対 想 8
背を軽く越すような丈の草が、どこまでも続く広い原を、イサは歩いていた。
両袖に草の葉が擦れるほど道は狭く、横に並ぶことは出来ないので、彼はずっと爺様の背中を追い駆けている。若い彼にとって、爺様の足の運びは遅くて、正直、背負って走り出したいぐらいだ。タツミの土地までは、まだまだずっと歩く。
「爺様、もっとさ、急がないと」
言いあぐねていた言葉をやっと言ったが、爺様から帰ってきた言葉は、返事ではなかった。すうっ、と、人差し指を立てた片手を、爺様は何も無い空へと持ち上げて、その指で、何かを書いた。
「見い。ほれ、イサ」
言いながら、爺様はもう一度、空をなぞるようにゆっくりと書く。まるで、イサの焦りを宥めるようにだ。
「えっと。…何。はね? あし?」
「そうじゃ。なんと読む」
「…え。はねあしじゃないの?」
爺様は首を横に振って、今度は別の文字を書いた。さっきより随分複雑な字だ。特に一文字目が難しい。二文字目は多分「里」。言い当てると、爺様は振り向いて笑んだ。
「おぉ、そうそう、里じゃな。もう一度書くぞ? ほれ最初の字は?」
「あ、渡る、って言う字?」
「うん、そうじゃな。なんと読む?」
「ええっと、わた…」
イサの言葉が途切れたのは、何かに思い当たったからだ。渡る、里。続けて読めば、多分
わたり
その名を、イサは知っている。ギンコから聞いたのだ。ギンコの幼馴染で、友で、彼が信頼していた相手の名前は、イサザと言い。そしてイサザは、ワタリの、若長だった。
言葉を無くしたイサが、何かに気付いたことが、爺様には分るのだろう。彼はイサに背中を向けたまま、変わらぬ歩調で草の間を歩き、風の音を聞き、草の鳴る音を聞きながら、こう言った。
「羽、足、と書いて、ワタリ。渡る、里、と書いて、ワタリ。わしの名はハタリじゃが、ワタリでもある。お前の名もトサトじゃが、ワタリでもある。わかったじゃろう。我らはワタリの末裔よ。夕べ、お前が読んだ書は、ワタリに伝わる大事な書じゃ」
思わず、イサは脚を止めた。でも爺様は脚を止めずに歩いていく。また追い駆けて、すぐ目の前の背中に、イサは聞いた。
「爺様、俺。ワタリの長だった人に、似てるって言われた。イサって名前はギンコから聞いて。だから、その人から俺は名を借りてるんだよ」
「そのようじゃの。イサザ、じゃろう? 名前はもうすっかり消えて、見えんかったろうが、あの書を書いたのはその人じゃ。儂が受け継いだ頃は、まだ裏表紙にうっすら名前が読めた。…じゃがの、イサ…似ているからと言って、血ぃが繋がっとるかは知らんぞ。血の繋がりなんぞ、我らは昔から、毛ほども気にしやせんからの」
「いいんだ、血とか、そんなことどうでも」
イサの声は、何かを堪えるように上擦っていた。ただ、ただ、ギンコがずっと、百何十年も昔に歩いていた時間と、自分の何かが、重なっていたのが嬉しかった。それだけだった。
草が鳴る。
イサの周りで、風に揺られて。
足下で、踏みしだかれて、草が鳴る。
遠い遠い昔から、変わらぬように、
草は鳴るのだ。
温室で、タツミは一人で居た。立ち尽くして、彼は蝶を見ていた。とりどりの蝶だった。その中に、また新たな色の蝶が二種、混じる。イサのと、爺様のと。
爺様は、タツミの背中に話し掛けた。
「時が来たようじゃ」
タツミは振り向かずに返事をした。何を言うか、もう決めてあったのかもしれなかった。
「…やはりか? ハタリ。お前がわざわざ此処へ来るぐらいだ。そうなんだろうと思ったよ。だが、もっとずっと、ずっと先のことだと思っていた。あと何十年も、百年も先だろうと…」
「この世も、蟲も、人の良いようには在ってくれんでな。どうにもできんし、してやれん。…すまんの」
タツミはゆっくりと振り向いた。そして、温室の濃過ぎる緑を背に、どこか澄んだ顔で、僅かに笑んだようだった。
「あんたらのせいじゃない。今まで、ありがとうよ」
タツミは島の終りを知っても、取り乱したりはしなかった。爺様やイサのせいにもしないし、ギンコのせいにもしなかった。爺様は、聞かずともタツミの気持ちを察したように、こう尋ねる。
「…島へ、ゆくか。タツミ」
溜息を吐くように、いや、ただ息を吐くように、タツミは言った。
「あぁ、今を置いては行けんのだろう。なら行くしかあるまいよ」
霧の中に、潮の香りを感じながらギンコはひとりで歩いていた。もう見える筈なのに、高台にある彼らの家は見えない。濃い白の向こうに、人の形が二つ見えて、声が聞こえた。
「ねぇ、あすこらへんさ。そろそろ収穫できるんじゃない?」
もう一つ、別の声も聞こえた。
「そうかい? あたしはまだ早いと思うけどね、そんな急かないでも」
彼らの傍を通り過ぎる時、ギンコはその二人の視線が、別の場所を見ていることに気付く。ひとりの女はすぐ目の前のを、もう一人の女は霧に飲まれて到底見えない筈の、ずっと遠い畑を見ているようだった。
違和感を感じながら、ギンコは何も言わずに遠ざかった。そして家にもっと近付くと、化野が庭に立っていて、丁度たった今、ギンコが見て来たのと同じことを言ったのだ。
「気になったことがあったんだ、ギンコ。この霧、見えていないものがいるようなんだ。実はさっき戻る前に」
「…あぁ、そうらしいな」
「いったいどういうことなんだろうな。これはただの霧じゃないってことなのか。セキの子の花のことだって、心配だっていうのに。やっぱり島に…ヌシに、何か…」
知らぬうちにだろう、化野の声は段々と小さくなった。ギンコはそんな化野の顔を、静かな眼差しで見つめたまま言ったのだ。
「…もう、島を出た方がいいんだ」
「え」
「化野、この島は、危険だ」
「危険…?」
化野は一瞬黙って、次に口を開いた時には、島で共に暮らしている人達のことを案じた。化野の脳裏には、親しくしてくれた人々の顔が次々に浮かぶ。自分を受け入れてくれた優しい皆。ひとりひとりが、この小さな島で、共に暮らす仲間だ。
「…ちょ、ちょっと待ってくれ。島に人が住めなくなるっていうことなのか? な、何故? なんで急に? 出るって言ったって、みんな何か理由があって、此処に居るしかないのに。もう本土では死んだと見做されてる人だっているだろうし。此処で生まれて、此処以外を知らない人だって、大勢。戸籍も無い彼らは、そう簡単には」
ギンコは化野から目を逸らした。逸らしたままで言った。
「正直俺も、この先島がどうなるのかは分からない。白也にはさっき、イサ達に助言を得てくる話はしたんだ。急いだ方がいいだろう。だから、化野、これからすぐに俺と舟でこの島から」
化野の方を見ないままで、ギンコは彼の腕を掴んだ。痛みを感じるほどの強さだった。その腕を引いて歩き出そうとするギンコの顔が、向こうを向いたままでよく見えない。おかしい、と、化野は思っていた。こんなのはいつものギンコじゃない。だって、これじゃあまるで…。
「ギンコ…。それ、島のみんなを置いて、俺たちだけでって意味じゃないよな…? 危険なのは同じなのに、みんなに説明もせずに、先に俺とお前だけでって、そういうのとは…」
「……そうだ、って言ったら、どうする…?」
「な…っ?」
言葉を失い、何も言えなくなった。でも無言で言うなりになったわけじゃない。化野は自分の腕から、ギンコの指をひとつひとつ外させた。腕に跡が残るほどの強さだったから、簡単ではなかった。でもその強い意志に押されて、ギンコは化野の腕から手を離し、今度は真っ直ぐに化野を見ていた。
「ギンコ、お前がイサから話を聞いてきてくれ。島や島のみんな全部を救う方法を持って帰ってくれ。俺はここで、みんなと共にお前を待って」
「駄目だ!」
荒げたギンコの声が、酷く大きく響いた。彼がそんなふうに声を荒立てることなんか、滅多にありはしない。
「駄目なんだ! この先いったい何が起こるか分からない。十中八九、島は終わりなんだよ。島が外側から消えていっているのを見た。このまま此処に居たらどうなるか、想像ぐらいできるだろう…っ? 寄る岸も無い海に落ちて溺れるか、落ちる前に島と共に消えるのか。化野。お前は俺とは違うんだ。此処に居たら死んでしまうんだよ! 終わりなんだっっ!」
ばさ…っ。
庭の端で音がした。振り向くと、低い垣根の外に、サナミとタダハルが立って居た。垣根の枝の上に、白い夜着と、化野の紺の着物が、畳まれたままで引っ掛かっている。
「あ…、あ、の…私、ギンコさんの寝間着の着物と、あと、先生の着物の仕立て直し、遅くなったけど…終わった、ので…」
サナミは真っ青で、唇は震えていた。聞いてしまった以上、今そんなことを言う場合でもない筈なのに、取り乱しているからか、訪ねてきた理由を言っていた。
「わ、わたし…、あの…」
「サナミ、いいから。無理に喋らなくていい。今俺が聞いてみるから、さ、これを持って待っていてくれ」
タダハルはサナミの肩を抱き、仕立て上がりの着物を、その腕に抱かせてから、真っ直ぐにギンコ達の方を向いた。
「話して貰えますか、今、聞いたことの意味を。…ギンコさん」
続
それまで知らなかったことが教えられる。まさかと思うようなことが起こる。その時、何をどう思うか、どう行動するかは、知った事実の内容にもよるし、知った人がどんな人なのかにもよりますね。
化野先生は、類稀な素晴らしい人だと思う。寧ろギンコの反応が、より普通に近いのですが、本当は彼だって、人の為を想って自分が大変な目に合うような人ですよ。でも、他人なんかどうなろうとも、守りたいものが彼にはあるし、誰だって、もしも彼と同じ立場なら、もっと自分本位な行動に走るのでは、と思うのです。
ただ、彼は人でなしなんかではないので「他人なんかどうでもいい、お前だけが無事ならいい」を実行に移した時、本当に酷く傷つくのだろうと思います。
辛いと思うけど、化野がいる。イサだっている。爺様もいるし、タツミもいるし、島のみんなはいい人ばかりなので、大丈夫っ(と信じて次回以降も頑張って書きますっ)。
17/08/27