ギンコの視線の先で、化野が何かをじっと見つめている。縁側の日向に放っておかれて、危なっかしくも思えたが、這って歩くその床が切れたら、それ以上先へは進めないのだと、ちゃんと分かっているようだった。

 賢い子どもだ、と、親父さんも言ってた。生き物を眺めるのが大好きで、鳥やら何やら見るのをそのままにしておけば、丸一日だって一人で機嫌よくしているのだという。そうして人見知りもそれほどせずに、家に誰かが来ても、興味深げに這って近付いてくるそうだ。

 今、化野が夢中で見ているのは空を行く蜻蛉だった。行っても行っても尽きることなく、すいすいと秋空を滑っていく、沢山の蜻蛉たち。けれど、ずっと蜻蛉を見ている化野の眼差しが、時折思い出したように、ギンコの方へと向くのだ。

 まだそこに居るか。どこかへ行ってしまったりしてないか、確かめるような目に見える。あぁ、そんな様子まで「化野」思わせて…。

「…ちゃんと居るよ、化野」

 ぽつり、そう言ったギンコの背中に、穏やかでゆっくりな親父さんの声。

「茶ぁ入ったで、こっち座らんかい」
「あ、でも、化野が」
「だいじょうぶ、大丈夫だよ。本当に利口な子だで、縁側から落っこちたりはせん」

 一度言葉を切って、隣の間に座り、二人分の茶を畳へ置いて、親父さんはまた穏やかに言う。

「それとも、そんなに離れたくないかよ」

 目の前に座りながら、頷きそうになって項垂れた。もうここへ戻って十日になる。既に滞在し過ぎなのだ。蟲が増えてきたことだってわかっているのに。

 どこか辛そうにしているギンコを、前のように追い詰めたりしないように、親父さんは色々と言葉を選ぶ。

「いや、都合に合うんなら、暫くおったらいいでな。…おお、そうだ。今朝なぁ、あんた、何やら辛い夢でも見ておったろ。うなされてる様子なのを、あの子が傍で目ぇ覚まして、あんたの頬っぺたへ手を伸ばしとったよ。起こしてやろうとしたんだろな」

 優しい、いい子だ、と親父さんは眉尻を下げている。

「前も言ったが、もうあの子は俺らの孫も同然。またあんたに大金持ってこられたら、他人行儀で逆に辛いでなぁ。旅に発つんはしょうがなかろうが、あんたにも、も少し楽に生きてくれりゃあと思うとるよ」

 言い終えると、ぱし、と膝を打って気まずいのを散らし、空になった湯呑み二つを持って、親父さんは土間の方へ下りて行った。

 ギンコは「そうはいかない」とも言わなかったが「わかった」とも言えなかった。ここを出ればまた、知人に会わぬよう髪を隠し、始終項垂れて道を行く日々。そんな日々に、目的の一つすらなければ、それはそれで辛い。かと言って、迷惑がられる金を渡すのも、渡せずに貯め続けるのも。

 暫し考えて、ふと思った。まだまだ幼い化野が「化野」の好んだようなものを喜ぶとも思えなかったが、もう少し大きくなってからのお前にならどうか。そして今はもういないあいつの魂の慰みに、またそうした品でも集めようか。

 そういう目的があれば…。と、その時、襖を開け放った隣の部屋から、派手な音が響いたのだ。

「あ、化野…ッ?」

 ギンコは勿論すぐに立ち上がったし、台所にいたお母さんも血相変えて駆け付けた。見れば、部屋の隅の方で、まだ這うしか出来ない筈の化野が、ギンコの木箱に抱き付いた格好で横に倒れていた。

「こ…っ」

 こらっ、と大声を出し掛けたギンコの目には、在りし日の化野の姿が映っていた。人の寝ている隙を狙い、勝手にこっそり抽斗を開けようとしていた、悪戯っ子のような姿。そんな回想をしていたせいか、小さな手から木箱を奪い取る仕草が、幾らか乱暴になったかもしれない。

 滅多に泣かない化野が、わぁ、と声を上げて泣いたのだ。焦って見てみれば、右手の親指が赤くなっていて、開いた抽斗に挟んだのかもしれなかった。

「…泣くな」

 ギンコは震える手で抽斗の一つを開ける。傷の薬を取り出して、そっとそれを塗ってやるうち、化野は殆ど泣き止んでいる。

「悪かった…。もう泣くな…。木箱には危ないものも入ってるんだ。だから、触っちゃ駄目なんだよ、化野…」
「危ないんなら、片付けておいた方がいいかもしれんねぇ」

 お母さんにそう言われ、ギンコは押入れの中に木箱をしまわせて貰った。でもそうやって片付けるのを、化野の見ている前でやったのが良くなかった。

 その日の夕方には、化野は自分でそこへ這って行き、なんとかして襖を開けた。その上、高いところへ上がっている木箱を、襖に掴まり立ちして紐を掴んで、ものの見事にひっくり返したのだ。怒る気も失せてギンコは言った。

「お、お前…痛い目も見たってのに、懲りてねぇのか。…ほんと、あいつみたいだよ」

 今度はやんわりと木箱を取り上げ、ギンコは無意識に笑んでいた。笑って化野を腕に抱き、それでも木箱の方へと身を乗り出す姿を見て、小さく吹き出しさえした。

「あぁ、分かった分かった。今、危ないもんを抜いて、抽斗ひとつくらいなら貸してやるから、ちょっと待てって」

 くすくす、くすくすとギンコは笑っていた。けれど、笑うその顔は、途中で僅かに強張り、段々と何もない虚空を見据える目になっていく。

 何を俺は…

 笑ってなんかいるんだろう。
 お前は居ないのに。
 俺が、居なくさせたのに。

 凍り付いてしまったギンコの表情を、化野が温かい手で触れに来た。優しい、いい子だ。俺でなくとも大事にして貰える子だよ。だけれど俺は、お前を放してなどやれやしない。

「ごめんな…」

 言葉が零れた。涙の代わりのように、ほろりと。




 蜻蛉がまた群れを成して、夕の空を行く。化野はそれへ夢中になって、ギンコが家を出たのを気付いていないようだった。行ってきますと言っておやりよ、お母さんが言ったが、ギンコはそれへ幾度でも首を振る。

「泣かれると、辛いので…」
「そう、だねぇ。もうあの子も、あんたがまた暫く来ないって、分かってしまうだろうしねぇ。そうしたらきっと、随分と泣いて駄々を捏ねっちまう」
「…えぇ。また、長く留守にしますが、戻るまでどうか、よろしくお願いします」 
 
 親父さんは今日は作物を売りに、余所へ出ている。だから見送りはお母さん一人だ。心づくしの大きな弁当を、ギンコの胸に押し付けながら、彼女は言うか言うまいか、少しだけ迷って言ったのだ。

「…事情なんかあたしは知らないよ。知りゃしないけど、それでもね。あたしは真っ直ぐ、思った通りに言うだけだ」

 そうして彼女は、少し強く声を張って、ギンコの目を見て言ったのだ。

 例えあんたが過去に、何をした人だったって、
 ふとしたことで癒されて、なんの罪があるかいね。
 あんたが辛けりゃ、きっとあの子も辛い。
 大事に思うなら、あんたもちゃんと幸せにおなり。

 言われて、ギンコはきつく目を閉じた。見られていたのかとすぐに分かった。「化野」に似ているような、あの子のすること。それだけではなく、あどけない仕草や、甘える手に、眼差しに、優しく甘い気持ちに何度もなった。

 けれどそうして幸せな思いをするたびに、何かが胸に突き刺さって、微笑むことさえ罪に思えた。

 俺があいつを死なせたのだ。俺がこの世にいなければ。俺があいつに出会わなければ。なのにその罪を全部忘れて、ここでこんなに、癒されているなんて。

 目を閉じて項垂れたギンコの肩を、ばし、とお母さんが横から叩く。

「ほれ、聞こえたのかい!」
「…はい」
「そうかい。ならいいよ、どう思ったかは言わないでいい。行っておいで。また無事にお戻りよ、待ってるからね」

 そうしてギンコは旅立っていき、家の中へ一人で彼女が戻ると、お母さんと一緒に戻る筈のギンコを待っていたのか、化野が火のついたように泣き出した。

「あぁ、よし、よし」

 いい子だね、と、彼女は言った。

「お前は利口な子だから、きっと出来るだろ。ちゃんとあの人を支えておあげね、あたしらじゃあ多分無理なのさ、ねぇ、あだしのちゃんや」








「輪廻」に頂いたイラスト、こちらにあります→ *

このお話のすべてがここに、と言っても言い過ぎではないくらいなので、
このお話を読んで下さる方には是非見て頂きたく!
万の言葉よりも、この絵の方が私へ「輪廻」を語り掛けてくるのです。



13/05/06


輪廻 6へ  ↓



























輪 廻  続・刻の蝶  6






 夕暮れ時、女が少し背を丸めて縁側に座っている。後ろの畳の間には、子供が布団に寝かされて眠っていた。

「おぅい、戻ったぞ」

 緑にうねる畑の間を縫うように、彼女の夫が帰ってきた。伸びた影が縁側に差して、女はふいと顔を上げるのだ。

「あぁ、お帰り、あんた。野菜売れたかねぇ」

 これ、この通りだ。たん、と背中の籠を叩いて、夫は中身がカラの音を鳴らす。そうしながらも、視線はそこから見える家の中をゆっくり巡って、最後に幼子の寝顔へと戻ってきた。

「…発ったのかい?」
「うん、丁度五日目、いつも通りに発ってったよ」
「また五日、か。も少しゆっくり…してく訳にはいかんのだろうが」

 夫は背中から籠を下ろして、中の泥や埃を丁寧に払う。きっちり、五日。それはギンコが自分で決めて、そうするとある日二人に告げたことだった。

 化野に会いに旅から戻っても、
 そこから数えて五日目でまた旅に発ちます。
 それ以上だと長すぎる…。

 確かその時、障りがある、とも言っていた。五日、五日ときちり守って、もう三度になろうか。滞在する日付はそうやって守るのに、旅に発ってから次にギンコが来るまでの間は、どうしてかじわりじわりと長くなっているのだ。四月、半年、もっと…と。まるで、何かを恐れるかのように。

「…泣いたかい」
「そりゃあ、泣いたさぁ。今は泣き疲れて眠ったとこだ。賢い子だからねぇ、次の朝になったらまた居なくなるって、なんとなく分かるんだろうよ。夕べは中々寝ないでずっと起きてたって」

 女はちょいと腰を横にずらして、夫をそこへと促すと、手にしていたものをそっと夫に見せた。全体の大きさは小さいくて手に握り込めるぐらい。口は少し大きめで、中に綺麗なものの入った硝子の瓶。木で出来た栓でぴったりと閉じられ、簡単には中身が取り出せないようになっていて。

「また、随分と高価そうな…。これは?」

 夫が聞くと、女はすぐにはそれへ答えずに、悔やむように笑ってから、自分のことをこう言ったのだ。

「…女ってのは何でも根掘り葉掘り聞きたがって、いやだよねぇ。どうしようもないよ」
「何か、あったのか」
「あたしゃさ、とうとう聞いちまったんだ、どうして五日ぽっちで発つのか、もっとじゃ長すぎるってのはどういう意味なのかって」
「…あぁ」

 それは、男もやはり気になっていたことだった。それでも聞かずにいられたのは、ギンコの人となりを信用していたからでもあったが、妻ほどギンコの傍にいなかったからかもしれない。見ていれば、どれだけ辛い想いをして離れるのか分かる。分かるからこそ彼女は聞いてしまった。

「そうしたら、蟲師なんだって教えてくれた。それにねぇ、蟲を寄せちまう体質なんだと」
「…ムシシ?」
「あんた覚えてないかい? ほら、向こうの大川んとこの里に昔、蟲師だって名乗ってた爺さんがいたじゃないか。そこらで菜っ葉を喰う虫だとかとは違う、殆どのものが見られない、蟲ってのがいるんだって」

 男は記憶の中を探し、妻の言う蟲師とやらをぼんやりと思い出した。目に見えないものがいるだとか、その蟲が自分に集まっちまうとかで、その爺さんは殆ど里には戻ってこなかったと聞いている。蟲が集まれば、人にはあまりよくないから、と。

「頭ぁ下げられちまったよ。そんな人間だと分かったんじゃあ、気味が悪いだろうと思って言えずに黙ってたんだって。そんで改めて頼まれた。この里に災いを呼ぶようなことは絶対にしない。その為に五日しかとどまらず、一度来たら次までは間を開けているから、どうかこれからも、あの子を頼むっ、てさ」

 勿論だ、って言っといたよ、などと、女は男をちらりと見て、自分の夫が深く頷くのへ頬笑む。

「それでね、この綺麗なもんは翡翠なんだと。化野ちゃんももう三歳になる。言葉も覚えて、外でも遊ぶようになって、色んな他のこともどんどん覚えてく時期だ。だから化野ちゃんが、中々会いに来れない自分のことを忘れないように、発った後で渡してくれって」

 俺と思って、いつも化野が持っていてくれたらと、そんな気持ちでギンコはこれを用意したのだ。美しい翡翠の色は、そのままギンコの目の色だ。見るたびごとに、きっとその眼差しを思い出せるような…。女はそっと頬に手を当てて、どこか若い娘のような仕草をした。

「ねぇ、あんた。…聞いててなんだか、この人はって、あたしゃ思っちまったよ。まるで、離れて暮らす愛しい相手にでも、自分の代わりの品を託すようじゃないか」

 だからどう、というわけではないが、そう思ってみれば、ギンコのあの切なげな眼差しも、ここを発つごとの、胸の内側を切られるように苦しげな姿にも、説明が付くような気がしてしまった。

「……ギンコ…、ギンコ…っ、どこ、いるの」

 眠っていた化野が目を覚まして、まだあどけない仕草で起き上がり、ちょこちょこと女の方へやってくる。女は縁側に座り直して化野の方を向き、自分の正面に彼を捕まえて言った。

「ギンコさんはねぇ、お仕事で、また出掛けたんだよ。待っていようね、化野ちゃんや」
「…っ、やだっ。やだ…っ、一緒、行く…ッ」

 見開いた目に、また涙。項垂れて首を振って嫌がる姿は、子供ながらに酷く一途で。その悲しみを、淋しさを、どうして癒してやったらいいのか分からなくなる。それでも、夫に傍で見守られ、彼女は瓶を手に取った。

「ほぅら、これをご覧よ、お前にだよ。ギンコさんからだ」
「…ギンコ、から…っ?」
「そうだよ。お前に持ってて欲しいんだって」

 そっと差し出されたその瓶へ。瓶の中身の美しい翡翠へと、化野の眼差しは引き寄せられた。そうしてそこへぺたりと座って、それしか見えなくなったように、じっと見つめる。

「…気に入ったのかい? きっとギンコさん喜ぶよ。失くさないように、大事に大事にするんだよ?」

 何も言わずに、こっくりと頷いて、そのままいつまでも見つめている。それへ丈夫な紐を編んでやって、瓶の首に結んでやると、それを化野はいつも首からかけて、着物の衿の中にしまっておくようになった。子供がいつも下げているには、少々大きかったかもしれないが、体から離してどこかへ置いておくなど、化野は絶対に嫌がった。

 それをギンコさんだと思って…と、誰も伝えてはいなかったが、そう思っているのがはっきり分かる。

「なんだか」

 好き合ってるもの同士みたいだよね。女はぽつり、そう呟いて、そんな自分の言葉に、少しばかり狼狽した。

 
 

 これといって、目的など無い旅の途中に、ギンコは山中からとある海を見ている。こんなにも海に近付くのは珍しい。たまたま蟲払いの仕事を終えた後で、気付いたら海の音を聞いていた。

 寄せて返すなど聞こえるほど近くは無い。波の白い色が連なって砂浜へと駆け寄るのが、遥か遠くに見える。そうして、ごう、と海鳴りがする。耳を塞ぎ続けるわけにもいかず、ぼんやりと視野の端に眺めていれば、忘れたくて忘れたくない、刻まれた様々が、彼の脳裏を鋭く掻いて行く。
 
 こんなにあたたかな記憶なのに、こんなにも痛い。こんなにも痛いのに、思い返すのをやめられなくなる。

 
 ほう、見せてくれ、と珍品を欲しがり、
 時に、本物なのかと疑ったりもして。
 よく、来たな、と、お前は笑うようになった。
 もう、発つのかと詰まらなそうに言ったりした。

 そうして、お前はいつしか …
 こんな 俺 を …

 
 心臓が、壊れそうになる。でも、壊れない。壊れてくれない。鼓動が止まらない。多分、まだまだこの先ずぅっと。遠くからの潮風が、容赦なく目に染みて、がくりとギンコは仰のいた。座っていたのをそのままに、後ろへ倒れて仰向けになる。

 化野、と、彼は呼んだ。ここからは遠い山間の里に居る、まだ三歳になるならずの、幼い化野のことを呼んだのだ。逃げ道のように、ギンコはあの小さな子供を思う。

 こないだ来てた着物は、ちょっと裾が短かったな。
 すっかり普通の飯を食うようになって、
 会うたび随分と大きくなって思える。
 言葉も、だんだん喋っている。

 あぁ、そうだ。ギンコ、と、舌足らずに、初めて呼ばれた時の気持ちは、何とも言いようが無かったよ。返事も出来ずに、まじまじとお前を見下ろしてしまって、不安そうな顔させたよな。

 大丈夫、ちゃんと上手に呼べてたよ。上手過ぎてびっくりして、涙腺が緩みそうで困っただけだ。嗚咽を零さない様にするだけで、精一杯だったんだ。

 なぁ、化野、あの翡翠は貰ったか? それで、きれいだとか、思ってくれたか? まだ小さいお前には、なんにも面白かなかったかもな。でもあれをお前に持ってて欲しかったんだ。俺のただの我儘だよ。傍にいられない代わりに、な。 

 喜ぶものを買って持っていきたくて、散々迷って何も見つからず、土産を無しにそのまま会って、そんなふうに二度も三度も。なのに、やっと選んで渡したのが、翡翠の珠とは、随分とまた自分本位だ。

「化野」が。

 あいつが、持ってたからなぁ。
 俺の目のようだ、なんて言って、
 枕もとに、いつも置いてたよ。

 なぞらえるように、それとそっくりなものを買って渡して、酷ぇ「保護者」だ、本当に。

 自嘲しながら、ギンコは自分の目元を両手で覆う。視野を消すと、闇の中で波の音がもっとはっきり聞こえてきて、ギンコを慰め、同時に、散々責めた。波音の中に、微かに、羽音。勿論これは幻聴だ。けれど、ギンコは震えた。

 おのれの中の、あの日の記憶に。






13/05/23


輪廻 7へ  ↓



























輪 廻  続・刻の蝶  7



「ばぁ、ちゃん」

 戸惑いながらそう呼ばれて、彼女はびっくりしたように、炊事の手を止めた。近い年頃の子たちと、近くの野原へ遊びに行っていて、戻るなり化野がそう言ったのだ。もう、随分大きくなった。そしてこの頃は、毎日のように近所の子と遊ぶようになって。

 だから、化野は小さいなりに、自分の家と他の子の家がなんとなく違うと気付いたのだろう。それとも友達に何か聞かれたのかもしれない。

「おかえり。どうしたんだい? 急に」

 今まで化野は、彼女のことをそう呼んだことは無かった。「ばあちゃん」でも「かぁちゃん」でもなく、勿論「おばさん」と呼んでいたわけでもない。ずっと、どう呼べと言われたことがなかったから、ねぇ、とか、そんなふうに呼びかけていたのだ。変だと思ったことはなかった。

「俺のかぁちゃんと、とうちゃん、なんでいないのかって、言われた。なんで、じいちゃんばぁちゃんとだけ住んでるの…って」

 化野は聡い子だ。だから言わなくても、自分に事情があることを、何となく察しているのだと思う。今まで一度も、そうしたことを聞いて来たことなかったけれど、まだ十にもならない幼い子供のこと。友達に面と向かってそう聞かれ、何も分からないでは辛いだろう。

「うん、それはねぇ…」

 化野の前に膝をついて屈み、頭を撫でてやりながら、彼女は急いで考えた。幼い子供とは言え、今だけの誤魔化しを告げて、済ませていい年でもないと分かっていた。今傷つけないようにしても、後でもっと傷つけるようではいけない。

「じゃあ、先にお前に聞いてもいいかい?」
「…なに?」
「あたしたち二人は、お前のことがとっても好きで、ほんとうの孫みたいに、とっても大事だよ。お前は? お前はどうなんだい?」
「……」

 ほんとうの孫みたいに。それはつまり、ほんとうの孫ではないと言うことだ。そして勿論、我が子でもないという意味になる。一瞬、化野は心細げな顔をした。けれど小さく項垂れた顔を、すぐに上げてはっきりと言った。

「俺も、好きだよ。二人のことも、この家のことも、この里のこともっ。すごく好きだ」
「そうかい、良かった。それを聞いて安心したよ。じゃあ教えたげよう。お前はね、このうちの子供じゃないけど、とても大事なあたしらの宝物だ。それから、いつも旅をして暮らしてるギンコさんが、お前を一緒に連れて歩くと、怪我をさせたり病気にさせたりするかもしれなくて、とっても心配だから、って」
「うん」

 ギンコの名を聞くと、化野はもっとずっと一生懸命な顔になった。何も聞き逃すまいと、真っ直ぐに彼女の顔を見て、唇を噛んで聞いていた。

「だから、ギンコさんもお前をほんとうに、大事に思っているんだよ。もしかしたら、親が子を思う気持ちと同じぐらいにね。大事だからこそ、今は連れて行けないって、仕方なくこの家に預けていってるんだ」
「…うん、分かった」
「そうかい、いい子だね。これからあたしらのこと、ばあちゃんじいちゃんって呼びたかったら、そう呼んでいいんだよ。あたしは嬉しいし、あの人もきっとおんなじだから」

 こっくりと頷いて、でも化野は自分の聞いたことへの答えが、返されていないことも分かっていた。

「…ギンコは、やっぱり、おれのとうちゃんじゃないんだね」

 炊事に戻ろうとしていた彼女が、ぴたりと足を止めて、困ったように前掛けを握る。ちゃんと説明してやれるほどのことは、彼女だって聞いていないし、知っているほんの少しのことを、そのまま言っていいとは思えなかった。

 彼女の聞いたことは僅かのことだけ。ギンコの親しい友人の子供が化野で、化野の父親も母親も、もうこの世に生きてはいない。でも、それでどうしてギンコが化野を連れていたのか、それすら彼女は知らない。

「ギンコさんが、とうちゃんだったら、よかったかい?」
「……ううん。父ちゃんじゃなくてもいい。父ちゃんじゃなくても、もっといっぱい、会いに来てくれたらもっといい」

 本当のじいちゃんばぁちゃんじゃなくても、二人のことが好きだ。自分の親じゃなくても、ギンコが大好きだ。ほんとうに時々しか会えなくても、ずうっとずうっと、ギンコが一番好きだ。会いたくて毎日夢に見るぐらい。だから、とうちゃんとかぁちゃんが、居なくても、いい。

 胸に下げた小さな瓶。翡翠の入った小瓶を、手のひらでぎゅ、と握り、それを離してから化野は言った。

「ばぁちゃん、今日のごはん、なに?」
「今日は川魚を焼くんだよ、大根も、もう煮えたからね。手伝っとくれ、化野や」
「うん、手ぇ洗ってくるっ」

 裏の井戸へと駆けていく化野の、まだまだ小さな背中を、彼女は見送る。そろそろギンコは来る頃だろうか。前に会いに来てからもう半年が過ぎている。

 この頃は、年に二度ぐらいしか来ていなくて、それもたったの五日でまた旅に発ってしまうのに、それでも化野はギンコのことが大好きなのだ。いつもずっと傍にいる自分や夫よりも、ギンコのことが。

 でもそれは、自然なことのように思える。それだけの想いで、ギンコが化野を大事に思っているのは、見ているだけで、よく分かることだから。

「じぃちゃんっ、おかえりぃっ」

 井戸の方から化野の大きな声がした。

「おっ。おう、今帰ったよ、あだしのや」

 どことなく嬉しげな夫の声が、外からそんなふうに聞こえてくる。彼女の思った通りだった。化野は、もう二人の孫も同然だし、もしかしたら、前からそう呼ばれたかったのかもしれない。

 さぁ、二人ともきっとお腹を空かせているから、早く魚を焼かなくちゃ。ご飯ももう、美味しく炊ける頃。大根の煮たのの良い匂いが、家の中に漂っていた。




 化野が二人のことを、じいちゃん、ばあちゃんと呼ぶようになって、少しあと。
 
 ギンコは、里に踏み入れていた足を止めて、丘の上で立ち竦んでいた。里に響いている子供らの笑い声、はしゃぐ声を聞きながら、身動きすることも出来ず、とある木陰に彼は居たのだ。目の前の広い原っぱで、子供が何人か走り回って遊んでいた。

 細い草の茎をそれぞれに握り、穂を揺らしながら、追い駆けっこのつもりなのか、歓声を上げながら楽しげに笑っている。その中の一番小さな、青い着物を着た一人を、ギンコの視線がずっと追って…。一時も目を離せずに、追っていた。

 ここは彼が、小さな化野を預けた里。秋と冬をやり過ごし、ふた季節振りに漸く会いに来て、また少し成長した姿を、ここで見つけた。もう七つを過ぎた筈だ。化野を拾った日からは、六年以上が経ったことになる。

 最初に抱いた時から「似ている」などと錯覚した。
 真っ直ぐな眼差しが。ギンコの容姿に手を伸べる様子が。
 木箱に興味津々な姿が「似ている」…と。

 それを、愚かしい錯覚だとギンコは分かっていた。あいつみたいだ、あいつそっくりだ、と、度々に脳裏で繰り返しながら、そう思う自分の身勝手さを理解し、これはせめてもの慰めなのだと、自身に許し続けてきたのだ。

 似ているなんて、錯覚に過ぎない。あの子が化野の血筋な筈は無く、それでも似るなどという偶然が起る筈はない。もう少し大きくなれば、あの子はあの子自身の、本当の両親に似てくる筈だ。錯覚でも、あいつに似ているとは思えなくなる。たぶんそれは、自分にとって酷く切ないことだろうけれど…。


 あだしの…。お前、そんな名、嫌か?
 俺はギンコっていうんだ。
 なぁ、お前、いつか俺の名、呼んでくれるか。
 あいつみたいに…呼んでくれるか…?


 初めてあの子を抱き上げた時、そう言った自分の言葉を覚えている。ついさっき呟いたばかりのように、生々しく。でも、そんなのは、ただ言葉にしてしまっただけの幻想。あいつみたいに成長して、そしてあいつのように俺を想ってくれなどと、夢見るだけで罪深いことだ。人一人の人生を、そうやって自分に縛ろうとするなど。

 こんな自分の運命と、重ねようとするなど。
 だから。だから…。

 お前がもう少し大きくなったら、そんな夢はきっと捨て去る。そう思って、いたのに。風が吹いた。草が鳴った。そうしてその強い風が止んだ時、そこにはギンコの姿はなかった。

 ただ、はしゃぐ子供らの声が変わらず響いて、その中の一人の子供の声だけが、途中から聞こえなくなっていた。青い着物の、一番小さな男の子が、草の茎を手にぶら下げたまま、ぼんやりと立って、何かを探すように辺りを広く見渡していたのだった。




「ギンコは…っ!」

 土間に駆け込んでくるなり、化野が大きな声でそう言うので、彼女はびっくりして、手にしていた笊を落としてしまった。転がったそれを拾い、差し出しながら、駆けてきた息をまだ静めずに、化野はまた聞いた。

「ギンコはっ、来てないっ? さっき、俺のこと、見てた…気がするんだ、だから…ッ」
「来てないよ? なんだい、お前、ギンコさんを見たの?」
「見てないけど、でも居たんだ。俺を見てるって、さっき原っぱで、俺っ、分かってっ」

 見てないのに見られていたと分かるなんて、そんな不思議なことがあるのだろうか。変だとは思ったが、確かにもう来てもいい頃だ。というより、いつもよりもう随分遅くて、心配になってきていたぐらいで。

「じゃあ、ギンコさんのために、芋をもう一つ剥こうかね。持って来とくれ、化野や。あんまり芽の出てないやつを選ぶんだよ?」

 家の裏手にある野菜を、そう言って化野に取りに行かせ、彼女は明かり取りの窓から、空を見る。日の傾きを確かめれば、夫もそろそろ市から戻る頃と分かった。するともしかして、途中でギンコと会って、一緒に戻るのかもしれない。

 でも、そのすぐあとに戻った彼女の夫は、ひとりだった。聞いても、ギンコの姿は見なかったという。芋の煮たのは一つ多く作ってしまったが、それを二つに割って、夫と化野の小鉢に分けた。

「食べないの? 化野や」
「…だって、ギンコがまだ」
「気のせいだったんだよ。いいからお食べ。きっともうすぐ来てくれるよ、ね?」
「…うん」

 化野は言われた通りに、一つと半分の芋を食べ、ちゃんとご飯も汁物も飲んで、そのあとで頼み込むようにこう言った。

「原っぱを見てきたら駄目?」
「もうこんなに暗いぞ。なんで今時分に?」
「ギンコが…、いるかもしれないから」
「ギンコさんが来ているんなら、ちゃんとお前に会いにここに来るだろよ。どうして原になんかいるっていうんだ?」
「………」

 酷く悲しげに、化野は俯く。それをじっと眺めていて、皆の茶碗を下げ終えた後で、彼女が言った。

「ねぇ、今夜はさ、中々いい月が出てるから、みんなでお月さんを見に行こうじゃないか。原っぱへね。戻ってきたらちゃんと、いつもの時間に寝るんだよ? 化野」

 夜風が寒いからと、彼女は化野に、もう一枚何か羽織るように言った。化野が奥の部屋の方へ行った時、夫が彼女に聞いてくる。

「なんで化野はあんなことを」
「さぁねぇ、凄く会いたいからじゃないのかねぇ。それしか私にも分からないよ」

 化野は二人に手を引かれ、原っぱまで出ると、一生懸命に辺りを見回した。暗いが、他には誰も来ていないのがすぐに分かった。

 その夜の月は、目が痛いほど本当に綺麗だった。白く光る澄んだ色が、ギンコの髪の色のようにも見えて、化野はまるで、焦がれるような目をして、じっとそれを見上げていた。



 俺、ずっとギンコを待ってる。
 追い駆けていけない分、
 ずっと、ずっと待ってるよ。


 小さな化野は、心でそう誓っていた。ここから遠い遠い海里で、高台に住んでいたある医家が、ずうっと思っていたのと同じに。その医家はもう居ない。この世の何処にもいない。

 けれどその想いだけは、今も。







13/06/30





輪廻 8へ  ↓



























輪 廻  続・刻の蝶  8





「ひとぉーつ」
「ふたつ」
「みぃーっつ…っ」

 一番光っている星、次に光っている星、そのまた次、と夜空を見上げて星を数える。小さな化野と夫が、小石やなんかに躓かないように、振り返り、振り返りして、女は二人の足元を気を付けながら歩く。

 こんなに夜が更けてから、原っぱへと出てきて、化野はその見渡す限りの草の波の向こうから、ギンコが来てくれるのを待ちたがったのだ。夕暮れ前、ここで遊んでいる時、確かにギンコが居た。自分のことを見ていたのだと、そう言って引かなかった幼子を、無碍になどせず、三人で星を見上げ。

「ギンコもこの星、見ているかなぁ…」
「そうさな、きっと。きっと、こっちへ向けて歩きながら、おんなじように見ているさ」

 男は目を細めて、化野にそう言ってやったが、その言葉は間違いだった。道の向こうの畑の傍に、家の影すらまだ見えないのに、突然化野は走り出した。男の手を振りほどき、前を歩いていた女を、あっと言う間に追い抜いて。

「ギ…」

 声は、何かに怯えるように震えて途切れて、けれども堪え切れぬ奔流のように、零れた。

「ギンコ…。ギンコ…っ。ギンコ…ぉ…ッ!」

 男も女も随分驚いて、つられるように少し駆けて、そうして見たのだ。家の前に立つ、白い影のような姿。季節が三つも過ぎる間、一度も戻って来なかった彼の姿を。

 何度も、何度も名を呼ばれながら、自分からは何も言わず、否、何も言えずに、ギンコは化野の体をその身で抱き止めた。立ち尽くしたままの彼へと、小さな体でがむしゃらにしがみ付いて、けれども顔を埋めて泣き出したりはせず、じっと、化野はギンコの顔を、姿を見つめていた。

「ギン、コ…」
「…うん」
「ギンコっ」
「…随分、大きく…なったな」

 やっとそれだけを言って、今度は老夫婦へと顔を上げる。

「家に誰もいないので、どこへ行ったのかと、思って」
「どこへ? それはあたしらが言いたいぐらいだよ」

 そろそろ、とつき、にもなるじゃないか、冬前に発ってったのに、次の秋がもう来たところだ。あんまり心配させないどくれ、と、半ば叱る口調の、優しい責め句。それをやんわりいなすように、男が口を挟むのだが。

「今なぁ、化野がどうしてもと言うんで、原に出ておったところでな。夕にギンコが原に居る自分を見てた。だからきっと今にあんたが戻るんだと、そう言って聞かんで。そうしたら本当に」

「…いたよね? 見てたよね? 俺、分かったんだ、ギンコが見てる、って」

 その一瞬で、現し掛け、無理にでも押し隠した、狼狽。

 傍で男が、火を入れた提灯を持っていて、その灯りに照らされた化野の、真っ直ぐな目、まだまだあどけないけれど、それでも目鼻立ちのはっきりしてきた、男の子らしい、その顔を、ギンコは、見て、そうして、ふい、と目を逸らし。

「そこの、山の、中に。熟れた柿がなってたのを思い出して…。土産にと、戻って…」

 服の何処かから、一つ取り出し差し出した、つやつやと見事に美味そうな、大きな柿。家へ入ると、木箱の中からも三つ、四つと取り出して。

 良く熟れている、美味そうだ、と、そう言って嬉しげに受け取りながら、夫婦は共に気付いている。

 すぐ傍の山の柿はまだ熟れていない。今の季節にこんなに熟れている柿は、山ひとつふたつ向こうの、もっと寒いところでなければまだとれない。一度ここへ来て、思い立って半日かそこらで、とって戻ってこられるものではないのだ。

 だからこそ、わかった。化野の言っていたことは本当だった。ギンコは夕方にはもうこの里に居て、どうしてか家に中々来られず、もしかすると…そのまま、発とうと。

「あだしのや、もう遅いから、お布団に行ってお休み」
「や、だ…。俺まだ、ギンコの…そば、に…」
「そうは言っても。もうすっかりおねむのようだけどねぇ」

 言われた傍から、座っている体がぐらりと傾ぐ。化野の気が済むまで三人して原にいたので、いつもなら寝入る時間を、もうとうに過ぎていた。

「傍にいたけりゃいりゃいいでな、気持ちはよぅ分かる」

 ぽつり、と男が言って、またぐらりと傾いだ化野の体を、女が伸べた両手で大事に支えた。そのまま寝間へと連れて行こうかどうしようか、暫し迷い、結局はそうせずに、ギンコの膝へと化野の頭を乗せて横にさせる。

 掛け布を持ってきて、それを化野の体へ掛けた。暫くぶりだから、とっておきの酒でもと、夫がその場をたったあと、化野の頭を撫でながら、女がぽつりぽつりと話し出す。


 あたしらには息子がふたり居てねぇ。

 もう随分前の事になるけど、ずっと不作が続いてた年に、家を助けたいって言って二人して家を出た。遠くの里で出稼ぎをして、年に一度か二度、稼いだお金をあたしらに持ってきてくれてて。だけども流行病で、二人いっぺんに逝っちまった。
 娘も一人いたけど、ずっと遠くの家に嫁いだんだよ。でも、孫の一人も出来ないうちに重い病を患っちまって、何年も顔を見ないまんまで、あっさり、ねぇ…。
 

 そこまで聞いて、そんなことを語り始めた女の思いを、ギンコは分かった気がした。けれども分からぬふりでじっとしていた。たった今、孫のように可愛がっている化野を、連れて行くな、と。自分らから盗っていくな、と。そんな気持ちが伝わってきて、なんとも言えず、胸が痛くて。

 だから、と、女が続く言葉を言おうとしている。逃げたいような気持ちで、でも化野が自分の膝に頭を乗せて寝ていて、身じろぎも出来ずにギンコは聞いた。

「だから、つい思うんだ。仕方ないのは分かってるけど、あんたが旅に発ったあと、あぁ、行かすんじゃなかった。何処かで病に苦しんでやしないだろか、って…。あたしらはなんで、あんたをここに引き止めちゃ駄目なんだろ、ってね」

 あんたはのことは息子も同然、って、言ってなかったかい。
 親にゃあんまり、心配かけるもんじゃないよ…。

 不意打ちのように、告げられた言葉。背中にそっと手を置かれ、優しく静かに撫でられて、ギンコは何も言えず、顔も上げられず、傍らから離れて行った女の方を、見ることも出来なかった。

 やがて、猪口と徳利をもった親父さんが戻ってきて、ギンコの向かいに腰を下ろし、やれやれ、と、そう呟く。

「やれやれ、女や子供が羨ましいわい、思うたことをああして言えてな。男は中々ああはいかん。まぁ、でも、お喋りな妻で楽なことも、実はある。中々言えんたくさんの言葉を、一言で済ませられるでなぁ」

 そうして男は猪口をギンコに差し出し、酒をゆっくり注ぎながら言ったのだ。

「妻とは気が合っとるで。言わんかったが、俺も、だよ」




 その夜、勧められるままに飲んだ酒は、少し苦くて、どうしてかほんの少しの量でギンコを酔わせた。風邪を引かせては、と、途中で化野を布団に寝かせ、急にひいやりと冷えた膝上で、固く握った手の指が、白い。

 木箱の中から包みを出して、ギンコは男に、こう言った。

「預かって欲しいんです。旅に持ち歩くには、少しばかり不用心だ。だから…」

 布を開けずとも分かる。中身は金だ。男は一瞬で酔いの醒めた顔をして、じっとギンコを見た。

「預かるだけなら、いいがな」
「明日の朝、夜が明ける前に発ちます。そうして多分、数年の間は、来れない」
「…わけを、聞いてもいいか、ギンコ」

 ギンコさん、と、ずっと言っていたのに、呼び方を変えたのは、わざとなのか無意識なのか。まるで実の息子に尋ねるように。微かにギンコの体が震えた。親にゃあんまり、心配をかけるもんじゃない。恐らくは生まれて初めて言われた言葉だ。それなのに、嘘偽りを。

「…えぇ、遠い地から、仕事の依頼が来て。それが少し厄介で、だから多分、短くとも二年、か、三年は」

 男はその後、随分と黙っていて、それから言った。

「三年もしたら、化野は十になる。そんなに会わんと、あんた、忘れられるかもしれんが、それでも…?」

 言われた刹那、ギンコは笑った。確かに笑った顔だったのに、そんなに辛そうな泣き顔など、初めて見た、と男は思ったのだ。なんて切ない顔だろう。なんて苦しげな顔だろう。

「いや、心無いことを言うた。万に一つもそれは無い。仮に三年が五年でも、十年でも、化野はあんたを忘れやせんよ」

 忘れた 方が あいつは幸せだ …

 ギンコの唇が、確かにそう言って、笑みのままにギンコは頭を下げたのだ。

「次に来るまで、どうか、化野を…お願いします」







13/07/21





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輪 廻  続・刻の蝶  9





 音も立てずに戸を開けて、音も立てずに戸を閉める。眠りに落ちている筈の幼子の瞼が、震えて、開いた。瞬きさえ惜しむよう、閉じずに縋る、眼差しの…あまりに似たその顔が、いっそ、恐ろしい…ほどの。

「ギンコ…っ」

 息遣いも強く呼ぶ声は、どうしてだろう、子供の声には聞こえない。そっくりだなんて、そんなものは錯覚なのに、錯覚でしか有り得ないのに。聞いている耳が、見ているこの目も、心も何も、俺は、とうに狂っているんだろうか…?

 あ ぁ … だって、お前にしか… もう、見えない…
 
「起こしたか? すまんな。… ぁ …」

 名前を呼ぶのが怖い。罪を塗り重ねるようで。違うのに、違わないと、これはお前なのだと願うごと、人ひとりの生を無理に木型に押し込めて、この子を、俺が「お前」にしてしまう、と。

 そんなことをしたら、きっと痛いだろうよ。苦しいだろうよ。
 窮屈で不自由な枠の中だけで、育ち、生きろと強いる気か。

「ギンコ、また、すぐ…いくの」
「…あぁ…仕事でな、仕方ないんだ」

 慕う言葉へ、用意されてあるいつもの返事、悲しげな目にさせると分かっていて、それでも偽りでしかない言い訳。明日の朝にはもう居ないだなんて、告げられるわけがない。どんなに泣くだろう、縋るだろう。泣かれ縋られる喜びを、確かに胸に隠しながら、そうやって繰り返した、旅に発つ時。

 けれど、いつもなら駄々をこねる化野が、真っ直ぐギンコを見て言ったのだ。合せず逸らされた目に気付くには、まだ幼いほどなのに。

「…俺、すぐに大きくなる。ギンコの仕事、手伝えるくらい大きくなって、一緒に行くんだ。いつ、連れてってくれる…? ギンコ」
「…いつ…?」

 いつでも傍に、視線をやりさえすれば、すぐにも視野にお前が居て、かけた言葉に返事が返る。離れる時の痛みも、また会うまでの不安もない。願い続けていた、けれど叶う筈の無い、夢。元から叶う筈の無い夢だったものを、少しでも叶えようと足掻いて、そのせいで、俺が…

 墨の色で 潰した …真っ黒、に。

 あぁ、と、ギンコは息を付いた。見つめた目が、見間違いようも無くうっすら濡れて、気付いた化野が、驚いて覗き込む。それはそうだろう、こんな顔、見せたことなんかない。閉じてその目を隠したら、そこに顔が映っていた。失くしてしまった、命よりも大事だったお前、お前…。

「…あぁ、そうだなぁ…お前が、俺の年に…届いたら」

 ギンコは手の中にある小さな種子を、指先で潰した。漂う甘い微かな香。夢を引き寄せ、その夢の中に暫し、人の意識を閉じ込める。そういう香だ。害のない蟲が作用している。ギンコ、と、小さな声が零れて、化野の体が彼へと凭れかかってくる。

 化野が、胸にずっと下げている小さな瓶を、ギンコは手に取り、その中から翡翠を取り出した。なめらかな丸い光沢を、指先で撫でて、撫でながら彼は涙を落とす。化野の髪に、頬に、ギンコの涙が零れ落ちた。

 小さなその唇にまで、つう、と伝って、届いて。

「…っ……」

 どくどくと、鳴る鼓動。翡翠を握ったままの手の甲で、ギンコは自分の唇に触れる。あれから一体、何年経った? なのにこんなにも、様々が、まだ鮮明で。笑顔、声、手のひらも指も、唇も、舌の甘ささえ。

 穢している、と、刺さるような心地で思った。優しい仕草で、それでも急いで、ギンコは化野を布団に寝かせた。翡翠の珠は手に握らせ、傍を離れる。それでもぎりぎり、寝息が聞こえて、ギンコはそれすら聞かないように、あの日の記憶を引き寄せた。

 棘、などという、生易しいものじゃない。その記憶は「刃」だった。色だけじゃなく、音さえも、闇。恐ろしい羽音。黒い蝶が無数に、ギンコの心の弱さを塗り潰していく。羽音は、波の音に似てなどいない。その黒い色は、優しい夜の闇とも違う。

 どうせ、どんなに苦しくても、
 このぐらいのことじゃ、
 俺の鼓動は、止まらない。
 





「二年経ったら戻ると約束できるね…?」

「三年、になるかもしれない」

「じゃあ三年で、必ず戻るな、信じるぞ」

「…あぁ、戻るよ」

 抑揚の無い声が夫婦を不安にさせた。縁側でこんなことを話しているのに、あんなに聡い化野が、今日に限って目を覚まさない。いつもならばギンコが来ている時は、ギンコが起きれば、夜中だろうと早朝だろうと起きるのに。

 ちらちらと部屋の方を見る女に、ギンコは笑って言った。

「夕べ夜更かしだったからだろう、寝かせておいてやってくれ」
「目を覚ましてあんたが居なかったら、泣くじゃないか」
「今ここに居ても、それは同じだ」

「何言ってんだい、同じじゃないよ」

 強い言葉で言ったのは女だった。横で黙っている彼女の夫も、同じ言葉を言いたいに違いなかった。

「あんたはきっとあたしら二人との約束より、あの子と約束した方が守るだろ? やっぱり起こして連れてくるよ」
「あと半刻は起きない。声を掛けても、揺さ振っても」

 夢寄せの香を使って、今は深く眠らせてあるのだと、ギンコは静かに話した。そうまでして、と、夫婦は暫し言葉を失くす。そうまでして、泣かれたくないのか。それとも、あの子とは約束をしたくないのか。

「……じゃあ、もう一つだけ、あたしの願いを叶えておくれな。『いってきます』って、言っとくれ」
「………」
「どうしたね、さ、早く。旅に出掛けても、必ずちゃんとここへ戻るって、約束する言葉だ。それから、戻ってきた時は『ただいま』って言うんだよ」

 その一瞬、ギンコは酷く怯えた顔をした。

 いや、一瞬のことではなかったのかもしれない。夫婦にそれが分からなかったのは、腕を掴んでいる彼女の手を、無理に剥がしてギンコが背を向けたからだ。そして、そのまま歩き出して行ってしまう。

 驚いて、それから力が抜けたように、女は縁側に腰を下ろした。両手で顔を覆って、彼女は小さく声を洩らした。

「傷つけちまった…」
「だが…いったい。何に」

 夫もその隣に座って、力の無い声でそう言った。分かる筈がない。ギンコの心を裂いたままの、傷の形を、意味を、その深さを、二人は知らない。知る筈がないのだから。

 少しして、化野が目を覚まし、まだ縁側に座っていた二人の元へとやってくる。ギンコがいないと気付いていて、その目はもう涙に濡れていた。しゃくり上げて泣きながら、必死になって問う言葉。

「じいちゃ…っ。ばあちゃんっ、どうやったら、俺、早く大きくなれるの…?」
「…どうしてだい?」
「ギンコ…っ、言ったんだっ。俺がギンコの年に、届いたら…っ、一緒に連れてって、くれる…って」
「…ギンコさんがそう言ったの…?」
「うん…」

 どう言っていいか、言葉は何も選べなかった。だって、そんな時は永遠に来ない。化野が年を取れば、ギンコも年を取る。一年経てば一年、三年経てば三年、五年経てば、同じだけ、年を…。

「あんた…」

 女は夫を見た。夫も女を見ていた。気付いた事がある。あれからもう六年も経ったというのに、それだけ化野は成長し、自分たちもそれだけ年を取ったのに、ギンコの姿だけは、少しも変わっていないように思える。

 まるで、時の流れが、彼を擦り抜けているかのように。




 ギンコの頬にこぼれた涙は、すぐに止まった。けれど心に空いた穴からは、ざらざらと何かが零れ続けている気がした。

 もう、この身は人ではないというのに、年を取らないことと、傷の治りが早いこと以外、何もかも変わらない。刃物で切っても刺しても、爪が剥がれても、骨が折れても、気味の悪いほどすぐに治ってしまう。試しに毒を飲んでみたことがある、それでも同じだった。のたうつほど苦しいけれど、死ぬことはない。

 体はそんなになったのに、心は脆いまま、一々傷つき、ぼろぼろになり、そうしてその痛みは消えないのだ、魂を裂いた傷は治らずに残っている。遠い過去のものも、ついさっきのことも。


 ただいま

 …と、言った時に、
 返される言葉は、たった一つだ。
 その決まりごとの対の言葉を、
 終わりまで、聞いたことがない。



 ギン…コ…

    お、かえ…



 ざぁ…ぁっ、あ、ぁあ、ぁ……………ッ。

 あぁ、もっと。
 思い出せ。塗り潰せ。無数の、黒い蝶の羽音で。
 叫び出したくなどないから、
 声が迸り、この喉を、引き裂く前に。













 
 読み難い気がする。分り難いって言った方がいい? すみませんです。大事にしてる話で、力を使い切れなかった時の寂しさと虚しさは結構きついもんがある。でも日を改めて、とかで良くなった試しはないのがどうしようもない。

 結局は不器用ってことですねーっ。

「 墨の色で 潰した …真っ黒、に。」

 ここを書いた時、リアルに寒気がしました。そういう時ってある。そしてその「入り」は正直気持ちいい。そのテンションで一話書き切れたら、どんなに幸せだろうって。



13/08/11


輪 廻  続・刻の蝶  5