対 想   10





「いい加減さ、家に入んなよ…」

 一時間経っても、もう二時間が過ぎようとしていても、ずっと庭に居るままの化野に、イサがそう声を掛けた。庭石に腰を下ろして背中を丸めて、老人のように見える姿が、濃い靄の中に半ば溶けて見える。返事は無かったが、イサは言葉を重ねた。

「…さっきは余計なことをいっぱい言って、俺、ただでもギンコに嫌われそうなのにさぁ。あんたが風邪でも引いたら、ギンコ、心配するし、その分また俺、嫌われちまうし。せめてこっち来て、屋根のあるとこに座んなよ」

 言いながら、イサはギンコの横たわっている間に襖を閉め、縁側まで出てきて其処で障子も閉めて、踏み石に片足のかかる場所に腰を下ろすと、雑な仕草で、化野を隣に呼んだ。

「座んなって、ここ。今から大事な話をするからさ」

 庭石に座ったままで振り向いていた化野は、イサの言葉を聞くと、縋るような顔をして、彼の言葉に従った。つめたく冷えた縁側に座り、間近から眼差しで懇願する。

 どうしたら、
  俺は、どうしたら、
 ギンコを
   傷つけずにいられるんだ?

 声にも出来ずにそう想っているのが、イサには伝わる。そんな彼に教えたいことは沢山あるのだ。でもそれは、ギンコが自分では絶対に、化野に言わないだろうことばかりだった。

 後で教えたとバレたら、どんなふうに思われるか。勿論、バレるに決まってる。この馬鹿野郎はまったく不器用で、下手をしたらすぐにもギンコに告げてしまうし、固く口止めしたって、態度にも声にも出てしまうのだろうから、無意味にも程があって。

「はぁーーーーぁ…っ」

 いっそコミカルなぐらいの声さえ出した溜息を、深く深く吐いて、臓腑の中の空気を全部吐き出して、それからイサは前置きから、ゆっくり言った。

「俺さぁ、今から白也に島のこと説明しに行くんだよね。朝になったら島民たちに色々告げなきゃなんなくて、そんとき、神官のあいつがさっぱり分かってないってわけにいかないだろ? だからさ、色々知ってる俺じゃなきゃ、ギンコにしてやれなかったこと、あんたに預ける」

「……わかった。話してくれ」

 化野はイサの目を真摯に見つめてから、頭を下げた。

 イサの話は、それほど長くはなかった。随分と色々を端折っているのだろうが、それも多分、考え抜いてのことなのだろうことぐらい、化野にもわかった。だから余計な口を挟まず、どうしても分らないことだけ問い返しながら、化野はイサの言葉に耳を傾けた。

 ギンコの中には「蟲」がいる。イサはそう言った。


 あいつに憑いてる蟲はね、
 とても強い力を持った蟲でさ。
 
 あんたは蟲のことなんて、
 さっぱりわからないだろうけど、
 たった一匹の蟲のために、沢山の人が病気になったり、
 死んでしまったりすることもあるんだよ。
 それに、場合によっては、
 街が一つ駄目になるぐらいの大雨が降ったり、
 川が干上がったりなんてこともある。
  
 あとね。
 大事なのは蟲と蟲とが、
 互いに影響を受けることもあるってこと。
 それぞれ別に居る分にはなんてことなくても、
 ひとつところにその二種がいたせいで、
 どちらかが滅ぶようなことも、
 少なくはないんだ。


 そこまでの話を聞いて、既に化野は紙のような白い顔色になっていた。イサがなんの話をしているのか、わかってしまう。化野は何かを言おうとして唇を震わせ、膝の上で握った手をも震わせていた。イサはそんな彼の様子を見て、何故か少し笑ったのだ。不思議なことに、どこか優しい顔だった。

「俺が何を話してるのか、わかったのかい? …怖いだろ。信じたくないだろ。でもギンコはそのことを、随分前から知ってた。もしかしたら自分のせいで、島が」

 イサの声が途切れた。化野が怯え切った目をして彼の顔を凝視し、そうしながら片手できつく彼の腕を掴んでいた。

「ま、待っ…て、くれ。す、少し…待って…」
「化野」
「た、頼むから、待って、くれ」
「待つ時間は無いんだ。だからちゃんと聞いてよ。ここからが一番大事なことだから」

 過呼吸じみた浅い呼吸が、ずっと繰り返されていた。化野はイサの腕を、爪が喰い込むような力で掴んだままだったが、イサはそれを外させようとはせず、痛みに顔を少し顰めたままで続けた。

「ナキ島は、もう、此処にこのままでは在れない」
「っ…。イサ……」
「いいから、聞いて」

 言って、イサはまたほんの少し笑んだ。

「でもそれは、ギンコのせいじゃ無いんだ」
 
 その言葉が届いて、イサの腕を掴んでいた化野の指から、静かに力が抜けていく。

「ギンコのことは関係なく、蟲にだって寿命はあるからね。それにね、長い命を持つものほど、人には理解しがたいような不思議な周期をもった生き方をしてるんだ。この島のヌシは蟲で、もう、人間で言う老人だろう。だから更に老いて、やがては一生を終えるけれど、でもそれはもっとずっと先のことだと、詳しく書かれた文献に綴られていた。…ただ」

「た、ただ…?」 

「ただ、人の行き来できるこの場所には、もう存在できなくなってしまう、ってだけのことなんだよ」



 立ち込める霧のせいなのだろう。早朝は随分と冷えていた。化野は囲炉裏に火を入れて、ギンコのいる部屋との境の襖を、音を立てないように静かに開けた。

 ギンコの意識はまだ戻っていなかった。イサがそうしたのだろう薄手の布を体に掛けて、ぴくりとも動かずに眠っている。せっかく焚いた囲炉裏の温かさを、少しでも遮らないように、化野はギンコの体の向こう側に行って、腰を下ろした。

 そして、そうっと手を伸ばし、イサがしていた仕草そっくりに、ギンコの髪に触れる。

「すまない…」

 詫びてもどうにもならないが、詫びたかった。ギンコの気持ちのほんの少しも分かっていなくて、あんなに酷く傷つけた。


 俺なら、堪えられないよ。

 老いないことも不死であることも、
 愛した人間が死ぬ瞬間を、
 何度も繰り返し見せられることも。 

 自分のせいで誰かが、
 不幸になるかもしれない。
 そういう存在であり続けることも。

 そんな幾重もの苦しみを抱えたまま、
 ずっと誰かを愛していくことだって。


「…ギンコ」

 涙が零れそうになって、けれど、どんなに無理に思えても今は堪えた。イサに頼まれたことがある。何より今は、そう言ってやれる相手として、傍に居てやって欲しいと。

 空が白んで、夜明けが近付いてきた頃、ギンコがうっすらと目を開き、天井を向いたままで、ぽつん、と言ったのだ。どこかあどけない、子供のような声と言い方だったけれど、その理由を知る必要は、今は無いし、知る術もない。

「…俺が、来たから……」

 化野は言った。大きな声ではなく、けれどはっきりと。

「お前のせいじゃない」

 まさにこの為に、イサはあの話を化野にしたのだから。ギンコの気持ちを少しでも分かり、たった今を添ってやる為に、化野は今まで知らなかった事実を聞いて、そして、芯から怯え、震えたのだから。

「お前のせいじゃないよ、ギンコ。ヌシだって蟲だって、生きものなんだろう? 生き物のすべてには寿命があるって、ずっと昔から決まってる」

 だから、お前のせいじゃない。

 ギンコは少し目を見開いて、首を化野の方に倒して、彼の顔をじっと見つめてから、ほんの僅かだけ苦笑した。

「イサのやつ…」

 音になって、零れた言葉はそれだけだ。身を起こし、寒そうに自分の腕を擦るギンコを見て、化野は沸いている湯で熱い茶を入れに行く。その後ろ姿を視野に見ながら、ギンコは音にならない独白を零した。 

 …俺には、無いけどな……

 
 


「もうすぐ、俺んとこの爺様とタツミがくるよ。さっきの話、全部頭に入ったかい?」

 夜が明けつつある砂浜に立って、真っ白な着物を着た白也に、イサがそう聞いた。白也は硬い表情をして小さく頷く。頷くだけでは不十分だと思ったのか、彼は改めて、はっきりと言葉にした。

「理解しました。これから島がどうなるのか、この先、島の皆とどうしていくことになるのかも」
「なら、もっと堂々としてなよ、神官殿。あんたが揺れたら、島を出ていく皆も不安になる。何にも心配ないって顔してな。実際心配なんか、いましても意味ないんだからさ」

 白也はイサの言葉に、情けなさそうに笑う。

「そこは『心配なんか無い』って言って欲しかったです」

 今笑えた白也は、思ったよりもしゃんとして見えた。だからイサもさらに軽口を叩く。

「根っから正直なんで、嘘つけないんだよね、俺」

 二人の目の前、見ている方向の霧だけが、少し薄れてきていた。久し振りに淡く見た空の青が、とても綺麗だと白也は思ったのだった。














 目次ページにも書かれたギンコの言葉は、原作にも出てきたセリフです。というか、あの過去があるから、ギンコは余計に辛かったんだと思いますよ。自分さえよければ、他人のことなんか知らない。そんな自分勝手な思いで、許されないことをした遠い過去。

 イサがギンコの過去をどこまで聞いて知っているか。ここら辺、詳しく書いたことは無いのですが、知らなくとも、彼はギンコの苦悩や苦痛をずっと見て来ましたし、彼がどんな人間かもわかっているので、言ってやるべきことも分かっていたのでしょう。それを自分が言うより、化野が言った方が、ギンコの救いになると言うことも合せてね。

 情報伝達に関して、いろいろ難しい局面に来てて、惑さんひーひー言ってますが、次回も頑張ります。間をあまり開けずに書きたいところなのよっ。では、またその時に(^ ^)v


2017/11/12