繰り返し繰り返し聞こえる、潮騒。

 ざざ、ざざ、と、どこからか潮の寄せる音がしていた。あぁ、この音を聞くと、いつも抗えなかった。化野はどれだけの波打ち際を歩いただろう。波の姿を見て、揺らぎ寄せる水のおもてに、きら、きらと、跳ねる光。擦れ擦れを滑るようにゆく海鳥。遠くに浮かぶ小舟の影。

 山間に育った化野は、海など知らない。生まれた土地にさえ海はなかった。不思議でたまらない。ひたひたと胸を浸す懐かしさは、どこからくるのだろう。

 海里に、住んでいたと聞いた。
 ギンコの恋しい、恋しい人。
 でも、だからと言ってどうして。 

「あだし、の…」

 名を呼ばれて、自分のことじゃないと知りながら、化野は呼び声に答える。喉の奥で微かに返事して、ギンコの髪を撫でる。素肌を辿る。

「傍に、いるよ、離れないよ…?」

 だから、あぁ、なるべく長く、その幸せな夢の中に居て欲しいんだ。俺をその人と思って、そんなに嬉しいのなら、どんなに胸が痛くとも、構わない。

 ざぁ…ん

 ざざぁ、ん…。

 耳の奥で、潮騒が大きくなった。それをまた不思議に思うと同時に、頭の芯がじわりと痛んで、化野は不安になる。 

「い、…た…」

段々と刺すような痛みを頭の芯に、感じていた。いけない、随分無理をしたから、きっと風邪をひいたんだ。ギンコはまだ体が弱ってる。移さないように、しなくては。

 けれど身を離そうとすると、ギンコは幼子のように縋ってくる。はっきりとした所作は無く、寧ろ身を引く様に腕を解いて、でも眼差しが、縋るのだ。

「ギンコ」

 宥めるように、化野はもう一度だけギンコに口付けした。体に腕を回して抱き寄せ、斜めにしっかりと唇を重ね、ぴったりと素肌を重ねたその時。

 それは、起こった。

 潮騒が、彼の脳裏のすべてを覆い尽くす。遠くから、すべてを消し去るかのように、生々しいほどはっきりとした波音で。そして、その潮騒を制して聞こえる、声は。


『 化 野 』

 遠いような、近いような声。

 化野はギンコに口付けしたままそれを聞き、そうして、見たのだ。古びた大きな家。幾つも抽斗をつけた薬棚を背に、囲炉裏は右側、しゅんしゅんと湯気を吐く鉄瓶の、その音を聞きながら、障子…大きく開けてある障子の向こう。

 きら、きらと光り輝く海と、空とを背景に、いつもの見慣れた姿で、来る日も来る日も、焦がれ待ち侘びた姿で。愛しい愛しい、大切な、その。

『 ギ ン コ 。 よ く 、 きたなぁ、久しぶりだ 』

『 そ う だった か? 変わんねぇなぁ、ここは』

『さぁ、あがれ。茶を入れてやる』

『悪いな』

 何でもないよな言葉を交わしながら、その遣り取り、行き交う言葉が、どれほど…どれほど貴い、大切な。聞こえ、感じる。それなのに自分の知らない、これは、いったい、なんだろう。

 頭が痛い、頭が。さっきよりずっと痛い。割れそうなほど。

『ここへ来い、ギンコ』

『な、なんだよ、まだこんな、宵の口』

『いいから、来い、愛でさせろ。いつ振りだと思ってる。堪えきれんよ、もう』

『…この、馬鹿が』

 止まらない、止まらない。止め処ない。聞こえてくる声。見えるもの。手を触れた温度でさえ、緩く抗われるその様も。

『ギンコ、お前が、大事で堪らんよ』

『……』

 化野の意識が、それらであっという間に埋められて、彼はギンコから離れられなかった。風邪を移してはならないと思っていた筈なのに、そんなことはもう、押し寄せる様々なものの下で、消えてしまった。

 身を寄せ合う温もりを感じた。たった今、肌を触れているそれと、ぴたりと重なるように。そしてその光景の上に、波の表に弾ける光に似て、無数の断片が、降り頻る。声と、姿と、想いが、降る。


 
 俺は化野という。
   蟲師の、ギンコってんだよ。

 案外いいやつだな、お前さんは。
         あんたは物好きだね。
 
 また来い、いいや来てくれ、待っている。
   気が向いたら。あー、分かったっ、来るって。 
  
 心配したんだ、あんまり…お前が。
       なんで、俺のことなんか。

 俺の気持ちがわからんか? 本当に?
      言わないでいい、言わないでくれ。

 言わずとも。
   あだしの、あだしの…。

 俺はお前が、好きだよ。
      言うな、俺…は…。


 そして、満ちていた光が、溶けるようにして消え去っていく。引き止めようとするのなんか、到底間に合わない。訪れた闇の、あまりの濃さが恐ろしくて、たった一片の光だけでもと、見開いた目には何も、得られず。聞こえてきたのは、消えそうな声。


 なんて幸せな、生の、終わりか。

 
 ざざ、ざぁ…。

 ざ、ざぁ… ざぁぁ…。
  
 慟哭が、聞こえた気がした、ほんの一瞬。そうしてそれを押し隠すのは、また波音。いいやこれは、波の音じゃない。   
 
 黒い、黒い濃い闇が動いていた。闇は無数の何かの集まりだった。暗闇に穴を穿ち、その向こうの光が零れているように、白い小さな何かが、眩しいような何かが、ちらちらと。これは…蝶、なのだろうか?


  あだしの。お前、そんな名、嫌か?

 闇の中に浮かび上がって来た、その声に、化野は無意識に答えていた。声に出して、答えていた。

「嫌じゃぁ、ないよ…」

  お前、いつか俺の名、呼んでくれるか。
  あいつみたいに…呼んでくれるか…?

「うん、ギンコ。ギンコがそれを望むなら。ずっと、傍に居させてくれるなら」

 あぁ、白い蝶が見える。美しい、けれど恐ろしいような。そうだったんだ。なんにも、なにひとつさえ、悩むことなんかなかった。このために、俺は生まれた。このために、ギンコに、出会った…。

 化野はギンコを抱いたまま目を閉じる。そうして彼は意識を手放した。眠るのとは、多分少し違う。自分の中に、何かが流れ込んでくる。それをどこかで、分かっていた。

 そう…、だったんだ…。

 そう…俺が…。

 あだしの…。




 鳥の声で、ギンコは目を覚ました。体はどこもかしこも、もう治っていると分かる。昏睡の一歩手前のような、熱に浮かされた数晩のことが、まだよく、思い出せない。怠い体で寝返り打って、見えてきたのは見知らぬ古い天井や壁と、こちらへ背を向けている、化野の姿。

 化野は戸に隙間を開けて、外の明かりを見ていた。ちらちらと揺らめく木漏れ日。波の表で跳ね返った日差しが、小舟の横腹で揺らぐのに似ている。海を思い出させる。

「…化野」

 世話を掛けたな、そう言おうとした声が、喉の奥に絡まるようで、音にはならなかった。振り向いた化野の、その姿が、あまりにも…あまりにも…。

「ギンコ、具合はどうだ? まだ、起きない方がいい」
「……あ…」
「どれ、熱を診ようか。食欲は?」

 あぁ、ここにいるのは、誰だろう。逆光のせいで姿がよく見えない。潮の香りも、潮騒も、錯覚に過ぎないと、わかっているのに。

「やっぱりここに連れてきて貰っといてよかったよ。大丈夫だ。何も見られてやしない。嘘ばかり並べることになったが、俺の父親が医家で、もうすぐ戻るからと言ったんだ。そうでもしなけりゃ、隠せなかったから…」
「……」
「なんて顔してるんだ、ギンコ。まだ、ぼうっとしてる?」

 なぁ、ギンコ、と化野は言った。息だけのような声を、少し震わせ。

 俺が、誰に見える? と。

















 非常にっっ、難しかったですっ。こんな大事なところだからこそ難しいんですけど、こんな大事なところだからこそ、迷いなく何かに憑かれて書きたかった。憑かれる、って、でも自由にはなれないのよっ。

 彼は化野です。でも化野でもある。何言ってんだ? だって! そうなんですもんっ。消え去る恐怖を、彼は感じたのではないだろうか。そう思うのです。

 多くは語るまい、っていうか、難しくて語ることさえっ(泣)


14/09/13









潮 彩  続・輪廻  12