潮 彩  続・輪廻  5  

おやすみ おやすみ この腕の中
名前をよんだら お戻りよ

 小さな小さな歌声が、小屋の中に聞こえていた。耳を澄ますと潮騒が、その声よりもさらに小さく聞こえている。扉を閉ざした小屋の中にさえ、僅かに染みた潮の匂い。

 まるで、幼い子供をあやすかのように、ゆっくり、ゆっくりと肩のあたりをさすられている。目を覚まし、うっすらと瞼を開いて、けれどギンコは身じろぎひとつしなかった。化野は、ギンコよりもまだ少し小さな手で、不慣れな仕草をして彼の背中を撫で続けている。

夢は夢だよ 忘れちゃならぬ
うつつと向こうの その境
夢は夢だよ 溺れちゃならぬ

 この子守唄は、化野をずっと預かってくれたお母さんが、歌ってくれていたものだ。ギンコも一度聞いたことがある。きっと化野が、ずっとずっと聞きながら育った歌。

「とうやかあやへ お戻りよ…」

 ぽつり、ギンコが続きを呟いた。背なを撫でていた化野の手が、ぴたりと止まって…。見上げたギンコの視野の中で、少年は少し硬い表情をしていた。

「…起きてたんだ、ギンコ。いつから?」
「たった今だ。天気は?」
「晴れてるけど、でも、少し風が強い。さっき見たら遠くの雨雲が、こっちにどんどん近付いてきてるところだったから、もしかしたら後で雨になるかも」

 ぼんやりと開かれたギンコの視野で、彼によって切られた縄も、そのあと二人の手を縛った手拭いも、解いたままでそこらに放られていた。でもまだ、縛ったままでいるような心地がしている。逃げられそうもないと、思う。

 逃げる?
 何から逃げるんだ? 化野から?
 逃げてどうなると思う?
 またきっとこの子は、
 あてなど微塵もなくとも、
 俺を探そうとするだろう。

 そう、俺が放ったらかしたせいで、
 無為なことを幾らでも繰り返し、
 ひとつきりの生を幾らでも擦り減らし、
 消えてしまったあの命の、ように。

「ギンコ」

 名を呼ばれ、化野の方を振り向くと、意志の強さをにじませた目で、化野がはっきりとこう言った。その姿の後ろには、旅支度を終えた小さな荷物。ちゃんとまとめた上着。

「まだ、俺を帰らせようとしてるの? 俺、じいちゃんとばあちゃんのところには、戻らないよ。本当の親のところにだって。…ギンコと一緒に行くんだ。ずっと傍に居る」

 居させてくれ、ではなく。居る、と。あぁ、そうさせるしかないじゃないかと、既に諦めに傾くギンコの心は、本当に諦めなのか。それこそが願望ではないのか。願いを叶えてやるしかない、などと、そんなものは嘘の理由で、本当は、今までずっと時間を掛けて、いくらでも時を費やして、こうなるように、仕向けたのではないのか。

 逃げられそうもない、だと? 
 逃がさない、と、
 思っているんじゃないのか?

「…無理だよ。ずっとなんて、到底」
「どうして。俺がまだ子供だから?」
「そうじゃな…っ…」

 自分自身に釘刺すように、言った言葉に跳ね返るのは、どこか駄々を捏ねるような、甘えの滲む化野の声。けれどこれは彼の本気の懇願だった。一瞬、零れかけたギンコの言葉が、酷く静かな波のように凪いだ。

「違うさ…。これだけ聞いてないなんてことは無いだろ。俺は蟲を寄せる体質なんだ。だからいつもこうして旅を続けてきた。移動してりゃいいってもんじゃない。考えれば分かるだろうよ? お前は、聡い子供なんだから」

 くしゃり、と化野の顔が歪む。視線は逸らさず、く、と一度噛んだ唇から、悲しげな響きで言葉が零れた。

「ギンコは、蟲のせいで里に迷惑かけない様にって、今までもそうしてきて、今度も俺を病にしない為に、これからも一人でいるっていうんだね。それがどんなにちゃんと俺の為でも、俺は苦しいよ。ギンコだって、あんなに…」

 耳に直接囁かれるような距離。縛ろうとするような、その眼差しを振り解く前に、ざくり、と何かが胸に刺さった気がした。子供の我が身儘みたいに、嫌だ嫌だと、駄々を捏ねてでもくれたらよかった。まだ甘えのある、ところどころ幼い言い方で、なのにギンコは「あいつ」を思い出す。

 旅に発つ自分を、黙って見ていたあの目を。

「…ガ、ガキの癖に…何言って」
「ガキじゃ、ないよ、俺」

 傷ついた顔で、それでも嫌がらず腕を解いて、化野は呟いた。

「………今はまだそうでも、いつまでもガキじゃないよ。ギンコに直ぐ追い付くんだ。あとたった八年か九年。そのぐらいだろ? ギンコの年」

 化野は終わりに呟いた。見れど見れど中々見えぬ水底を、真っ直ぐじっと覗き込むように、逸らされぬ意志を込めて、彼は聞いたのだ。

「…ギンコ、好きな人、いるの…? その人って…」
「………」

 びく、と震えたギンコの体。無意識にこぶしを作った手。わななく唇の色が、見る間に褪せていき、目に現れる内心が、閉じた瞼の下に隠された。化野が何を聞こうとしているのか、わかりたくない。その言葉の続きが怖い。

「い…」

 いない、と、言う筈の唇が、震えて。ギンコは嗚咽を堪えて、その場から逃げるように、もう旅支度のすっかり整った木箱を取り、ギンコは小屋の外へと出た。そのまま歩き出した背を、すぐに化野も追う。もたついたりなど、欠片もしない。

 ギンコが先を歩き、その少し後ろを化野が追い駆ける。歩調は速かった、もしかしたら、おいて行くつもりなのではないかと思うほど。化野はギンコを追いかけ、追いかけて、そのうち疲れて度々転ぶようになって、それでも必死でついて行く。待って、などとは言わなかった。ずっと無言だった。

 やがては雨が降り出し、すぐにそれは大粒の雫となり、風もついて小さな嵐にまでなりそうだった。はぁ、はぁ、と息を付きながら、一心に前へと進む化野の額が、ど、と何かにぶち当たった。立ち止まっていたギンコの胸だった。

「あ、ギンコ…? どうし」
「…もう夜だ。今夜はそこの洞で休もう」

 少し、柔らかな言い方だったからか、体の力が抜けて化野は座り込みそうになった。ほぼ一日を休まず歩き通したことすら、言われてたった今気付いたのだ。

 休むに丁度いい洞穴が目の前に口を開けていて、ギンコと化野はその中に入って行く。荷を下ろし、ランプ一つを灯したギンコが、休む気など無いように洞の口へと戻ろうとする。 

「ギンコ…!」
「薪にする枝を拾ってくる」
「俺も行くよ」
「ここにいろ。俺は夜目が利くが、お前にゃ何も見えねぇだろ。さっきからあんな転んで、どこか…擦り剥いてたりしないのか?」

 軽く振り向いた顔を、僅かの苦笑で歪ませて、ギンコは言った。

「そんな顔するな。…置いていきゃしねぇよ。自分のと俺の荷の中から、着替えやなんか、濡らしときたくねぇもんを引っ張り出しといてくれ。瓶や薬の入った抽斗の中身には触るなよ。書物にもだ。それから、洞穴の中に、誰かが残してった焚火の燃え残りとか、枯れた草や小枝なんかがあったら、積み上げて、ランプから火を」
「分かった。ちゃんとやっとくよ。そんな色々言わなくたって、ついて行ったりしない。だから、ギンコもちゃんと、戻って」

「…あぁ」

 短く返事をして外へと向かいながら、ギンコも思っていた。こっちだって、分かってる。木箱を置いてくつもりもねぇし、お前が何処までも追い駆けてくるだろう、ってことも、分かってる。

 分かってるけど、だったら、どうしたらいいんだろう。少しの間だけ共に旅をして、蟲の怖さをあいつに分からせて、俺の傍にずっとだなんて、出来ないことだと思い知らせればいいのか? 

 でも。

 そんなことをしたら、
 自分がどうなってしまうのか、それが、
 …怖い。

「さぞかし…」

 雨の当たらぬ木陰を探し、薪の枝を拾いながら、乾いた枯れ葉を集めながら、ぽつりと、ギンコは呟いた。こうやって、今ギンコが背を向けてきた洞窟の中で、たった一つきりの小さな灯りに、浮かび上がっていたあの姿。それは、いつまでも褪せぬ、大切な記憶の中の"化野"そのものだ。

 年を負うごと、化野の姿形はもっと"化野"になっていくのに、離れずずっと傍に居させて、その後また手放すことになる。胸を裂くように、きっと苦しい。それでも"あんな"ことになるよりは、何倍も、何倍も幸せには違いないのだ。

 だからさっきみたいな、あんな姿。まだ子供のあいつに見せないように、しなければならない。どんなに痛くとも、苦しくとも、蟲師なんか、蟲を寄せるヤツの傍になんかいられないと、あっさりあいつが思えるように。罪悪感など感じないように。

 いつの間にか雨は止んでいた。それでも風は強いままで、高い高い空の上、黒と灰色に染められた雲が、流されていくのが見えていた。空に光が見えない代わりに、ほの明るく小さな蟲の群。儚い命の様を見せて、蟲達は星の代わりに光っている。

「いいんだ。出会えて、それだけで、こんなに幸せだから…」















 化野の心が動くと、ギンコの心が動く。逆も勿論あって。だから書いていると、生き物なんだなぁ、って思う。小説と言うものがね。だから御しがたいんですよっ。御すというより、物語や彼らに引きずられていたいという気持ちがありますが、これが中々…。

 ギンコの中の化野先生って、どんなだったのだろう、と今更のように思うのです。子化野が、もっと成長したら、やっぱりギンコはもっと辛くなるんだろうな…。だって彼は"化野"なんだもの、ギンコの傍を離れようなんて、思うわけがないんですよ。



14/01/11