対 想 7
とある家のとある一室。年老いた男が、低い卓についている。真っ直ぐに前を向いた視線の先に、ぽつんと置かれた小さな鉢植え。鉢に植えられているのは、どう見ても雑草で、それが青々と物凄いほどに葉を伸ばし、卓の上にまでその茎や葉が零れていた。
老人はそれへと手を伸ばし、葉の幾つかに触れて、こう言った。
「とうとう、かのぅ…。島は…」
深い溜息をひとつ吐いて、老人は腰を上げ、ゆっくりとその部屋を出て行った。
ギンコがこっちに来るのは、そろそろだよな。
イサは頭の片隅で、何度もそう思っている。或いは意識の中心で殆どそればかりを思って、片隅では、今読んでいる書の意味を捉えている。
分厚い、重い本だ。古びている。印刷ではない細かな字の、ところどころが擦れて、辛うじて読めるといった箇所も少なくない。窓の少ない暗い書庫の奥の、より一層暗い場所に、イサは明かりを灯して、今日は一体、何時間こうしていて、何冊の本を読んだだろう。
何か特定のことを、調べているというわけではない。かといって、目的もなく漠然と、知識を脳に通しているわけでもない。知りたいことが曖昧なまま、何か知るべきことがありはしないかと、このところ、こうして書庫に籠っている時間が長かった。
「ふー…。目が、痛…。っていうか、肩も、背中も腰も…」
どうしても気は急いてしまうけど、少し休んだ方が効率がいいに決まっている。そう思って本に栞を挟み、閉じて低い卓の上に置いて立ち上った、丁度その時。
トゥル ルルルルルー ルルル …
遠くで閉じた扉の向こうで、電話の音。うっかり書庫の外に置いたままにしたケータイが、籠ったようなコールを、ここまで届かせた。
「電話。誰だろ。あー、今何時かもわかんないし」
急ぎ気味に扉へ向かう、その途中でコールが途切れた。五回と半でもう切るなんて、せっかちな相手だよな、と、そう思うイサの目の前で扉が開いた。目の前に立って居たのは、爺様。
爺様はイサのケータイを手にして、それを耳へと宛てていて、こう言ったのだ。
「もしもし。あぁ、タツミのところの」
「…ッ、出るよ、俺…っ。貸してっ」
心臓が、止まりそうになる。
焦って伸ばした手はけれど、あっさりと空を切った。爺様はイサの脇をするりと通って、書庫の奥へと入り、本の棚の間を抜けていく。書物で埋め尽くされた空間に、電話の向こうの声が反響した。スピーカーモードに切り替えられているからだ。
『あ…っ、イサさんですか。
よかった、やっと掴まった。
タツミが貴方に知らせて欲しいと。
急ぐよう言われたので、
言われたままをお伝えします。
「やはり蝶は増えている。
お前さんは勘違いだと言ったが、
これは異変だ。
白、赤、青、黄色…。
此処に居る筈の無い蝶が、
この温室に確かに居るよ。
"向こう"はどうなっている?
行って確かめて来てくれ。
心配でならない、イサ、頼む』」
電話の向こうの声は、返事を待つように一度途切れた。棚の向こう側から、爺様はイサの前に姿を見せて、静かに、けれど怖いほど真っ直ぐに、彼の方を見ていた。
「確かに、聞いたよ。イサとじじいとで、明日にでも顔を出す。"あちら"にも確かめに行く。そう、タツミに伝えて下され」
爺さんの癖に、スピーカーモードなんてのを分かってて、ちゃんとそれを解除してから電話を切り、爺様はイサにケータイを返した。視線は彼の顔から離していない。彼を見たままで微かに笑うと、はっきりと咎めた。
「蝶? 異変じゃと。いったい何の話かの。お前からは何も聞いておらんかったと思うが? ……隠し事は感心せんぞ、トサト」
その響きが、なんであったのか、一瞬イサは思い出せなかった。やっと応じた声には少し、動揺が滲んでいる。
「……俺…」
十二、三の頃からずっと、彼は別の色々な名で呼ばれてきた。だから、本当の自分の名前など、忘れかけていたのだ。久々のそれが、叱責の為に音にされて、犯した過ちの重さが、ひたひたと寄せてくる。
「爺様、だけどさぁ。俺…さ…あいつを…。爺…様…」
泣き出す寸前の子供のような、みっともない声が出て、その声に乗ったギンコへの想いに、それ以上は言えなくなった。詫びも言い訳も、何ひとつ。爺様はそんなイサの姿を暫し眺めてから、無言で書庫の一番奥へ入っていき、梯子を掛けてよじのぼると、棚の一番上から箱をひとつ下ろして来た。
その中に収めてあった、ひとつきりの古い古い本を取り出して、それをイサに差し出す。
「のぅ、トサト。まだ先のことじゃが、いずれはお前が我らの長となる。それはお前も薄々知っておったろ。じゃから、この書をお前は読まねばならん。読んで、理解して、飲み込まねばならん。それが我らの務めだ。どれほど苦しゅうてもの」
差し出されたイサの震える手の上で、本はずしりと重たかった。表紙にも背表紙にも何も書いていない。開くと、筆で書かれたかすれた文字が見えた。文字が、揺れている気がした。今、何故これを渡されたのか。不安で堪らない気持になる。でも読むしかないのだと言うことは分かった。強く噛んでいた唇を開いて、イサは頷いた。
「…分かった。読むよ、爺様」
「ゆっくりしてはおられんぞ。タツミも随分動転しているようじゃしの。熱い茶でも入れて、寝ないで読め。意味の分らんことがもしあったら儂に聞け。夜でも、早朝でも構わん。儂も部屋で寝ずにおる」
爺様はそう言って書庫を出て行った。茶よりも、濃いコーヒーが飲みたい、と、一度書庫の外に出たら、出てすぐのところにポットやカップが揃えてあった。食べ物も適当にあれこれ積まれている。
時計を見ると、まだ昼前だったが、イサはそれらを適当にパクついてから、書庫の奥へと戻っていく。そして彼は灯してあった明かりの覆いを外し、部屋をもっと明るくして、棚の一つに背を寄り掛けて座る。膝の上にしっかりと本を抱え、丁寧に開くと、また細かな文字がそこで彼を待っていた。
そこには、イサの知りたかったことが、綴られていた。
かの蟲は土。されど、花、或いは蝶の姿を成す。
深き谷底、険しき山の頂、または遥か遠き島に、居場所を経て長きの住処とす。古くは、光脈を乞う蟲とも言われ、かの蟲の棲むところ光酒が流れ、光酒の流るる場所にて、棲まうを見る。
その地、貧しくも真に豊かなりて、底深き谷、急峻なる峰、海果ての島なるも、我らの乞う土。我ら、流れ暮らすものどもの欲す、安らかなる土となりぬ。
かの蟲ヒトに憑きたる。憑かれしヒトはその土に着くを抗えず、稀にて女は石女となるを知る。
また、かの蟲は力強き時、人の前に現るる。弱りては消ゆる。消ゆるは死することと非なり、己が身を削り、小なりて、遥かへと渡りゆく。ヒト、また同じくして共に遥か。ただ、かの蟲は子を残す。或いは、己が移し身を残しゆく。
我らは流るるものなれど、光脈の在るところ、時の果てまでも、かの蟲、かの土を、永劫守護す。
「………」
ページを繰ること、二度。たった二度の見開きに、それだけのことが綴られていた。イサはその内容に、鼓動や、息をすることすら忘れそうだった。
これは、あの島のことだ。
島の、ヌシのこと以外には思えない。
この本には、
ナキ島のことが書かれている。
イサは急いたように、ぱらぱらとページを捲った。どのページも、書かれているのは島のことだとわかった。いや、島のことという訳ではなく、ナキ島以前に、山や谷にも同じ性質を持つ別の土地があり、それを記録してある。冒頭の文の内容を、噛み砕くように、出来事なども記しながら、もっと詳しく書いてあるのだ。
イサが既に知っていることもあった。だからこそ本の内容が、正しいのだと認めざるを得ない。また、イサが知らないことも書かれてある。それを読んで、イサは知った。
あの島は、いずれ、あのまま存在することが出来なくなる。ヌシである蟲の力が弱まる時、負担の大きい体を、ごっそりと削ぎ落とし、小さく縮んで、このヒトの世と、交わらぬ場所へと移っていく、と。
「嘘だろう。……いつ、だよ。…まさか」
イサは本をあちこち開いて、その答えを得ようとした。でも、分厚い本の何処にそれが書いてあるのか、簡単には見つけられない。焦れて、手付きが酷く雑になって、そのことに自分で気付き、そっと静かに本を閉じ、それを抱えたまま、爺様のいる部屋へと向かった。
そして、戸を開けるものもどかしく。
「爺様…っ」
「…きたか、イサ」
今度は、イサ、と呼ばれて、僅かばかり気持ちが静かになった。その呼び名はギンコを思い出させる。ギンコの為に、少しでも冷静で居なければと、そう思えたのだ。
「爺様…。島は、もう」
「あぁ、そうじゃろうのぅ。ナキ島のヌシ殿は、既に子を移す準備を始めておるようじゃ」
イサと爺様の丁度間に、鉢植え。島の土の入ったその鉢で、雑草は生き生きと、鬱蒼と伸びている。島の土が島の外で、これほどに力を放つ理由は、恐らく、それしかない。
「じゃあ、島に住む人たちは…。ギンコは…」
爺様は静かに笑んだまま言った。
「成せるようにしかならんが、出来る限りを尽くすしかあるまいて。我らが馴染みの"土"のことじゃしの」
続
頭パンクしそうですが。あー、やっぱり彼らは、彼らだったんだよねぇ、って。それがぼんやりとでも明かせて、よかったなって思っています。あと、イサの本名はトサトですが、その名前にもちょっとだけ意味があって、それもまた近いうちに明かしたいと思います。
でもなぁ、本当は島は の、つもりだったんですけど、やっぱりちょっと、気の毒なので変更してしまったよ。ひよるなぁ、自分。だってあんまり酷いことにすると、ギンコが可哀想だしさ。うん、可哀想なんですよ? だってもともと優しい人なんだもの。
続きも頑張ります。大丈夫かな、私…うーーーん。
2017/08/08