かた、こと。小さな音がする。
あぁ、またなんだね。寝返り打つより身を起こして、化野は既に出立の準備を終えたギンコを見た。ギンコより早く起きようとしても、いつもそれよりも早く目を覚まして、既に起き上がっていることが多い。まるで、寝顔を見られたくないみたいだ。そんなことを、ふと思う。
今日は安宿の粗末な部屋で目覚めた。捻挫は治ってきたけど、傷の方の痛みがしつこく残っていて、ギンコは何も言わずそれを案じてくれている。
「おはよう、ギンコ」
「あぁ」
「相変わらず早いね。すぐ支度するから」
言葉通りに荷物に手を伸べて、綺麗にまとめてある中身を今一度確かめる。
「…まだ、足が痛むんだろう。地図をここに」
素直に地図を取り出し、床に広げた化野の前に、ギンコの白い手が伸びて、一点を静かに指差す。
「ここへ行け。名の知れた名医が住まうと聞く。山ひとつむこうだが、足の具合と相談しながらゆっくり向かえばいい」
化野の目が、地図からギンコの顔へと静かに向く。何も言わない。言わずに問う表情で、その眼差しが刺さるように雄弁で。
「…急ぎの仕事の依頼が入ったんだよ。怪我人を連れて向かってる余裕はない。手遅れになる」
ギンコは上着の何処かから、小さな紙片と竹筒を出す。紙片は随分薄い紙で、細かい字で書かれたふみだ。内容をざっと読ませて貰っている間に、ギンコの手元の竹筒が、コトコトと小さな音を鳴らした。
「それ…何か、生き物が入ってるの?」
「ウロっていう蟲だよ。俺ら蟲師がふみのやりとりに使ってる。…あんまり興味を持つな。使い方を誤れば、どこぞの戻れん場所に引き込まれちまう。蟲の扱いってのは、生易しくなんかねぇんだよ」
釘を刺しながら、竹筒から取り出した繭、その中からまた取り出した薄い小さな紙片。化野にも見えるように膝上で、ギンコはそれを読む。早く来てくれと急かす内容。なにとぞお救い下さいますよう、と、祈るように締めくくられた文面だ。
「わかった…」
化野は不安なのだ。そんな気持ちにさせるようなことを、何度もしてきたことをギンコも分かっている。噛んだ唇の隙間から零すような彼の声に、ギンコはため息を一つ落とし、もう一度地図の上に指を置いた。
「名医だと言ったろ…? 俺が仕事を終えて迎えに行くまで、学べることの一つでもあれば、医家を目指すお前の為にもなるだろう」
「…うん、わかったよ。ギンコも気を付けて」
待つのは慣れてる、息だけでそう言った言葉に、ちくりと刺される。その痛みから目を逸らして、ギンコはすぐに出立した。順調にいけば、行って戻って十日はかかる道のりである。
「すみません、あの」
そこへついたのは夕刻だった。古びた庵の木戸を開け、庭の掃除をしていた男に化野は声を掛ける。箒の手を止め、顔を上げた姿は二十歳を過ぎたぐらいか。作務衣のような動きやすい着物で、足音軽く化野の目の前までやってきた。
「旅の方ですね。どうなさいました、お怪我か病でも。ここは医家先生の住まいですから、もし体の御不調でしたら何なりと」
縁側の方へと案内され、明るく柔らかなその応対に、化野は緊張を解いて足の怪我のことを話した。そののち、盥で丁寧に手を洗い、手当ての道具をそろえるその男に、不遜かと思いつつ声を掛ける。
「先生は今、いらっしゃらないんですか?」
「いえ、そちらの奥の間に。御歳が御歳ですから、休んでおいでなのです。先生に診て頂きたければ、今」
「あっ。いえ、すみません。とても立派な方だと聞いたので、少しでもお話を伺えたらと、そう。俺も、いつかは医家にと、思っていて…」
男は目を細め、先までよりも親しげな笑みになる。
「そうですか。では同じくを志す同胞だ。わたしは"つづら"と申します。身寄りがないので、先生に頂いた名ですが。あなたは?」
「あ、あの…化野、と」
一瞬、ほんの一瞬だけ、つづらは表情を止めた。それは人を呼ばう言葉ではない筈と、そう思ったのかもしれなかった。化野本人ももう、この名の持つ意味は知っている。多分、ギンコがつけてくれた名である筈で、そうでなければ、この名を厭うていたかもしれない。
「俺も、大事なひとに、つけて貰った名前です」
「…そうですか、意味深い良い御名だ。お待ち下さい、やはり先生に」
襖一つ向こうの部屋に、つづらは一度入って行き、戻った時には白髪の老人の体を支えていた。髪も髭も眉も真っ白な、どこか仙人めいた姿だったが、支えられながら化野の姿を見、ようよう目の前に坐してこう言った。
「名を"あだしの"と言うと…?」
「あ、はい」
「この年よりはもう、目も耳も老いておっての。もう少し、こちらへ寄って下さらんか。顔が見たい」
どうしてだろうか、その時、化野の鼓動が激しく鳴り出した。ここを逃げ出したいような、目の前の老人に、自身をよく見て欲しいような、相反する感情が胸の奥で荒れ波の如く揺らぐ。けれど後ずさりすることも出来なかった。皺深い手が伸べられて、髪に、頬にと触れてきた。
「…おぉ、よく似て…。こんなことがまさか、あろうとは…」
似てたか、と、問われたことを思い出す。
これはギンコの声だ。
震えるような、かすれた声で。
「なん…」
あの時のギンコのように、今は化野の声が震えている。止めようがない、けれど理由もわからない怯え、怖さ。そして逃げたさ。年老いた医家は、白い眉に半ば隠れた目で、じっと化野を見ながら、こう、言ったのだ。
「…お前さんの父御を、儂はよぅく、知っとるよ」
今度は耳鳴りが、する。
いいや、これはそんな刺さるような乱暴な音じゃない。重なり重なりどこまでも優しい、海の音。波の声。
あぁ、けれども。
なんのことだろう。なんの話だろう。知っちゃいけない。知りたい。知りたくない。怖い、あまりにも怖ろしくて、声が出ない。息が苦しい。目を逸らせない。
向けられている慈しむような眼差しは、自分を通して誰かを見ているように思えた。こんなことを、何度も経験しているような気がする。ここのところずっと。でも、それはこんなものじゃない。もっと、もっと、深くて甘くて、痛い。
そんな眼差しで、俺を見るのは…。
これ以上はないほど、老医家の声は静かだったのに、どんなに罵られ、謗られたとしても、こんな思いはせずにいられると、化野は遠く思っていた。
「のぅ。子を生していたとは知らなんだが。そうじゃ、良い弟子じゃった。そうして良い医家になった。お前さんと同じ名での。じゃが、十年、もう…十五年も前になるのか、あの長閑な海里で、病で、死…」
「…ひと違い、です」
遮る声。やっと逸らされた目。そんなに前に、もう居ないのなら、違う。だって俺の二親は、山間の里であの綿入れを大事に大事に暮らしていた。あれは、ほんの数年前のことだ。
「俺の両親は、生きてます。故あって、もう会わないでしょうが、きっと今も、あの山里で、生きて」
この人の言うのは、あの時会った人のことじゃない。妻を庇うばかりに、化野のことをどこか責めるように見た、あの男の顔は、けれど自分と似てなんかいなかったのだ。
だから。この「人違い」は。
化野の父である筈のあの男と、この老医家の記憶に住まう「化野」とが、別の人間だと言う、それだけで。
だから。居るのだ。
いや、もう居ないとしても。居たのだ。「化野」という名で、化野にそっくりな。海里で、医家をしていた男が。
そう…。ギンコがじいちゃんやばあちゃんに、告げていた嘘は、どんなだった? 一度聞いたきりなのに、どうしてかはっきりと覚えている。胸に刻みつけられたように、覚えている。
拾った赤子だと言わずに、
親友の忘れ形見なのだと言って、
ギンコは俺のことを、
大切に大切にしてくれた。
だから。
だから、いったいどうすればいいのか。頭の中が、滅茶苦茶になってしまった。初めて知ったことが、今まで思ってきた全てのことを掻き回して、ひっくり返して、何を、何から、考えていいのかが分からない。
「…そうか、の」
ぽつり、聞こえた言葉は、老医家の声だった。化野の髪をもうひと撫でして、今一度化野の顔を覗き込んで、笑む。淋しげに、深く。
「何しろ儂の目も耳も、もうよく働いてくれんで。化野、という名を持つ教え子が、儂には居ての。もうこの世には居らなんだが。居のうなったことさえ、後で知れたことじゃのに、思ったのじゃよ。儂に手の終える病じゃったら、必ず、必ず救うたに…と、な。じゃが…聞いたことには、」
蟲 患 い で、逝ったと。
「…知っておっても、お手上げじゃったと、悲しいやら悔しいやらでのぅ。ま、己で救いようがあった筈じゃのに救えなんだら、それ以上に辛かったかもしれん…」
目を見開き、化野は老医家を見ていた。もうこれ以上何かを聞いたら、頭が割れてしまうと、そう思いながら、それでも見たのだ。皺深い顔の、白い眉の半ば影、その目に涙が光っていた。
今、この人が話しているのは、ギンコの…ギンコに、関わることじゃ、ないのだろうか。もしもそうなら、様々が重なるような気がした。
びく、と、その時、化野は体を跳ねさせた。知らぬ間に手当の準備が整い、老医家が手ずから、彼の足に膏薬を塗り、老いたる手とは思えぬほど手際よく包帯を巻く。たった今の事が、まるで無かったように、普通の、当たり前の患者に接するように、言葉が掛けられる。
「怪我は大したことはない。腐たれた草の毒ゆえじゃ。元々よう手当てがされておるが、病むのはもう暫し続くじゃろう。何もないあばら家じゃが、ゆっくりしていくがいい」
若い弟子に支えられ、襖一枚向こうの部屋にゆく前に、老医家はもうひとつだけ聞いた。
「……医家を目指すのに、何か、故はあるのかの」
「それは、大事な人を守れるものになりたいと、そう、思ったからです」
するりと零れた言葉で、老人を支えながらのつづらが言った。
「あなたに、その名をくれた人のことですね」
「…はい…」
老医家は今一度化野を見た。そして自身の越えた襖の向こう、閉じられる寸前に呟いた。独り言のようなその声は、殆ど聞こえなかったけれど、多分、こう言ったのだろう。
分からぬことがあろうと、
大事なものが大事であることに、
なんの変わりもありはせん。
続
また味のあるオリキャラを出してしまった…。後悔はしていない。
つづら、という名前は「葛篭」でして、ものを仕舞っておく道具ですよね。人を病や怪我から救うに、覚えなければならんことは沢山ある。それを大切に携え、必要な時に取り出して、それ以上に沢山の人を救える良い医家になりなさい、という意味で付けた名前らしいですが、どうでもいいですね?
や、それにしても話がややこしいです。化野の感情も、他の色々もっ。書けば書くほどややこしくしてないかい? 参ったな、どうしてこんなに複雑なんだ、って言っちゃいますよ、もう!
でもこのシリーズ大好き! 頑張ります、これからもっ。
14/02/23
