化野の言葉を、ギンコは止められなかった。口の中で舌が強張って、声を立てることすらできなくなった。数年前に、酷い不作の年があってね…。そう、彼は語り出したのだ。
その年の夏は、春の後にすぐ秋が来てしまったみたいな、寒い寒い夏だったよ。秋になったって、その年の田んぼも畑も、ほとんど実りをつけなかった。里の誰もが、ずっと満足なものが食べられなくて、病にかかってしまった人達や、まだ小さな子供たちは、皆弱ってしまって床に着くようになってた。
このままじゃ里は駄目になる。みんな死ぬしかないのかって、途方に暮れたよ。でも、少し離れたある里に行けば、蓄えの麦や干物を分けて貰えるとわかって、里の皆と一緒に俺とじいちゃんも、そこに助けを求めに行ったんだ。
山を三つと谷を二つ越えた。大きな川も渡って行った。飲まず食わずで随分歩いて、ようやくついた里では、沢山の食べ物を本当に分けて貰えた。それでほっとしたからかな、少し風邪気味だったのが急に悪くなって、熱が出て。
気付いたら俺だけが、小さな家の囲炉裏の傍で、布団に横になっていて、胸の上に、継ぎあてだらけの古い綿入れが掛けられてた。
ギンコ…。
俺、その綿入れが何だか怖くて。
ここにいちゃいけない、
…って思って。
その綿入れを、胸の上から急いでどけてたら、女の人がね。なんだか悲しそうな顔してこう言うんだよ。
「ごめんねぇ、そんなみすぼらしい綿入れ、おかしいだろう、後生大事に。でも、よかったら、着てみてくれないかい? ちょっとでいいんだ、少しだけ」
女の人は、そう言ったんだ。何にも言えないで、俺が黙っていたら、その人は泣き出して、そうして旦那さんらしい人に慰められてた。女の人が泣き止めなくて台所の方へ行ってしまったあと、今度は男の人が、俺に話をしてくれた。
「酷い不作が続いた時が、うちの里にもあってな…。その時はやっぱり別の里に助けて貰ったんだが、でもその助けはほんの少しだけ遅かった。たった一日、遅かったんだ。
向かいの子供の姿がいつからか見えなくなり、一つむこうの家の爺さんが、急に死んだと噂を聞いた。誰かが病の床につけば、家のものがその首に手をかけなきゃならない。働けないものを生かしておく余裕などないからだ。
そうやって、ぽつりぽつり里人が消えていく中、身を裂かれるような思いをしながら、この家も、赤子を山に捨てに行った。何の意味もなくても、せめて天気がいい時に、せめて少しの実りのある山中に、綺麗な水の湧く淵の傍に、両親の匂いのついた綿入れにくるみ、草露に濡れぬよう盥に抱かせ。
家に戻って一日経って、そしたら遠くのとある里が、蓄えを分けてくれることになったと聞いた。俺と妻とは急いで山へと戻ったよ。置いて来てからたった一日経っただけだ、きっとまだそこにいる。大事な息子を連れて帰ろうと。でも、もう…。
餓えた獣に喰われたか、腹を減らして盥から這い出て、淵に落ちてしまったか、わかりゃしないが、きっと生きてやいないんだ。
おれらの息子が今もここにいてくれりゃぁ、丁度あんたと同じくらいだから、妻はきっと思い出しちまったんだよ。どうか勘弁してやってくれ。あれはもう、十三年も前のことだが、何年経ったって、忘れやしない。忘れられやしない…。
だから里に余剰のある時は、縁の無い余所の里のことだって、助けられるだけ助けようってことになってるんだよ、うちの里では」
だからあんたの里を助けるんだって、ありがたいことを言ってくれてるのに、なんでなのかな、俺には、恨み言みたいに聞こえたんだ。綿入れの袖に腕を通すくらい、してくれてもいいだろう、って。
でも、俺はその人たちの顔を、もう一度真っ直ぐ見ることも、したいと思わなかったんだよ。とにかくそこから早く、逃げ出したくて仕方なかったんだよ。
だってじいちゃんがその綿入れを見たら、気付くかもしれないんだ。継ぎの布地の一つ一つまで全部同じで、こんなの幾つもあるわけがないんだから。
だったら、ここが俺の家だって、これが俺の本当の親なんだ、って、じいちゃんが気付いたら、俺、あの里に戻れ、って言われるかもしれないだろ? そんなのは嫌なんだ。
俺はじいちゃんとばあちゃんのとこにいなくちゃ、
俺はギンコが俺を預けたあの里にいなくちゃ、
俺はギンコが来てくれるところにいなくちゃ、
絶対、駄目なんだから。
その時ね、俺、初めて怖いと思った。どうして俺は、こんなにギンコのことばかりなんだろうって。
本当の母さん父さんも、本当のふるさとも、俺をギンコから引き離すものになるならいらない。それに、ずっとギンコの傍にいられるなら、もう、二度とじいちゃんやばあちゃんに会えなくても、あの里に帰れなくても、構わないって。
当たり前みたいにそう思ってる俺自身の心を、怖いと思ったんだ、ギンコ。でもどんなに怖くても、何も変わらないんだよ。そんな気持ちになる理由があっても無くても、俺はギンコの傍にいたいんだ。
ギンコは、ずっと震えて聞いていた。そうして化野の本当の二親が、赤ん坊を捨てた次の日に、連れ戻しに来ていたのだと聞いて、堪え切れないように嗚咽を零した。
あの子は死ぬ運命の子供じゃなかったんだ。
親の無い子供になる運命でさえなかった。
自分が連れて行きさえしなければ、
本当の親の傍で当たり前に成長して…。
ギンコは震える手を伸ばして、自分と化野の手を縛った布を解こうとした。化野はそれに抗い、ギンコの指を引き剥がして、真っ直ぐに見つめながら言った。
「ずっと前にばあちゃんが教えてくれたけど、俺がギンコの親友の忘れ形見っていう話も、みんなギンコの作った嘘なんだね。捨てられてた俺を拾ってくれて、ありがとう。俺は俺の運命に感謝してるよ。ギンコに会えない一生なら、俺は要らない」
化野は囁くように、こう続けた。額が触れるほど近付いて、切ないような眼差しで見つめたまま。
「お願いだから、餓鬼のくせに、なんて言わないで。他になんて言っていいか分からないんだ。他の誰にもこんな気持ちにならない。今までも、これからも。俺はギンコの事が…好きだよ。好きだ…」
「…ぅ……」
罪が、押し寄せてくるように、思った。そんなつもりじゃなかった、などと、どの口が言えるだろう。化野という名を付けて、自分を想ってくれ、と願った。あの海沿いの里の、高台の家の医家のように、俺を想って、ずっと待っていてくれと。
叶う筈の無い願いだから、誰も聞いていないから、そんなことを口にしたのに、それが叶ってしまうかもしれない。本当の親のことも、本当の里のことも投げ捨てて、自分だけを思ってくれる「化野」。ずっと欲しかった、取り戻したかった「あいつ」を。
怯えた目をして、ずっと身を震わせているギンコを、化野は困ったように見つめ、そして。
「ごめんね、言わなきゃよかったのかな…。ごめん…」
伸ばされた腕が、ギンコを抱いた。ギンコは化野の腕の中で、びく、と身を跳ねさせて、嫌がるように少しもがいた。
「やめ…」
「やめたくない。今だけ、少しだけこうさせて。俺、急いで大人になるから、その時は本当にギンコのこと守るから、今は真似事しか出来ないけど、抱くくらいさせて」
跳ね除けなきゃならない。こんなことは罪の上塗りだと、脳裏で繰り返しながら、沁みてくる温もりがギンコの胸に閊えて。響き合う鼓動の聞こえる場所に、今は居たくて。
ほろり、また涙が零れた。
どんなに似ていても、これは「化野」じゃない。蝶よ、こうして似姿を突き付けられ、そこから逃げなければならないことも、咎人の俺に与えられた罰なのだろうか。
今だけ
すこしだけ
こうさせて
化野の我儘に、自分の願いを言い当てられたような、気がした。
続
なんとかかんとか、書きたかったところが書けました。しかし難しかったので、今一つ胸に迫らなくて…。ショボリ。
化野の両親、居たんですね。そしてギンコが連れていきさえしなければ、普通に育って、普通に成長して、ギンコに関わらない人生に…は、ならないとは思いますが、まぁ、そんなことはみんな知らないのです。
「その」ために、彼は生まれた。引き合う運命ということです。
さて、年内の螺旋シリーズはこれにて終わりかと思います。他の話はまだまだ書くけどっ。この続きを次に書くのは年明けてからかなっと。その時にまた、どうぞ読んでやってくださいなv
13/12/22
