鳥の声で目を覚ました時、ギンコは木箱を机代わりに、何か書きものをしているようだった。ふみ、だろうか。今ふみを書くとしたら、誰に宛てて書くのかなどと、考えずとも分かる。
「何を、書いてるの、ギンコ」
「ふみだ」
「誰に出すの? 俺…っ」
俺、帰らないよっ。
すぐ連れて帰る、なんて書いて、
じいちゃん達に出したってっ。
そう言おうとして吸い込んだ息が、ふと目線を上げたギンコの眼差しで、止まる。静かな目だった。なんの心も見えないような。吐息を一つ零し、書き終えたふみを、ギンコは化野に見せた。化野はそれを手に取って、短いふみであるのに関わらず、穴の空くほどよく見て安堵する。
無事に見つけた。
今は共に歩いている。
またそのうちに、
元気な顔を見せに行くから
どうかもう案じずに。
たった、これだけかと思うような簡素なふみだったが、ちゃんと二人が安心できるように、これ以上心を痛めたりしないようにと、気遣いに満ちた言葉だと思えた。ふたりの顔が浮かんだ。ごめん、と心で思った。
「…ありが、とう…」
「何が」
「う、ううん。あの…。じいちゃんばあちゃんが、心配しないよう気にしてくれて」
当たり前だ、そんなのは。ごつ、と頭を一つ張られて、やっと化野はぎこちなく笑んだ。そうやって笑んだ顔から、ギンコはやんわり視線を外す。ぽつり、小さく問う声が、何故だかかすれていた。
「似てたか…?」
「え?」
「両親と、お前の」
そう問われた化野は困ったように、一生懸命考える。脳裏で記憶を引き寄せるが、もう数年前のことだし、そもそもあの時は、早くここから逃げたいとそればかりで、万が一にも気付かれないように、項垂れていたから。
「よく…覚えてないけど、似てるって思った覚えはないよ。でも、どうして?」
「…別に」
言葉少ななギンコの顔を、化野はそっと横から覗き込む。薄っすらと、消えてしまいそうな笑みを、浮かべているように見えた。不思議な眼差しだ。何かをゆっくり、諦めようとしているような。帰れと言われるのは、ずっと嫌だったけど、でも…。
「ギ…」
「腹ごしらえしたらすぐ発つぞ。早く食え。俺はもう済ませた」
「う、うん、わかった。どっちへ行くの?」
「さぁなぁ、波間に漂い出した舟と同じだ。特に依頼を受けてなきゃ、足が向くまま気が向くまま、蟲の多い土地は速く通り過ぎ、少ない土地をゆくときは、少しゆっくり歩いたりな」
「ついて行って、いいんだよね…?」
懸命に干し肉を齧りながら、飲み込みながら、化野は恐々そう聞いた。ギンコはまた、何も浮かべないような顔で化野を振り向いて、淡々と言う。
「…どう思ってるかしらんが、立ち止まれない旅は、そう簡単じゃないぜ? 無理だと思ったら、そんときはお前を待ってるあの里へ帰るんだ」
「嫌だ…っ」
「…そっちはそう思ってても、足手纏いをいつまでも連れ歩く選択肢は、俺には無いんだ。駄々こねてねぇで、とっとと喰え」
冷たい、と、一瞬は思った。でも言われるままにそれを聞いて、ずっと見つめたままでいたら、片方きりしか見えないギンコの目が、揺れていることに気付いた。痛いのは、ギンコなんだね。理由がわからなくとも、そう思って、それが真実なのだと言うことも分かった。
「これでも一年、ひとりで旅して来たんだよ、俺」
わざと怒ったように言って、荒っぽく荷をまとめた。草鞋の紐を結ぶのも急いだから、歩き始めてしばらくしたら緩んできて、もう解けてしまいそうになる。前をいくギンコの足は随分速くて、今ここで足を止めて結び直していたらきっと、見失う。
化野は迷った。迷って、無理にそのまま歩いて、浮いた岩を踏んで転んでしまう。大きな音がしたのに、ギンコは振り向かない。振り向かないまま、すぐに木々の向こうに姿が消えて、足音も遠くなっていく。
待って、なんて声は上げたくなかった。そんなことをしたら、きっと、帰れと言われる。
「い…っつ…」
軽くだが挫いていて、焦る自分の気持ちを宥めて、化野はその場で応急処置をした。傷めた足首に分厚く布を巻き、曲げたり伸ばしたり出来ないように固定してから、その足にもう一度草鞋を履いた。今度はしっかりと、念入りに紐を縛って、傍の木の枝を一本払い、杖の代わりにすることにした。
荷物の中から地図を出して、今いる場所と、この道の先の地形や、水場の在り処、木こりの山小屋や、一番近い里までの距離を確かめた。うん、と一つ頷くと、杖を突きながら化野は歩き出す。
もしもギンコが、本気で俺を置いていくつもりだったら、もうとっくに置いて行かれてる。何度だってそう出来る機会はあったのに、ギンコはずっとそうしなかった。甘えるわけじゃない。ないけど、でも、俺、このまま別れ別れだなんて、欠片も思えないよ。不思議だね、ギンコ。
そんな顔しないで。
泣き顔じゃなくても泣いてる顔。
涙が無くても零れる涙。
今の俺じゃ頼りないんだろ。
そんなのよく分かってる。
だけど、
ずっとこのままじゃない。
足首は少し熱を持っていたけど、歩き続けることはそれほど苦じゃなかった。杖も要らないぐらいだったが、この先必要かもしれないし、また転ばない様にする為にも、煩わしくともついていた。山の夕暮れは早い。汗を浮かべながら、日が沈み切る前になんとか地図の水場に近付いた。
小さな小川の傍に膝を付き、汗を拭きながら思った。ギンコはもうどこまで進んだだろう。この先の山小屋まで辿り付いて、そこで一泊するのだろうか。この足だと、そこまではあと一刻は掛かる。
せせらぎで良く足を冷やして、布を巻き直したらすぐにまた歩き出すつもりだ。もしもギンコが山小屋にいなかったら、夜通しでも歩くしかない。そうでもしなきゃ、追い付けない。
水に足をつけたら、つきりと足首が痛んだ。腫れているのと逆側だ。気付かなかったが、挫いた時に何かで切ったのかもしれない。傷薬、化膿止め、持ってるけど荷物の一番底になってる。中身を全部取り出さなけりゃ。こんな傷そのままでも、きっと大したことは…。
がらがら…っ。
すぐ後ろで、いきなり大きな音がして、化野はびくりと肩を跳ね上げた。反射で荷物に手を伸ばすが、荷物と自分の間に摘み上がった、薪や枯れ葉の山が先に目に入る。そうして上から、呆れ返ったような声が。
「どうする気だったんだ? その足で休まず夜通し歩き通す、ってか? 化野」
「…ギ…ン…」
見上げた視野に、無表情にはなり切れない、ギンコの顔。
「みせろ」
「あ、う…うん…」
「足ぃ、水から出して、こっちに」
流水で冷えた化野の足首を掴み、自分の服が濡れるのも構わずに、膝の上に。腫れているのはくるぶしで、何か鋭いもので切った傷は足首の内側の方。指先で軽く撫でられただけで、びり、と痺れるような痛みが。
「痛むか?」
「す、少し…」
「…少し、じゃねぇだろ。じっとしてろ」
化野の足を静かに地面に下ろして、ギンコがそこに、屈むのが見えた。つめたく冷えた足首に、瞬間、熱いと感じるほどの熱と、柔らかな感触が。
「ギンコ…っ?!」
「動くな。短時間でこれだけ膿んでるんだ、何かの毒が入り込んでるとみた方がいい」
気持ち悪くても、我慢しろ。
そう言った言葉は、息だけで。その息が直に肌に掛かり、またギンコの唇が、化野の皮膚を小さく覆った。ぶる、と化野の体が震えた。
気持ち悪いなんて、そんなこと、ない。
でも変なんだ、息がうまくつけないよ。
ねぇ、ギンコ。これも毒のせい?
それとも、別のわけがあるの?
「が、我慢、するから、もう、怪我なんかしないようにするから、ギンコの足手纏いにならないから、ギンコ、俺…。俺さ…」
「……黙ってろ」
震える膝を止める為に決まっているけど、膝の上に置かれた手が、火傷するほど熱くて。聞こえてきたギンコの声は、何かを押し殺すように辛そうで、その理由は見えなくて。
毒草か、虫の毒なのかはわからん。
蟲の気配はしないから、
そっちの可能性はないだろうが。
これ以上膿んでこねぇか心配だが。
挫いてるのは水場のたびに冷やしながら、
しっかり固定しておけば、
安静、までは必要じゃねぇだろ。
化野の足の手当てをしてくれながら、淡々と、淡々とギンコは話す。転んだことを分かってて、置いて行ったことを詫びたりしない代わりに、怪我した化野のせいで歩みが遅れることを、責めるようにも言ったりしない。
手当てが全部済んで、今だけでも座っているように言われて、焚火も飯の支度も全部ギンコがやって。その間、化野は項垂れてばかりいた。厚く布を巻かれて隠された自分の足首を、ぼんやりと眺めてばかり。触れられた其処が、息づいているような気がする。あの感触が、今も続いている気がしてならない。
どうしよう、俺。
今夜、眠れるかな…?
ぱちっ、と。焚火の中で火の音がする。風が鳴るような、ごうごうという音も遠くから聞こえた。炎の勢いが強いのは、ここらに狼でも出るからと、用心の意味でもあるのかもしれない。揺れる炎の向こうで、ギンコも化野と同じように横になって、丸めた背をこちらに向けていた。
暫し眠れないでいた化野よりも、ずっと先まで、ギンコは起きていた。治療の為と触れた唇に、様々が思い出されるようで、あまりに苦しかったのだ。
早いとこ、俺を見限ってくれ。
でなきゃこんなの。
こんなこと。
持ちゃしねぇよ。
続
ここで「えっっ!」と思う人はいないと思うんですが、つい念を押すのは重要な点だから! 螺旋のシリーズは「ギ化」になったりしなーーーいっ。化野は今16で、ギンコの見た目年齢は、多分二十代真ん中ぐらいだと思うけど、行って三十前の若く見える感じっていうかっ。
うん、その…だから。こういうとき、きっとギンコは、化野先生に抱かれた記憶に揺さぶられるのだと思うのです。幾多の口付けや、愛撫を思い出すのです。ってそういうことは中身で書け? そ、だねv ま、年の差でもエロい気分にどんどんなってしまってよ、って思ってる惑はドSっぽいМです。
読んで下さった方、ありがとうございますっ。
14/02/03
