ざざ、ざざ、脳裏には頻りに波の音。海を渡ってくる風の音も。
その音が本当に聞こえる場所を、ギンコは目指した。海沿いの小さな里を、いくつもいくつも通り抜ける。姿を消した化野が、何処に居るかなんて知るわけがない。化野はギンコを探しに出たというが、それが既に当て無く途方もないことだった。
見なかったかと人に尋ねることは出来なかった。そもそもが、九年前の姿しか知らないのだから、聞きようがない。そして、理想のままに"化野"の姿を口にするのが、あまりに怖かったのだ。
姿は似ても似つかなくなってるだろうに、その直ぐさは少しばかり、似ているかもしれん。などと、小さく苦笑を零す。
「…馬鹿なことをな」
俺を探しにいく? どこにいるかも知らないのに。見つけて傍に居たいと? ふざけたことを言うものだよ。心配しないで、だなどと、自分を実の孫のように可愛がってくれている二人に、よくも言えたものだよ、お前。
「しょうがねぇ、連れ戻さなきゃな…」
そうしなけりゃ、親父さんとお母さんが気の毒だ。心配し過ぎて病気になっちまうさ。見つけて、諭して、あの里に返す。その為だけに探すのだ。会いたいからじゃない。寧ろ…
"化野"の面影を見られなくなった化野に、
本当は会いたくなど、ない。
でも、思いを断つ為に、
これは、いい機会かもしれないよな…
とは、なんとも身勝手な。
ギンコの足はさくさくと砂を踏んでいた。足下で崩れる感触に、時折ふらつく。聞こえる波音のせいで、ずっと息が苦しかった。波音の下から、懐かし過ぎて痛い声が聞こえてくるからだ。波の面のきらめきに、誰かの顔が浮かんでくるから。
心が過去に戻る。遠い遠い過去の中に。一度溺れてしまったら、二度とは現へ戻りたくないと、心の底から願ってしまうのに。その優しい、残酷な声、言葉。
ギンコ。
ギンコ、あぁ、よく来たな。
また随分と久しぶりだ。
つれない男だよ、お前は。
どんな気持ちで俺が待っているか、
お前にはわからないんだろう?
甘い、甘い記憶の中から、鋭い刃が胸に刺さる。分かっているからこそ、そういつもは来れなかったんだ。溺れるほど好いたら、ロクなことにならないと知っていた。…知っていて、それでも溺れて、そうして俺のその愚かさが、お前、を。
ざざぁ。足元に波が寄せる。その音を聞きながら、ギンコは自分の顔を覆った。嗚咽が零れそうで、唇を噛む。
そうして視野を塞いだギンコ。そんな彼の立つ、ひと気のない海辺の風景の遠くに、ぽつりと誰かが立っていた。沖の方を見つめて、たった一人ですくりと立ち、風になぶられて髪を揺らして…………
そうして、ふと、男が誰かに呼ばれたように振り向く。
人影は虚を突かれたように目を見開き、数歩だけ、ゆっくりと歩いた。それから砂を蹴立てて、段々と走り出し、みるみる近付く。距離が詰まる。声は無かった。波音に紛れて聞こえてきた足音が、ギンコの顔を上げさせて。
あぁ また まぼろしを みている
そう思った。幻聴も幻覚も、よくあることだからだ。目も耳もお前を求めていて、心の弱さ故に、在りもしないものを見るなど、珍しいことじゃない。でも、その幻が、砂を散らす音を伴い、段々と近付いて、ギンコは少し慄いた。あぁ、こんなにはっきり幻を見るなんて、ますます何処かが壊れたか、と。
そう思ったのと、呼び声が、重なった。
「ギンコ…っ」
「…っ…う、そだ…」
怯えて、体が、逃げを打とうとする。
「違う…ちが…」
お前じゃない。お前じゃない。
お前は、死んだんだよ。
鼓動も息も止まったんだ。
つめたく冷えた肌を知ってる。
強張り動かなくなった四肢を知ってる。
だから
だから二度と、会えな…
「逃げるな…ッ、ギンコっ!」
激しい声と同時に、ギンコの腕を"彼"が掴んだ。振り払おうとしたが、振り払えなかった。痛いほど指が食い込んできて、それでももがくうちに。もう一方の手首も掴まれる。
「ギンコ…ッ」
膝から、力が抜けた。立っていることも出来なかった。砂の上に座り込み、項垂れ目を閉じていた。痩せた体を抱かれて、背に回された腕の熱さに、存在ごと、消されてしまうそうな心地がした。
「なんで、逃げるの…? 俺のことが、嫌いだからか? 会いに来なくなったのも、そのせい? …ギンコ」
聞こえる声も"あいつ"のものとしか思えず、けれど、少しばかり甘えた物言いが、ギンコの胸に少しずつ染みた。
「はな…離して、くれ…」
「嫌だ。離したらギンコはまた、俺から逃げるんだろう?」
ぎゅ、と尚更力を込めて抱かれる。胸と胸とが重なって、響いてくる鼓動に、ギンコは胸を縛られていく。
「逃げない…から…」
「嘘だ。ギンコは嘘吐きだから。騙されるのはもう嫌だよ。どんな気持ちで俺が待ってたのか、分からないんだろ? それとも、俺のことなんかもう、ギンコは忘れたの?」
少しばかり子供らしいような、その言葉でも、それでも声は、そのもの、で。聞いていると呼吸が止まりそうになる。
「忘れて、なんかない…から、離し」
「なら俺をちゃんと見て、俺の名前呼んで」
「…や……」
目を閉じて、項垂れている頬に、熱い手が触れてくる。びく、と体を跳ねさせ、ギンコは弱弱しくかぶりを振った。そんなギンコに彼は言った。
「波が来るよ。二人で、溺れる?」
二人が座り込んでいる砂に、既に波が染みてきている。あとほんの少しそこにいたら、きっと波を被るだろう。溺れる? 溺れるのは怖い。そのせいで何が起こったか…。
何も答えず、目も閉じたままのギンコに、薄く笑いをのせた声が聞こえる。
「溺れてもいいよ、俺、ギンコとなら。それに…ギンコが濡れて風邪ひいたら、俺が看病するんだ。…俺はね、ギンコ」
医家になるんだ。
そうしたらギンコが、
傍に置いてくれそうだし。
「馬、鹿か…そんな理由で目指す、なんて…」
薄っすらと開いた目に、彼の姿がとうとう映った。少し長めに伸ばした髪に、藍色の褪せた着物の旅装束。穏やかな、優しい目の。
「あだ…し…」
唇は、その名を呼び掛けて嗚咽する。零れた涙より先に、波が二人の足元の砂を濡らしていた。
「うん"化野"だよ、ギンコ、もっと、ちゃんと呼べばいいよ」
呼びたかったのだろうと、どこかから満ちるように、彼は気付いた。動けずに、二人着るものを濡らしながら、ギンコは声無く化野を呼ぶ。そうして化野は、そんなギンコの姿を見つめていた。庇うように、守るように、静かに。
「この一年、色んな海里を歩いていたんだ、ずっと」
静かに化野が話している。小さな山小屋の床に布を敷いて座り、木箱の中身を整えているギンコを、彼はじっと見つめていた。
「…そうしようと思った理由は分からない。ただ、ギンコは俺の里に来ない様にしてるだろうから、里と繋がりの無い場所。似ていないところの方が、会えるんじゃないかと思って」
本当は、そう思っていたわけじゃない。これは後付けの理由だ。ただ、どうしてなのか波音を一度聞くと、その音の聞こえる場所に居たくなって、離れ難かった。
化野の言葉に、ギンコはろくに返事をしない。それどころか彼の方を殆ど見なかった。そのことにも気付いたけれど、あえて化野は何も言わず、ただ、そろそろギンコが横になりそうな気配を感じると、唐突に何かを差し出した。
縄、だ。それほど長くは無い。
「これで手首を縛って寝よう、そこらに落ちてた縄だけど」
「…何、言って」
「ギンコは、俺から逃げるだろ?」
馬鹿な、とは言えなかった。真っ直ぐな目に射られて、竦むしかなかった。その通りだったからだ。
「俺が眠ったら、ギンコは取り敢えず逃げて、ひとりでじいちゃんとばあちゃんのとこに行ってさ。俺の居場所を告げたら、また何処かに行くつもりなんだ。それともじいちゃんばあちゃんにも文だけ出して、逃げるんだよね。違う?」
縄を持って、化野はギンコに近付き、その右手を取り、手首を縄で縛る。それから自分の左手を差し出した。
「ギンコがそのつもりなら、俺も逃げるよ。里には帰らない」
自分とギンコの手首が繋がるまで、身じろぎひとつせずに、化野は黙ってギンコを見ていた。ギンコは困り果て、仕方なく化野の手首にも縄を縛り、これでいいのか、と言ってまた項垂れた。
「なんでそんなに、俺が逃げると思うんだ?」
「…分からない。でも、ギンコが何かに怯えてるのは分かるよ」
そうして化野は、自身の手首を縛った縄をその手で握って言ったのだ。淡々とした声だった。
「ギンコは、年をとらないんだね…」
びく、とまたギンコの体が震える。もう繋がれてしまって、逃げようもないのに、その体が少し後ろに下がろうとする。ぴん、と張った縄を引こうとはせず、身で追い駆けて、化野はギンコの腕を掴んだ。
「怖くなんかないよ、俺は。ばあちゃん達が話してるのを聞いて、前から知ってた。それに、ずっと二回りも年が違うままより、近付けるのが嬉しいんだ」
化野は、小さい頃にギンコが言った言葉を覚えている。化野の年がギンコの年に届いたら、連れて行ってくれる、とギンコは言った。まだ届かないけど、それでももう半分は追い付いた筈。
「俺は十六になったよ。ギンコは今、いくつ…?」
「……いくつだと思う?」
小さく、自嘲のような笑みを浮かべて、ギンコはそう問い返した。化野が考え始めるのへ背を向けて、床にごろりと身を伸べる。
「寝ろ。逃げやしないから」
やや暫しのち、聞こえた寝息に、ギンコはゆっくり身を起こす。薄暗がりだが、窓から差し込む月明かりと、夜目の効く目でよく見える。はっきりと、怯えた顔をして彼は化野の寝顔を見た。
そのもの、にしか思えない。たった今目の前に、十ほど若返った化野が、いるように見えた。
狂ったのか? 俺は。
幻覚をずっと、見ているのか?
赤の他人の筈なのに、
こんなにも、似ているなんて。
姿だけじゃない、声も。
書いた文字すらも。
ギンコは自由な片腕で、自分の体を抱いた。化野に抱き締められた熱さがまだ背中に残っている。その感触にきつく爪を立てるようにして、体を丸めた。
「化野…。化野…」
戻ってきてくれたのか?
お前は俺の、化野なのか?
そんな筈はない。けれどそれならこれは、どういうことなのか。答えるもののない問いが、いつまでも薄闇の中に転がっていた。
続
恋しい相手に会いたいのは当たり前。けれどもあまりに在り得ぬことで、こうも突然では…。化野からギンコへの、求める心が強くて、書いてる私が戸惑いました。そうでもしないと逃げる、と、彼には分かるのですね。そしてそれがギンコの本心ではないことも。
十六歳、子供でも大人でもない年で、好きな相手が目の前に居れば、これは充分に性よ…。いや、何でもありませんw 何でもないけど、でもこのシリーズに置いては、とても重要なことですっ。惑よ、待て次回っ←
13/11/17
