水に入り、沈んでしまいそうなギンコの体を抱えて、化野は嗚咽した。そうしてそのまま動けなかった。どうなろうと、もうギンコを離したくなかったのだ。
ギンコの体は歪んでいて、冷たくて、ぴくりとも動かない。鼓動が聞こえていてさえ、死んでいるのかと繰り返し思う。たった今は生きていても、もう、とても間に合わないと…。
浅く何度も呼吸して、がくがく震えながら、濡れた白い髪を撫で、体温の無い頬を撫で、ギンコ、ギンコ、と化野は繰り返し彼の名を呼んだ。
このまま失ってしまうなら、
俺だって、もう、
生きていたくなどない。
生きている意味など、ない。
そう、思ってただ抱いていた。両目からは止め処なく涙が零れ落ち、その雫が次々にギンコの顔へと落ちていった。
上流のどこかで大雨でも降ったのだろうか、少しずつ川の水かさが増していた。胸の半ばまでしかなかった水位が、気付いた時は喉へと迫ってきていた。川底に膝をついているようでは溺れる。だけれどどうせギンコと共に死ぬのなら、それでもいいのかと思った。
化野の声が、震えて零れる。
「ギンコ…ごめん、ごめん…。俺、ギンコを守りたかったのに…。何ひとつ、出来なかっ…」
その時、ギンコの左の瞼が震えた。右は紅い色で潰されて、とても無事には見えなかったが、開けたのを見たことのない左の瞼が。そうして、ねじ曲がっているギンコの片腕が、ゆっくり持ち上がって、化野の体に触れる。
「ギンコ…!!」
「…ぁ、あ…だし…」
「そうだよ、ギンコ、ひ、酷い怪我して。痛いだろ? 苦しいだろ? 俺っ、何にも、出来なくて…っ。ご…め…っ。ギンコ…もう、離れ…ないから…だから」
化野が言い掛けた言葉が、どう聞こえたのか、ギンコの唇はその時確かに、笑ったのだ。
なく な …
「え…?」
なく、な…。
しなな、い…から…。
「ギンコ…っ、でも…」
「で、も…じゃねぇ。な、くな。らしくねぇ、ぜ、あだし…」
細かい雨が降り出した。冷たくはない雨だった。
ギンコは、夢を見ていた。何もかもを、掻き消すような痛みと闇の中で、見えていたのは何より残酷なあの過去だった。
夢から醒めさせてくれたのは、化野の声。今、泣きながら名を呼ぶ化野の想いが、あの日、彼を見ていた自分の想いに重なる。死ぬな、死ぬなと、臓腑を捩じるような気持ちで思った。俺を置いていくな、頼むからと、言葉に出来ずに思っていた。だからギンコは、こうなって初めて感じたのだ。
不死の体が、嬉しい。
俺の名を呼んでくれるお前に、
あんな思い、させずに済む…。
「しなな、い…。オレは、死なない…。だか、ら、なく、な…」
歯を、食い縛って、捩じ曲がった手足を伸ばした。もう一度意識が飛ぶほどの激痛を、嗚咽一つで堪えた。切るように冷たい水の中で、四肢には確かに血が巡り、治癒、していくのが分かる。右目もそうだ。何かが刺さって潰れたが、それだって、じわじわと治っていく。
口を開けて喘いで、震えながら強く息を吸って、殆ど無意識に舌を動かし、水、とギンコは言った。直ぐにも水が注ぎこまれて、夢中で飲んで、また楽になる。
「あだ、し…の…? い、いる…か?」
見えない。でもあの日の化野が、ギンコを求めたように彼も手を伸ばし、その手をしっかりと取って貰える。嬉しくて…。
「い、居るよ。水、もっと…?」
「あぁ、あぁ…」
頬を支えられ、また何かがギンコの唇に触れた。吸うように必死で飲んで、まだすっかりは治っていない目を恐る恐る開いた。ぼんやりと霞む視野に、化野の顔がゆっくり、確かに見えてくる。
見えたことが何より嬉しく、ただ、もう一度、安心させたくて言った。目の前で大切な相手の命が、消えてしまう痛みなど、どうして味わわせたいと思うだろう。
「もう…なおる…、だいじょうぶだ…。だいじょうぶだよ、あだしの。オレは、老いない…だけじゃない…」
「うん、ギンコ、ギンコ」
しっかりと強く頷いて、それから化野はギンコの体を岸へと運び始めた。
痛みに歯を食い縛るギンコを見て、まるで同じ痛みを味わっているような顔をしながら、彼は無我夢中だった。川の水を随分飲んで、何度も溺れそうになり、それでもギンコの体を守り抜いて、岸へ辿り着いたころには、もう太陽は随分登っていた。
「ここから大声で呼べば、きっと道を行く人に聞こえる。手を借りて、どこか医家に…」
「い…いい、必要、ない」
「そんな…っ」
「いら…ない、どうせ…治る…」
言われて、暫し化野は黙った。ギンコが拒む理由が、分からないわけじゃない。どう見ても潰れていた右目。捩じ曲がって明らかに折れていた手足も、もう治って、或いは治りかけているとわかっていた。勿論、それが普通じゃないことも。
「分かった…。じゃあせめて、雨の当たらないとこに連れてくよ。痛むと思うけど、いい?」
「…あぁ」
両腕をしっかり抱えて、背負うようにして、化野はギンコを運んだ。崖は勿論、足場の悪い斜面を登るのは到底無理だから、広葉樹が密集しているところを探した。雨は霧雨だから、木の葉の天井があれば殆ど濡れずに住む。
出来るだけそっと、そこへギンコを寝かせて、それから化野は荷物を一旦置いた場所に戻り、それを抱えて戻ってくる。川の水に浸かって自分もずぶ濡れだったが、それより傷を負って弱ったギンコの体が心配だった。医家へ連れて行けないのなら、自分で出来るだけのことをと、そう…。
「しっかりして、ギンコ。今、俺が体、診るから。…ギ、ギン…コ…?」
ギンコの意識は途切れていた。髪が貼り付くほど額が濡れているのは、降る雨や川の水のせじゃない。流れるほどの汗が浮かんでいるのだ。衣服越しに胸に触れれば、か細い鼓動を感じるが、体温は少しも感じ取れない。
「…ギンコ……」
胸を破ってしまいそうに、動悸が鳴っていた。どうすべきか、凄まじい勢いで考える。こんなに苦しそうにしてるギンコを、放っておいても死なないからといって、何もせずにいることなんて、出来ない。まるで、彼を追いこむように、雨足が少しずつ強くなってくる。
斜面のずっと上を、幾人かの人の通る足音がした。目を閉じて一つ大きく息を吸い、化野は大声で、叫んだ。
「助けて下さい、怪我人がいるんです! お願いします、どうか…どうか手を貸して…!」
壊れて外れそうな木の扉を、出来るだけそっと開いて、化野はその隙間から中へと身を滑り込ませた。背に負った背負子の薪がぶつかり、ガタンと大きな音がなり、目を見開いて、彼はそこで眠っている怪我人を案じた。
眠りは深いようで、青ざめた瞼も動かない。ほっとしたのか、心配なのか、よく分からない複雑な気持ちになる。
「戻ったよ、ギンコ…」
近付いてそっと額に触れる。まだ熱は高かった。これは、彼の体が急激に治癒していくことへの、反射作用なのだろうか。
腕も足も左の目も、すっかり治ったように見える。人の手を借りてここへギンコを連れてきてから、もう丸二日が経つ。体温が戻って、そのことは安堵したけれど、ギンコの意識はずっと白濁していた。時々、淡く意識を取り戻しては、夢現のように彼は何かを呟く。
痛み止めを処方して喉に流し込み、汗ばむ体を拭いてやり、着替えさせ、そうやって出来る限りのことをしながら、化野はギンコのうわ言を聞き続けていた。
「…し、の…」
「いるよ、ここに」
「だ…しの、来た…ぞ…」
「…どういう意味?」
それ、俺に言ってるのか? それともギンコの記憶の中にいる、もうこの世には居ない人のことなのか? だったら、俺、その人じゃなくて、ごめん、ギンコ。でも似てるんだろ? 一目見て、俺のこと、その人の子供だと思った人がいたよ。
出来ることの少ない、長い時間の中で、化野は思っていた。
不思議だ。
俺はどうしてこの姿なんだろう。
どうして、ギンコは、
俺を拾って育ててくれたんだろう。
まるで俺が、この姿になることを知っていたように。
まるでギンコの想いが、時間を掛けて形を取ったように。
気付いたらギンコは薄く目を開けて、その翡翠の色の瞳で化野を見ていた。布団から出た手が、その爪が、古びた木の床に立てられて、がり、と其処を掻く。
「…し、の…?」
「何…? 俺なら、居るよ」
俺でいいの? ギンコに返事をするのは、本当に、俺でいいのか? でもギンコが欲しがる人は、もう何処にも居ない。何年も、何十年も前に、居なくなった、ギンコを置いて。
手を伸ばし、化野はギンコの指に触れた。病人とは思えないほどの力で、ギンコの手が彼の手を握る。爪が皮膚に刺さって、血が滲んだ。
「痛いよ、ギンコ、痛い…。何処にも行かないから、緩めて、指」
「あだしの、あだしの、あだし…」
こんなに求められてたのに、ギンコが好きだったその人は、ギンコを置いて、逝ったんだね。
あぁ、今、うなされてそう思っているみたいに、
俺をその人だと、ずっと思っていてくれればいいのに…。
そして俺も、そうなのだと、思い込んでしまえたら、
いいのに…。
「ギンコ…」
手をしっかりと握られたまま、化野はギンコの髪を撫でた。頬を、首筋を撫でた。ギンコは薄く微笑み、どこか困ったような顔になる。肩に化野の手が滑り、指先は鎖骨を辿り、胸に触れた。楽なように、首の後ろに回した手で、ギンコの頭を支えて、唇に、唇を…。
ギンコは目を閉じて、その口づけを受け止めた。唇をうっすら開いて、嬉しげに身を任せてくる。こんなことはいけないのに。そう思いながら、化野はもう自分を止められなかった。衝動のままに、舌で、ギンコの唇の隙間をなぞって、深く、深く彼を求める。
まだ十六だ、こんなことは知らない。
でも、欲しかった。
触れたかった。
掛け替えの無い…
抑え込んでいた感情が、何処からかほつれて、もう元になど戻せない。
掛布をゆっくりと剥いで、露わになるギンコの体は、世話をしている間にもずって見てきたけれど、今はまるで、この世に一つきりの、命の源のように見える。触れる為に、命を得た。触れなければ、生きては行けない。
「すき、だよ…」
零れ落ちた化野の言葉を、ギンコは嬉しげにしてくれる。自分へと覆い被さる彼の背を、力の抜けた両腕で出来る限りしっかりと、ギンコは抱いた。
時を、戻すように。
言葉が胸に、しみていく。
聞こえるのは、
潮の、騒ぐ音。
続
が…っ! とストーリーが激しく動いた、のだと思うのですが、ど、どう…かな? それにしてもストーリーは生き物です。最初にこの話が浮かんだのは、それこそ螺旋シリーズを書き始めた頃で、何年も前なのですが、その通りにはいかないようです。
だって、もうそこから逸れちゃったし、痛すぎて…無理…ぃ。
14/08/17

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