頬を化野の肩にすり寄せて、小さな声で言った。

「間違っても、俺の子じゃない。俺はお前以外、誰とも肌を重ねたりしてないんだから」

 抱きつかれて、頬を寄せられ、珍しく甘い声で言われて、化野は一度だけ聞き返した。

「ほんとに…?」
「何処を聞いてるんだ?」

 手紙にあったのが、確かにギンコの子じゃないってとこか。それとも化野以外とは、しないというところか。

 化野はギンコを囲炉裏端に押し倒して、そのまま深く唇を吸った。抵抗無く口を貪られて、おずおずと舌を差し伸べてきながら、ギンコは涙の雫を一つ零す。

 笑った顔に零れた涙は、女のことを誤解して辛い間に、ずっと堪えていた嫉妬の涙。今は喜びのそれに変わった雫。

 口づけをして、口づけをして、口づけをして、その一瞬の合間に、ギンコは浅い息遣いに混ぜて何かを言った。そして化野もすぐに、そっと返事をする。

 二人の心の奥にもつれていた糸が、すんなりと解けていく。そんな感じがした。

 二人にとって、たった一言ずつのそんな言葉が、どんな熱い告白にも勝る、大切な約束の言葉になる。また、糸が絡んだら、その時はきっとどちらかが言うから、言われたらそうやって返してくれ、必ず。



 お前…だけだよ
 
 …俺もだ




                                 終

 

 






 
 甘党の方〜! 私はどっちかっていうと、辛党ですっ。でもこの甘い化×ギは、中々の味付けかもしれません。記念すべき「一周年ノベル」お気に入りの一作に仕上がりまして、凄く凄く嬉しいです♪ これも来て下さる皆様のお陰ですっ。
 
 本当の一周年は、二月二十六日なので、トップ壁紙とか、そんな変えたりしませんが、よろしかったら、何かお気に入りの飲み物など入れて、惑い星と一緒に、お祝いして下さいませね。

 フリーなので、お持ち帰り自由でございます。やっぱり長いけど…。へこー。

 また執筆後日記を後で書きますので、そちらもよろしかったらどうぞ、読んでやって下さいませませ。


07/02/05

もつれ糸