潮 彩  続・輪廻  3  

 手首と手首を繋いだ縄を、僅かばかり弛ませて、ギンコは見ていた。眠る化野の姿を、息を詰めるようにして何時間も。何のためになのか分からない。そうしていたいかどうかも分かりはしない。けれども目を逸らすことが出来なくて、瞬きもせず、ずっと。

 眠る姿は"化野"そのもの。窓から差す月の灯かりが、ほんの少しだけ青白くて、その色が、目の前の頬に映って、恐ろしく…なる。頬がこけて見えるのだ。まるで病持つ身のように、生気の薄い肌に思えてくる。

 違う、そうじゃない。あの日の、化野の姿が脳裏に浮かんできているんだ。あれは、さいごの日だった。終わりの、日。

 息を吸い、息を吐いていた唇は、
 呼吸を止めた。
 胸は、しん、と静まり返り、
 あたたかかった体から、
 ぬくもりが拭い去られていった。
 抱いても、抱いても…抱いても…、
 枯れた木の幹のように冷たく棒のように固く、お前は、
 "化野"は、それきり、もう。


 ぃ…やだ…。あだ、し…っ… 

 声になる寸前のように、そうやって零れた息を、消したがるように、俯き歯を食い縛り、ギンコは小さく被りを振った。まるで、幼子のような姿だ。どうにもならないことを、どうにかして欲しがるような、大人を困らすような、その。

 嘘だと言ってくれよ、帰ってきてくれよ、俺の前に。あぁ、違うんだ、目の前じゃなくていいんだよ、二度と会えなくて構わないよ、そう言ってたじゃないか、あんなに何度も。なのにどうして、お前はいなくなってしまったんだ…? 

 俺の足が踏む大地の、遥かな遥かな遠くで、俺が二度と訪ねてはいけないところで、お前がいつも通りに笑って生きててくれたなら、それだけでよかったのに、それだけしか願わなかったのに。

 だから、そう、
 もう一度同じように願うから。
 なぁ? 化野。なぁ?
 この世に…戻って…来……。 
 
「ん……」

 目の前で、小さく零れたその声。唇からもれた息。触れずとも伝わってくる、その体の温もり。ギンコは目を見開き、何か、怖いものでも見たように息を詰めた。目の前に眠る姿が、いったい何なのか分からなくなる。お前が化野なら、ここにいる筈がないのに。

 そうだよ、俺は願ったよ。

 腕の片方、片足、声を失おうと、何の音も聞けなくなろうとも、残りのこの目を抉り出して構わないほど、慟哭し、慟哭し願った。時よ、戻れと。もしもそれが叶うなら、今度こそお前を失わない様に、俺は遠くで、ずっと遠くで 遠くで あぁ、遥かな遠くまで、お前から離れるから。

 もう…会わない から。

 こと、と、小さく音立てて、ギンコは木箱の抽斗を引いた。そちらを見ずに取り出して、木の床にそれを深く刺す。月の明かりを鈍く反射する小刀の刃に、手首の縄を押し当てて、ゆっくり、小さく擦って、それを切ってしまおうと。

 そうか、あぁ、そうだったよ。
 どういうことなのか、なんて。
 どうしたらいいんだ、なんて、
 考えなくてよかった。
 もう答えは出てた。
 大切なら、大切だからこそ、
 傍にいちゃ、駄目…だったろ?

 ぷつり、と縄は切れた。あんまりあっさり過ぎるほど、簡単に切れた。ギンコは笑んで、向こうの透けて見えるような、薄い笑みで笑んで、思っていた。

 お前は聡い子供だったな。どうするべきかなんて、俺みたいに悩まなくても分かっているよな? 親父さんとお母さんとこへ戻るんだよ。俺のことは、段々忘れてけばいいよ、これからほんの数年の間だけ、どうしているかなぁ、なんて、思い出してくれたら、それだけで俺は嬉しいんだよ。

 翡翠の珠、まだ持ってるのか? 
 もう、手放していいぜ?
 何か困った時にでも、
 売って金に換えたらいい。   
  
 
 膝を床から浮かせて、後ろ手で木箱を取り、ギンコは立ち上ろうとする。外に響いているのは風の音と波の音。この音にまぎれてきっと、戸の開く音も締まる音も、俺の足音も掻き消される。そうだ、もう一度ぐらい、呼んでいいか? 最後の別れを口にしていいか…?

 俺を探してくれて、ありがとうよ。
 さよならだよ、ずうっとな。
 あだしの あだしの

「あだし…」

「どこ、いくの、ギンコ」

 ぱし、と小さく音立てて、化野の手がギンコの手首を掴んでいた。強い力だった。言葉はどこか幼子のまま、あどけなくすら響いたのに、その手の力は淡くはない。

「変わんないね、ギンコは。俺が寝てる間に、また約束破って、どこにいくの?」
「離…っ」
「離すと思うの、離すわけないよ、どうしてもっていうなら、この手首ごと切り落としていけばいいよ。ガキだと思ってるんだね、俺のこと。俺だって、そのぐらいの覚悟はあるんだよ。…見せようか」
「や…」

 月明かりの下、赤い色を見せられる気がした。ギンコの片手を捕えたままで、化野はすぐそこに突き立っている小刀の刃に、剥き出しの自分の手首を、押し付け…。

「やめろ、やめてくれ、やめ…。頼むから、頼むから、嫌なんだ、許してくれ…許し…っ…」

 ギンコはしゃくり上げて泣いた。もう一方の手で、化野の腕を押さえ、ぶるぶると震えながら蹲り、泣いていた。うわ言のような声が、小さく小さく、いつまでも呟いていた。

 嫌なんだ、嫌なんだ、俺はお前が、俺のせいで二度と。
 二度とあんなことになるのは、嫌なんだ、怖いんだよ。
 だから、お願いだ。許してくれよ、許してくれ…。
 
 化野はそんなギンコの傍から、小刀を引き抜いて遠くに放り、それからその丸めた体を、上から包むようにすっぽりと抱いた。

「よく、分からないけどさ、ギンコは俺のこと、そんなに大事にしてくれるくせに、どうして、傍にいることからは逃げるの…? 俺はこんなに傍に居たいのに、どうして?」

 蹲ったまま、薄暗がりの中で見開いたギンコの目が、ずっとこう言っていた。

 大事なお前を、
 ひどいことにしちまうのが、
 俺自身だからだよ…。

「ギンコは弱いんだね」

 愛しげに、化野は言った。

「もっと強くて、俺なんかの助けはいらないと思ってたのに、そうじゃなかったんだね」

 嬉しそうに、そう言った。




 化野はギンコの手と自分の手を重ね、指と指を互い違いに組み合わせ、その上から手拭いでぐるぐると縛った。そうして最後は口で結び目をきつく締めて、それでやっと満足したように笑う。

「朝までまだ暫らくあるよ、ギンコ」
「…そうだな」

 酷くかすれてしまった声で、ギンコは漸く返事をする。子供のようにまた泣いてしまったことを、恥じる余裕なんかありもしない。

「少し、話をしようか。俺、今まで言わずにいたことが、沢山あるんだ。じいちゃんやばあちゃんに、ずっと隠してきたんだよ。言えっこないんだ、自分がどこの誰なのか、本当はもう知ってる、なんてことはね…」

 化野の手の中で、ギンコの手が震えた。二人して横になったまま、首を横に倒して化野がギンコを見ると、ギンコは凍り付いたような目をして、化野を見ていた。

「そんなに驚かなくていいよ、ギンコ。知ったって、何も変わりゃしないんだから…」















 久しぶりに続きを書けた! しかしここで続くとか、酷いじゃないかっ。…て、書いてる私が思ってしまった途切れ方。そうでもないですか?

 しかし化野少年が、こんなことを言い出すとは思いませんでしたが、これでも彼だって、色んなことが怖かったんですよ。まだ十六で子供でもないかもしれないけど、大人じゃないんだし。いいえ、今だって、怖いんですよ! 何より、自分の想いの強さが。




13/12/08