「刻の蝶」というお話の続きが「輪廻」。
輪廻の続きがこの「潮彩」となります。
全体的に死にネタですので、ご注意!

潮 彩  続・輪廻  1  

「白い髪の蟲師、ってのは、あんたのことだな?」

 とある宿に泊まった時、突然に問われた。びくりと肩を跳ねさせて、それでも顔に焦りは表さず、ギンコは応じた。

「そうだが、何か?」
「あんたでなきゃ治せない『ムシ患い』だかで、困っているものがいるんだそうだ。文をくれた上で、五日後にこの場所にどうしても来てほしいと」
「…行くよ」

 少し前に別の里で、ギンコは厄介な蟲払いを請け負った。人に憑くこと自体珍しい蟲で、多分そのことを言っているのだ。払えるものは限られるから、名指しされるのも不思議ではない。五日後、というのが少し引っ掛かったが、奇病のように見える病状だから、おのれの里にいては見せられぬ、場所を変える時間が必要、という意味だろうか。

 さほど疑問には思わずに文を書き、宿のものに託した。ギンコの文は速飛脚に預けられ、ある山間の里までその飛脚はひた走るのだ。

 ギンコはその宿を出て、ゆっくりと目的地まで移動し始めた。あまり考えない様にはしたかったが、方角が、あの里と同じだった。きっともう、忘れてくれているだろう。そう思って安堵しながら、堪えがたいほど胸が痛んだ。忘れたくとも忘れられない、甘く優しい記憶がある。未練だな、とギンコは思っていた。

 会えなくても、俺はやってこれたよ。
 でも…会いたいんだよ…。
 どうしているかを、知りたいんだ。
 きっと随分大きくなって、
 そして、当たり前に本当の親に似ていて。

 …それだけは、見たくない、醜い想い。

 少し行っては休み、少し行っては足を止め、三日の距離を五日に伸ばすように、ギンコは進む。そして辿り付いた里の、里長の家の戸を叩いた。

「蟲患いの方がいると聞いて…。蟲師のギンコと申しますが」

 ややあって、開いた戸の中に招き入れられて、通された奥の間。座っているのは年老いた…。

「…っ!」

 一瞬で踵を返そうとした。たった今入ってきた入口から、外へ逃げるつもりだった。でもそれは敵わなかった。体の大きい男衆が二人、行く手を塞ぐように立っていたのだ。

「逃げるかもしれんと聞いていた。話を聞いてもらえるまで部屋から出すなと」

 監禁されるかの言葉だが、そんな意味ではないとギンコには分かっていた。そんなことをする相手じゃないと。それでも、暫しの間振り向けなかった。もう一度二人を見て、過ぎて行った年月の長さを見据えたくはなかった。守るつもりのない約束をして、あの里から去った時のことを思い出す。掴まれた腕を無理に振り払った、その刹那の感触と、心の震えまでも。

「元気そうで、嬉しい」

 聞こえた声の、力の無い。

「本当に、久しぶりだ」

 悲しげで、酷く切ない声。向けたままの背中で、ギンコはその声を聞いた。言葉を選ぶように続いて行く男の声も。

「この里には遠縁がいるで、頼んで一日、この部屋ぁ貸して貰ったんだ。騙すようなことしたのは詫びる。でもお前さんは逃げとったろう。呼んでも、俺らの里には来てくれんかったろう?」

 そう言い当てた声が、震えていて悲しげだった。

「どうしても会いたかった。会って頼みたかったでな。里を通り縋る旅の人に、たまたま声を掛けてお前さんの事を知らないかと聞いたら、よく知っているが今何処に居るかは知らないと…。でも呼び寄せる案だけなら教えられると…。こうすればきっと、お前さんは来ると、そう言われてなぁ」

 それが誰なのか想像がついた。良かれと思ってしただろうことも。脳裏に浮かぶ、友の顔。一度は目の前から逃げ出して、それ以来探さずにいてくれていた、ワタリの…。

「お前さんを幼い頃から知っていると、友なのだと言っておった。お前さんより、十幾つは上に見えたが」

 ギンコ

 零れる息遣いに潜めるように、男がギンコの名を呼んだ。覚悟を決めたように、ギンコはゆっくりと振り向く。ずっと前に会ったきりだった夫婦は、すっかり老夫婦になっていた。

 会わずに、九年が過ぎていたのだ。
 ギンコをだけは擦り抜けて行った、
 その九年という年月。

 痩せて小柄になって、青ざめた顔の二人。その青ざめた顔のまま、親父さんは真っ直ぐにギンコの顔を見る。長い年月の欠片すら見えない顔を眺めて、それで納得がいったように、ふぅ…と短く息を吐いた。年を取らぬことを秘めていたなら、もう顔が見せられなくなって、当たり前だったのだと。

「あぁ、元気そうだなぁ」

 沁みるように、親父さんはまたそれだけを言った。お母さんも、じっとギンコを見つめながら、目を細めて笑っていた。蟲師で、蟲を寄せる体質で、更には老いぬ体で。でも、だからどうしたのだと、ちいとも関係ないよというように、笑って頷いて。

 そして彼女は、自分の言葉に慄くように声を詰まらせつつ、こう言ったのだ。

「…化野が。あの子が…家を出て行ったんだよ、もう一年も戻ってこないんだ」

 ギンコの胸は、きしりと痛んだ。一言では、とても言い表せぬ気持だった。


 

 一年前の、同じころ。化野は広く広くなった田畑の畝に立っていた。隣には、祖母と慕う女がいて、嬉しそうに実りを眺めている。数年前には不作があって、暮らしが辛いこともあったが、それを里の皆で乗り越え、そののち数年は豊作で、倹しく暮らし、蓄えも増えた。

 だから、仮にまた不作が来ようと遣り繰りできるだろうし、その里の皆は、皆で仲の良い家族のようなものだから。

「もう、大丈夫だね、ばあちゃん」
「えぇ? 米のことかい? そうだね病もついてないしねぇ」
「違うよ。俺が居なくても、って思ったんだ」

 女は弾かれたように化野を見た。もう随分背が高くなって、夫の背丈もとうにこした、大人びたようなその横顔を。

「今、なんて言ったんだい?」
「ほら、前にじいちゃんと野菜売りに行った里でさ、いい種芋を分けて貰えるとこが見つかりそうだって、言っただろ? そのうち、貰いに行くからさ」
「あ、あぁ、そうかい? まだ急ぐことはないじゃないかい?」
「…そうだね、ばぁちゃん」

 そう言っていたのに、翌朝早くに、もう化野の姿はどこにもなかった。囲炉裏端に、二つ折りした一枚の紙切れ。書いてあったのは、たったこれだけの言葉だった。

 じいちゃん ばぁちゃん
 俺 ギンコを探しに行く
 絶対見つけて 傍に居たいんだ
 会えたら 手紙を書くよ
 心配しないで 待っていて





 あれきり来なくなったギンコに、胸を痛めていたのは、夫婦だけではなかった。

 親父さんもお母さんも、やがては言わなくなり、心の奥で無事を案じていることしか出来なくなったが、化野だけは、同じく口に出さぬまま、己が成長するのを待ち続けていたのだ。

 一歳になるならずで拾われ、傍に居るのは数か月や半年や一年に、たったの数日だけだったのに、それから九年も放られたままだったのに、それでも化野は、ギンコに会えない日々を、終わらせるために旅に出たのである。

「手紙を見るかい…?」

 痩せていて震える手で、差し出された紙片をギンコは手に取り、一瞬だけ見て、激しく閉じた。怯えたようなその眼差しの意味を、ギンコ本人以外に誰も分からなかった。化野の書いたと言う、その字が、もうこの世に居ない筈の男のそれに、酷似して見えたのだった。

 探して欲しい、と、夫婦は言った。目の前に坐したギンコの姿を、願いをかけるように真っ直ぐ見て、二人は頭を下げ、それから顔を上げてもう一度ギンコを見た。

「あんたでなきゃ、見つけられない。…そんな気がするんだよ」














 螺旋シリーズは「刻の蝶」から「輪廻」と続いていまして、今度はこの「潮彩」ですっ。しおさい、と読みますねぇ。輪廻は途中で休止してましたが、お話のタイトルを変えまして再スタートです。よろしくお願いします。

 次回はきっと再会シーンが書けるんですよっ。すっごく難しそうだけど、すっごく楽しみなのですっ。

 今現在、化野は十六歳ですよ! ギンコは…いくつになるんだろ。刻の蝶、からプラス15年ですから、んー。見た目は変わらないのですけれど…。



13/10/27