心臓の鼓動が、酷くうるさい。胸が内側から、容赦なく打ち付けられている。あぁ、きっとそのせいだ。もうすっかり体はいい筈なのに、息がうまくできなくて。 「だ、れ・・・って」 それは、そう・・・あだしの、だろう? 「あだし・・・?」 「そうだよ、化野だ。もう少し起き上がらずいた方がいい。粥でも作るから。さ、無理せず横になって。…ギンコ」 身をかえし、目の前に近付いた化野の片手が、ギンコの額に触れる。やんわりと髪を梳き、その手のひらは首筋へと下りた。あたたかな優しい手の感触が、何かを思い出させるのだ。一晩中、いいや幾夜も繰り返し、この手が自分に触れていたことを。 でも。…でもあれは夢だ。 ずっと夢を見ていた、幸せな夢を。 覚めるのが恐ろしいと、 いつもいつも、思いながら見る夢、同じ夢。 遠い、遠い日をなぞる…。 「あ、よ、よせ…」 言えば、化野は素直に手を引いた。けれど離れようとはせず、静かに口を開いたのだ。淡々とした言葉が、言った。 「つい、無理をさせた。体は辛くないか? ギンコ」 また、…何かが胸に来る。何かが心を包んでくる。息が苦しい。 「…無理、を?」 「いや、覚えてないならいいんだ、そのままで」 ギンコの目は化野の手を見ていた。そこから辿って腕を、肩を、胸を。鼓動が激しかった。あれは夢の筈だろう? 夢でなくてはならない。うつつにそれを重ねるなど、あまりに罪だと。 ゆっくりと、酷くゆっくりと、ギンコは青ざめた。化野はそれを見ていた。心配しながらも、愛しそうにずっと見ていた。 「…ギンコ、何も、よくない事など起こってないよ。あるべきものが、あるべきように、やっと戻っただけだ。罪でも、悪いことでもないんだ」 伸べられた手がギンコに触れる。ギンコは逃げようとしたが、化野はそれを許さなかった。腕を捕らえ引き寄せて、抱いた。包むだけのような抱擁。体から力が抜けてギンコは動けなくなる。 抱かれた体は、何かを思い出す。何をしたのか、何をされたのか、何があったか。求めたのは、自分だったのかもしれない。許されることじゃないのに、化野がずっと自分を、求めていたことも知っていたのに。求めた、そして全部を、許した。 「だ…駄目だ、は…な…っ」 「相変わらずだ。本当は逃げたくなんかない癖に、天邪鬼め」 「何言ってるんだ…」 化野の声が笑みを含みさえして、言い聞かせるように告げる。 「なら聞かそうか、ギンコ…。高台のあの家で、俺はずっと待っているしかなかったから、何度それに惑わされたかしれない。思い出したんだ。沢山のことをね。…まったく、難儀な相手を好いたもんだと、いつも思っていた」 「高、台の…?」 「そうだよ。海里にたった一件の、医家の家。もっと話そうか? どんなふうに出会ったかとか、もっと、沢山思い出せたんだ。きっとまだまだ思い出せる。だって俺は『化野』だから。ギンコがずっと、会いたがっていた『化野』だから」 ギンコは化野を見た。これはなんの揶揄だろう。願望を、暴かれたような気がした。夢と現の境で、彼をずっと、あだしのだと思って抱かれた。あだしのだと思って、きりなく求めた。いっそ本当に、あいつならばと思ったことも、あまりに酷いと。 でも、でも誰が、化野にこんなことを教えたろうか。誰にも話した覚えがないのに、誰が? 「……なん…の、話を」 「ずっとずっと昔の話だ。ギンコだって、覚えているだろう?」 珍品好きの蒐集家の家。 あいつは腕のいい医家でもあって、 ずっと俺の、友だった。 友以上の、ものだった…。 「そうだ。ギンコが俺にくれた翡翠。あれと似たのを持っていたから、わざわざガキの俺にも持たせてくれたんだろう? 今もこうして大事にしてるよ」 取り出した翡翠の珠を、そっと指先で撫でながら。高価だったろう? と、化野は言った。 「俺が買ったのは流しの商人からだったけどな。お前の目の色に似ているから買ったんだ。俺が昔持っていたものの方が、もう少し大きくて、色も澄んでいたけど、すっ、と斜めにひとすじ傷があって、それで案外安かった」 言い終えて、化野は静かにギンコの目を見た。なぁ、分からないか、ギンコ。これでも、信じられないか? 俺はもう分かってしまったよ。どうして俺がこの世に生まれたか。どうしてギンコに出会い、拾われたのかも。他のもの全部捨て去って構わないほど、これほど焦がれてしまった理由も。 「……」 ギンコは化野の腕に抱かれたまま、ただ慄いて、震えている。 あぁ、あぁ…。 波の音が、聞こえる。 遠くから風に乗り、 高台の家にまでそれは届く。 潮の香、薬湯の匂い。 乾いた藍の、褪せた着物の色。 子供の背を撫でるような、 優しい、優しい手を。 今、肩に、髪に。 頬に… もう一度、化野は聞いた。両腕で作った檻に、ギンコを閉じ込めたままで。額を付けて目を覗き込み、愛しい相手に接吻けするように、大事に大事に、問い掛ける。 「こわいか? そんなにこわいのなら、夢の続きだと思っていればいいんだ。ずっと終わらない夢が続くんだと、そう思って、もう苦しむのをもうやめてくれたらいい。俺はちっともこわくないから」 「あ」 だ し の … ? 息だけの、音の無い。それは、どちらを呼んだ声だったのか、化野には分かった。愛しさで、気が触れてしまいそうになる。そうだよ、それが、やっと手に入れた真実。擦り抜けてしまった運命が、長い年月を掛けて、この手の中に、戻ってきたのだと。 どうして。何故。だけれど、そんなことは今はどうでもよかった。誰がいったい。それも、知る必要が無い。包むように、今一度しっかりと抱いて、化野はギンコの耳に唇を付けた。片方の肩をすくめて嫌がる仕草が、昔のままだと感じる。抱き潰してしまいたい。愛しくて困る。 「くすぐったいか? 少しぐらい我慢しておけ」 帰ってきたんだよ、ギンコ。 お前の傍に、ようやっと。 本当のことだよ、嘘じゃないよ。 あの日のままとは、言い難いけれど。 ただいま、そんな言葉は聞こえなかった。でも、ギンコは喉を震わせて、声など紡げぬ喉奥で、確かにそっと、とある言葉を空回した。 「…嫌だったら、言ってくれ」 「…ん…ぅ…」 口づけをして、口付をして、互いに息がうまく出来なくなる。ギンコはまだ、信じたわけじゃなかった。そんなことがあり得る筈がと、臆病な心が震え蹲る。喜びを感じることが怖いのは、それまで失ったものの大きさと、裂かれた傷の深さ故だから。 だけれどゆらゆらと、幾度もの夜半の素肌を思い出す。あの所作、言葉、触れては撫でる指先も、唇も舌も、確かに此処に在る筈のないものだった。 閉じた瞼の裏に、ちらちらと白い蝶。輪廻を繋ぐその蟲が、真昼の光の滲む其処で、酷く美しく見えた。美しい蝶のゆく向こうに、誰かがぽつんと立っていて、振り向いて、手を伸ばしている。 蝶はその手の中に、吸い込まれるように…。 あれから、また二人は共に旅を続けた。互いに身を寄せ合うようではなく、それまでと変わらないような顔をして、何も変わっていないふうに、ただ、共に居る。 小さな所作で、何気なく零れる言葉で、笑い方で、気分を害した時のふてた様で。薬の扱いや知識、口癖。そういや前にこんなことが、と、ほろりと零した時などには、よりいっそう、分かる。疑いようなどもう無いほど、はっきりと、分かる。 それでも、ほんの時折の夜以外、互いに何も変わらぬ振りをする。まだ十六の化野と、ずっと年上のギンコとしての、当たり前の態度を、それぞれで少しずつ、ほろりほろり崩しながら、壊しながら、共に居る。 とある安宿で、一泊した夜半のこと。 横になったまま、天井を見上げている化野の横顔を、ギンコはぼんやり目を開けて、見ている。うっすらと細めはしても、瞬きする以外閉じない目をして、ずっとずうっと。見えない何かを手探りするような眼差しで。 寝物語の代わりのように、ぽそりと化野が言った。 「…なぁ、ギンコ。この宿から東の方に見える山脈、あれを越えると、またその向こうに大きな山脈がある。そこには、山間の小さな里がぽつぽつと、いくつもあるんだ。そのどれにも医家は居ないと言ってた。だから…」 「…だから…?」 問い掛けると、化野の目が、ふ、とギンコを映した。 「この先、俺がギンコについて行けなくなったら、そのどれかの里に、俺は根を下ろすよ」 「……離れないんじゃ、なかったのか」 「何言ってる。離れるのはギンコの方だろう?」 途端に、化野の眼差しが饒舌になる。多くを言わぬ唇よりも、余程、幾多を語ってくる。 俺が離れるんじゃない。ギンコが離れていくんだ。 蟲を寄せる身だから。蟲の障りがあるから。 きっと今に、よくないことが起こるからと。 そういって、ギンコは俺を置いていく。 ずっと一緒になど、どうしたって居られない。 そろそろ、そんなふうに言い出すんだろう? 昔のように、お前は、きっとそう言う。 幾ら何を言ったって、繰り返し繰り返し、あの海里から去って行ったギンコの言葉を、ギンコの背中を、もう化野は知っているのだ。 「だから、ギンコ、今、言っておくんだ」 「……ふたつ向こうの、山脈の山間。幾つもの小さな里の、ひとつで、医家をやるのか…?」 それが「化野」という男だから? 何処かへ居付いて医家を生業とし、ふらりと訪れた、蟲師だとかいう胡散臭いなりのやつと、友人になり、その男の大切な友となり。やがては友以上の、ものとなり…。 「本当は海里がいいんだけどな。そうしたいんだって、俺の中の何かが言うんだけどなぁ。まぁ、いつか、そうしたいけど。まさか『あの里』にゆくわけに行かないだろう…? とんだ騒ぎになっちまうよ、こんなに…似てたら」 「あぁ、まぁ…そりゃ、な」 帰ってきたのだと思って欲しいのは、ギンコにだけだ。取り戻した記憶の中のあの海里を、懐かしいと思う気持ちは、だから、胸の奥にしまっておく。あの里、とは、どの里のことを言っているのか、ギンコにだって聞かなくとも分かる。痛いほど分かる。 今頃、なんの花が咲いてるだろう…。 言葉にしなかったその想いを、まるで聞いていたように、化野は言った。 「…竜胆は、もう咲いただろうか」 竜胆。青い青い美しい花だ。咲いた花が枯れて、姿が跡形もなく消えてしまっても、その場所にまた同じ花が咲く。待ってさえいれば、必ず芽吹いて、蕾を付ける。 「ギンコ」 「んん…?」 「植えるのを手伝ってくれ。垣根の際に植えるから。毎年必ず咲くように、大事に大事に育てるから」 ギンコが俺を、 育ててくれたように。 「手伝うのはいいが、枯らすなよ?」 子ども扱いするように言われると、化野は決まって少し拗ねたようにする。 「早くもっと、大人になりたい」 「…なんで。ゆっくりでいいよ、ずっと、ゆっくりで」 でなけりゃお前はどんどん俺を追い越して、追い越して行って、やがてはまた、 きえて なくなっちまうんだ 「化野」 と、ギンコが低く名を呼んだ。化野は身を起こして、ギンコの傍に近寄る。その変わらない白い髪に触れて、ずっと変わらない顔を見つめて、変われない体と己の体を重ねて、こう言った。 「ごめん、俺、まだガキだね」 「…今それ、言うなよ」 目を閉じて、体の力を抜いてすべてを彼に預けたまま、ギンコは言うのだ。 「もう何もかも、これで充分なんだから」 終 お わ り ま し た !! ここで白状しますが、このお話の少年化野は、、当初十八かそこらで死ぬ予定だったんです。でも、とても出来なかった。赤ん坊の頃から書いてきたんだもの、そんなことは出来ない、って思ってしまって。あと、あんまりギンコが可哀想で。 もしもそんなことがあったら、死ねなくたってギンコは自分を八つ裂きにするよ。 そんなわけでこういうラストとなりました。ギンコはでも、弱いね。この二人がこのあとどうなったのかは、また螺旋を新しく書く時に、分かるのではないかと思いますよ。うん。多分ね。結局化野はギンコを置いて死ぬのだと思う。いつかは、そうなるしかないのだと思う。 こんなに長いお話を、読み続けて下さった方、ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。螺旋のシリーズ自体はまだまだ続きがあるので、よかったらまた読んでやって下さいね。次あたり、箱庭のシリーズの続きが欲しいところですし…。 14/10/05 |
潮 彩 続・輪廻 13