対 想 9
化野の隣で、ギンコが短く、息を吐いた。それを安堵の吐息だと、化野は思ったのだ。でも、どうしてかそちらを見ることは出来なかった。出来ないままで、思っていた。浅はかな、思いを。
あぁ、ほらなぁ。お前にそんな非道いことが。出来る筈が、ないじゃないか。知られてしまった。だからもう、自分たちだけで逃げるなんてことは出来やしないんだ。その方が、正しい。その方が、お前の心も傷つかない。あとはみんなで生きるために、最善を尽くせばそれが一番。
短い沈黙のあと、ギンコは言ったのだ。押し殺したような、酷く小さな声で、ぼそり、ぼそりと、感情も籠めず。
「…意味も何も、言った通りだよ。島が終るという言葉は、俺の推測でしかないが、けれど恐らくもう、この島は消えるのだと思う。全員が、ここから逃げなければならない。混乱を避けるためには、いきなりすべてを、皆に話さない方がいいだろう。誰だって、島と運命を共に、海に沈みたくなどないに決まってる。本土に逃げてその先どうするかを考えてから、なんて、言っている時間の猶予も、きっともう、無い…から」
話を聞いたタダハルは、不思議なぐらい冷静だった。だから化野だけは先に、と。そう思ったギンコの想いも、彼は瞬時に理解したのだ。彼自身が、愛するものを一度は失い、命を賭けてもと思い定め、再び取り戻したものであるからかもしれなかった。
「ギンコさん、俺はあんたには恩があるから、あんたのさっきの言葉を、誰かに告げようなんて、露ほども思わない。それに、あんたの気持ちも分るんだよ。この島が沈むと言うなら、俺だって、他の誰よりも先に、妻を逃がしたいと、そう思う」
そこまで言って、タダハルはいったん言葉を切り、静かに目を閉じた。そして目を開けると、覚悟の籠った眼差しでこう続けた。
「猶予がないだろうことは理解した。その上で、一人でも多く、出来れば全員が、沈む島から逃げ延びられるように、今この事実を知るものだけで、考えよう」
強く、そう言ったタダハルの言葉に、化野が頷き、ギンコはただ目を伏せた。そして、それまでずっと、黙ったままで聞いていたサナミが口を開く。
「あなた。私は、島を…出ません」
彼女は、そう言ったのである。
「サナミ、何を…。ここに居たら、沈む島と共にお前まで」
サナミの言葉を聞いたのは、けれど、そこに居た三人だけではなかった。浜から此処までを走り通して、やっと辿り着いたイサも、彼女の言葉を聞いたのだ。
「沈むとは限らないよ!」
鋭く、その場に矢を打ち入れるように、イサの言葉が刺さった。せいせい、と数回浅く息をついて、渇いた喉に唾を飲み、彼はさらに言った。
「島のことなら、誰よりも俺がよく分かってる。文献を読んだ。これまでの、幾つもの事象の記録だよ。この島がこれから、どれぐらいの時間をかけてどうなるかも、ちゃんと分る。時間はあまりないけど、それでも逃げられるよ。逃げようと思うもの、全員がね…!」
イサが言い終えた、その直後だった。「彼」の見ているものが、唐突に暗転した。誰よりも先に気付いたイサが、駆け寄り、両腕を伸ばして抱き止める。
「ギ、ギンコ…っ!?」
まるで、心と体を繋ぐ糸が断ち切られたかのように、ギンコは意識を失っていた。名を呼んだのは化野だったが、イサは彼にギンコを触れさせなかった。憎むような目をして化野を見、切れるほどに唇を噛んでいた。そして、震える息に乗せた彼の声が、低く化野を詰った。
「一番近くに居る癖に、支えてやることも出来ないなんてね。…俺があんたになりたいよ」
時間はまだある。イサははっきりとそう言った。
「みんなへの説明は俺と白也と、もう一人、あとで島へ渡ってくる人がするよ。明日になると思うから、まだ誰にも言わないで。あと、タダハルさん。サナミさんのさっきの言葉だけど、そのことも、明日の説明で分る筈だから、彼女に意味を問い質すのはやめておいてよ」
タダハルは不安そうだったが、それでもはっきりと頷いて、妻と連れ立って家へと帰っていった。
一人残ったイサは、畳の間に横たわらせたギンコの髪に、ずっと手を触れていて、意識の無い彼の顔を見下ろしたままで、さっきの続きのように、淡々と化野を罵るのだ。
「あんたさ、ギンコのこと責めただろ? 自分だけ生きようとするぐらいだったら、他のみんなと生き延びるために努力して? それで駄目なら死んだって本望、とか? そういうこと、こいつに言わなかった?
そうでなきゃ、こいつこんなに追い詰められてないもんな。…あんたにはさぁ、想像力ってものが無いのかな。それとも、誰かを本気で愛したことも、無いってことなのか?
俺だって、こいつみたいな生き方、したことがあるわけじゃないよ。でも自分の命よりずっと大事なヒトを、見す見す死なせる気持ちぐらい想像がつくってもんじゃないか」
言葉も無い化野の反応に、ぎり、と、イサの歯が鳴った。項垂れた彼の顔の真下に、ぽつ、ぽつ、と雫が落ちて、畳に水の跡がついた。
「あーあ、あんたがあんまり馬鹿だから、俺の涙腺までどうかなったじゃないか。いいよ。ならさ、欠片しかない想像力で、こんなふうに考えてみなよ…」
あんたの努力が足りないせいで、
今からギンコが死ぬんだ。
もうちょっと気を付ければ、
死なせず済むはずだったのに、
気付いた時には取り返しがつかなくて、
見ている前で、苦しんで死んでいくんだ。
でもあんたはずうっと死ねない。
ギンコを死なせた記憶も無くならない。
あんたは死ねない人間だから、
そんな記憶は既に、幾つも持ってる。
抱えたままで、今までずっと生きて来て、
また、目の前でギンコが死…
「…やめてくれ」
「なんでやめなきゃなんないの? もうちょっと聞いてなよ。例えばってことで、ギンコの死に方も詳しく設定してみようか。あんた馬鹿だから、そのぐらいしたって、きっとまだ分んないんだろうけどね。言っても分んない馬鹿に、こんなことなんで言うのかって? こんなの、ただの嫌がらせなんだよ。あんたのことが、俺は大っ嫌いなんだ」
でも、イサはそれ以上何も言わなかった。意識が無いままで、イサのその言葉を止めるように、ギンコの手が彼の服の裾を握ったからだ。イサはその手を取って、化野の見ている前でギンコの指に唇をつけた。
「ギンコ…。ほんとに、俺にしときゃいいのにさ…。それでもお前の運命の相手は、この馬鹿野郎なんだよねぇ…」
そこまで聞いて、化野は部屋を出て行った。けれど、ギンコとイサの居る家から離れることも出来ず、ただ庭に立って、夜が訪れても立ち込めたままの、真っ白い霧の中に立ち尽くしていた。
何も見えない中で、星が降る様に、記憶の断片が彼の中に幾つも降っている。その中に見えた、おぼろに霞む自分の沢山の死に顔。イサの言葉のせいで、その顔が、ギンコにすり替わって見えた。
苦しくて、でももっと苦しめばいい、と、そう思った。
続
今回、けっこう短いですが、この先はまだ良く考えていな…。ゴホンゴホン。ちょうど切れ目なので今回はここら辺で、ってことにさせて下さいな。というか、先生に対して「お前…」って思ったことを、イサが洗いざらい言ってくれてすっきりしま…。ゴホンゴホン。
この話の冒頭、化野が思った「ギンコが安堵した」のは、間違っては居ないんですよ。彼の中には、他の人々を見捨てるのが苦しい、って気持ちは確かにあったのですから。でもそれはギンコが、渾身で「無」にしようとしている部分なの。そんな余計なこと考えてたら、大事なものなんてあっさり指から零れて、壊しちまうんだからさ。
人は神様にはなれない。せっかく手に入れた箱庭は、だからもう、彼の求めていた意味では、失われてしまうんですね。運命は残酷だ(すみません)。
でも短いとはいえ、9話、書けてよかったですー。ありがとうございましたっ。
17/10/22