かちゃ かちゃ
洗って消毒した薬皿を並べながら、整えて丁寧に棚に収めながら。化野の心はずっと何処かへ漂っていた。
皿は沢山ある。何か手伝いたいと言った彼に、老医家は有り余るほどの薬皿を示した。埃をかぶったそれを、ひとつひとつ綺麗にし、乾いた順、種類ごとにもう一度選り分けて、棚にしまう。それが済んだら今度は、薬棚の小さな抽斗を、一個一個取り出しては、開いたその奥の埃を拭き取る。
殆ど頭を使わない作業だった。だからずっと考えていた。自分がいったい、何ものなのかと。
あの山間の里で、
古びた綿入れを大事にしていた夫婦の子。
海沿いの里の"化野"の名を持つ医家。
蟲患いで、随分前に死んでしまった男の、子。
考えるまでもなく、綿入れを持っていた夫婦の子なのだと思っていた。今だって、それが事実だと理性では思っているのに。
『あだしの…』
ギンコの声が聞こえた。けれど聞いたこともない声だった。甘えるような、かすれた声。頼るような、縋るような。あぁ、けれどこの声を知っている。いつもいつもギンコが、喉奥に隠して聞かせない様にしているのが、きっとこの声…。
ほんの時々、ギンコの声の端にだけ零れて響く、恋しがるような切ない音。息遣い。想い。
知りたい、知りたい。
すべての意味を。
理由を。
どうしてギンコが、赤子だった自分を育ててくれたか、どうして自分が、この姿なのか、この名を付けられたのか。どうして、こんなにもギンコが好きなのか。知りたい。聞いて、答えが欲しい。ギンコは…
がちゃん…っ。
音がして、目の前で薄皿が一枚割れていた。焦って手を伸べると、白いその割れ口に赤い色が付く。
「あぁ、怪我を…!」
「す、すみません、皿が」
すぐ傍に人がいたなど気付いていなかった。つづらが化野の手を取り、消毒液の染みた布でさっと彼の指を拭き、軟膏を付けてくれている。処置を終え、つづらは化野の顔を見てこう言った。
「ずっとうわの空だ。それと分かって先生がこの手伝いを頼まれたのだから、構いはしませんが、怪我には気を付けて」
やんわりと笑む顔に、若さに似合わぬ穏やかな所作に、心が頽れそうになる。
「どう、しました…?」
「俺と同じ名の、あ…あだしの、って人のことを、つづらさんも知っているんですか?」
問われたつづらは首を横に振って、けれども、本当に何一つ知らないわけではないようで。
「亡くなってもう15、6年も過ぎているのでしょう? 会ったことは、勿論ありません。でも先生が何度か、懐かしむように口にされたことは覚えています。それを、知りたいのですか…?」
「…わかりません、俺には」
視線を逃がす化野に、つづらはつと立って、一杯の茶を入れてくれた。
「どちらにしても、私は多くは知りません。先生から聞いたことでよければ、お話しましょう。聞いてもしもお嫌だと思ったら、その時は止めればいい」
熱い茶を、惜しむようにゆっくりと啜りながら、途切れ途切れのつづらの言葉を化野は聞いた。自分と同じ名で、けれど少しも知らぬ人のこと、もうとうに、この世にはいない人のこと。
学びに誰より熱心で、これと決めたことであれば、
寝る時間がなくなろうと、体に無理が掛かろうと、
終いまで遣り遂げようとする、相当の頑固者で。
先生の教えを覚えることで精一杯の筈なのに、
奇妙や珍奇が滅法好きだったらしく、
変なもの、おかしなことがどこかであったと聞けば、
目を輝かせてどこへでも飛んで見に行ったと…。
ことに「蟲」というものが好きだったそうですよ。
目には見えない、異なる命。
そしてその蟲の故に、若くして命を落とされた。
それから数年もたったのち、先生はその報を知り、
我が子のことのように悲しまれたのです。
結局は化野はつづらの言葉を終わりまで聞いて、そして何も言わずに唇を噛んだ。そんなふうに学ぶ人は、きっと立派な医家になったのだろう。まだ学び始めてもいないような自分とは、少しも似てなどいないのだろう。
蟲師という生業は、人にあまりよく思われないものだと聞いたことがあるけど、その人はそうじゃなかったのだ。その人はギンコを、ギンコはその人を、きっと誰より大事に思って…。
彼が居なくなってから、その身代りを求めてしまうほどに、ギンコはその人のことを。
「俺、なんか…」
食い縛った歯の間から、零れた言葉はそれだけだ。脳裏に浮かぶギンコの姿が、霧の向こうにいるように遠い。
その人と俺が似ているのは姿だけ、そして名前が同じなだけ。この名は、ギンコがくれた名なのに。それが今は悲しかった。どうして似ているかなんて、そんな理由、わかったって何にもならない。理由はどうでも、ギンコは自分を見てくれているわけじゃ、ないのだ。
「化野さん」
つづらが彼の名を呼んだ。彼のものであり、彼のものではないその名を。それでもずっとギンコが自分を、そう呼んでくれたから、化野は顔を上げてしまう。
「あなたは医を学ぶのでしょう…?」
「………」
化野は何も言えなかった。それすらも、ギンコの傍にいる為に決めたことだったからだ。つづらもそれ以上何も言わなかった。
かちゃ、かちゃと薬皿を重ねて、両手で丁寧にそれを持ち、静かに棚へと収め。片付けを終えて、つづらが振り向くと、老医家の休む部屋の前、畳の上に、いつのまにか古びた書が数冊。彼はにこりと笑って、指示がなくともわかったように、化野にそれを手渡したのだ。
「医家になることは、この手で万人を救う可能性を開くと言うことです。万人の中には貴方に名をくれた人も含まれる。その人のことが、今も大事なのでしょう? ここにいる間は勿論、旅を続けながらでも、いつでも、学ぶことは出来ますよ、化野さん」
大事でない筈がない。待つしかなかった幼い頃から、ずっとずっと心で追ってきた。大切だからこそ、今こんなに苦しいけれど、その苦しさから逃げて想いを消したいわけじゃない。
「…お借りします。ありがとう」
化野は項垂れていた顔を上げ、老医家にも礼を言いに行った。深く深く笑んで、けれども化野の顔を見ることはなく、医家は化野の足のことを気遣ってくれた。ギンコが迎えに来るまで、少なくともあと七日。驚かれるぐらい沢山のことを学んで、きてよかったのだと思ってここを去れるようになっていよう。
まだ痛んでいる心から目を逸らし、化野はそう思うのだった。
その日は薄曇りで、かえって遠くがよく見える日だった。庭の掃除をし終えて、腰を伸ばした化野の目に、遠くの白がはっきりと映る。まだかなり遠いけれど、あの姿はギンコだと、彼には分かった。そして化野は、常に整えてある荷物を持ち、急ぎ老医家とつづらに礼を言う。
畳に膝付き両手をついて、深く頭を下げて礼を告げた。それから別れも告げると、すぐに道を駆け出した。持ちものが荷の中で跳ねている。
今は走っているのは、ギンコに早く会いたいからもあるけれど、本当はそれだけじゃない。この家に。"化野"を知る人のいるこの場所に、ギンコを近寄らせたくないからだ。
必死になって、随分走った。それであの家が道の向こうに消えた頃、それでもまだギンコの姿は遠かった。ようやっと表情が分かるか分からないかの距離が、まだあって。
化野は足を止め、下る斜面の途中から、呼び声も立てずに彼の姿をじっと眺めた。
胸の奥が、痛くなる。鼓動が背中へ突き抜けて、体は熱くなるよりも寧ろ、きん、と冷えていくかのような。見つめたまま瞬きが出来ず、彼は無言のままに思うのだ。
好きだ。こんなにも、好きだ。
この想いは止めようがない。
きっと死んでしまうまで、
いいや…。
死んでもずっと想っていく気すら。
静かに、彼は笑んだのだ。その笑みと同時にギンコが化野に気付いた。遠くで足を止めて、訝しむような目をして、ギンコは化野を目の中に映す。見えない揺らぎが、確かにあった。
あぁ、今も。
その人のことを思い出しているんだね、ギンコ。
俺を通り抜けて、
この同じ姿の別の人を見ている、その目。
残酷な、翡翠色の目。
不思議と、心は静かだった。老医家の家にいる時は、何度も夜具で泣いたのに、ギンコの目の中に自分が映る喜び、また声を聞き、また姿を見れた喜びの前で、悲しみは霧のように無力で、ただひたひたと化野を浸しているだけだ。
「ギンコ」
「なんだ。その老医家の家はこの先と聞いたから、そこまで行くつもりだったのに」
「うん、この先を行ったところに庵があるよ。とても立派な人だった。滞在させて貰ってる間、いろんなことを覚えたよ、ギンコ。本当に、いろんなことを、知ったんだ」
そう伝えれば、ギンコは少し不思議そうな顔をして、それでも何も気付かずに。
「なら、ずっとここで医術を学びたい、とは思わなかったのか? 大層腕のいい医家だったって話だから、俺と日々を流れ暮らすよりも、ずっとお前のために」
「思うわけ、ないよ、ギンコ。俺はギンコの傍にいるんだ」
と、そう化野は言った。言うと同時に確信している。ギンコはあの老先生を知らない。きっと会ったことも無い。俺が知ったことを、俺自身が口にしなければ、ギンコはずっと気付かない。
笑って。化野は笑って、ギンコのもっと傍へと駆け寄った。
「十日ぶりだ、ギンコ。会いたかった」
ギンコの見開いた目が、どうしてか悲しげに翳った。
続
眠い。しかも今日も外出してたりして、雪掻きもして、ちょっと時間足りなかった。のは、別のことをしていたせいもありますけどもねっ。
苦しんで傷付いて悩んで、化野は一歩一歩強くなる。けれどギンコは既に心が満身創痍だから、今以上には強くなれない。必死になって強がることはあっても、そんなものは偽りなのですよ。化野のけなげさが、今回は痛かったですが!
そういうわけの潮彩8話、お届けしますっv
14/03/09

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