対 想   4




「蝶が、増えて?」

 イサは一度だけその言葉を繰り返し、ほんの僅か声をひそめた。ホームには誰も居ない、誰も聞いていないと分かっていたが、それでも自然と、声が低くなる。

「…分かった。今から向かうよ。このこと、誰にも言わないでくれ。爺様には俺から話す」

 相手はそれを了承して、すぐにイサは通話を切った。スマホを掴んだままの手を下におろし、イサは少しの間唇を引き結んでいた。

 参ったなぁ。
 場合によってはまた、
 爺様に隠しごとが増えるよ…。 

 ギンコがナキ島に住むことを、タツミは憂いていると言った。彼の中に居る蟲が、島に何か良くない影響を及ぼすかもしれないからだ。イサはその話を誰にも話していない。報告すべきだと分かっていて、爺様にも伏せている。

 話して、もし危険だと見做されたら? 彼ひとりのせいで、島に住む何十人もの生活が、脅かされるかもしれないのだ。ギンコは島に住む権利を奪われるだろう。だから話すわけにはいかなかった。ギンコの為に、イサは口を噤んだのだ。

 いいさ。
 俺がしてやれることがあるんなら、
 なんだってしてやる。 
 
「健気だよねぇ、我ながら」
 
 ふと、イサはスマホの画面を見た。もうブラックアウトしている画面をだ。そういえばさっきの電話の相手は、化野の過去の調査をさせた仲間だった。報告書に書いてイサに渡された以上の内容を、彼は何か知っているのだろうか。知った上で不要と見無し記さなかった、何か。

 例えば、化野の妹が、今はタツミの元にいること、だとか。

 けれども、掛け直して問おうとして、やめた。そんなことをしたら、何かあるのかと思わせるようなものだ。印象付けるようなことはするべきじゃない。イサの指示で調査は終えられて、化野の過去に纏わることは、イサの手元にある資料で恐らくは、すべて。

 思いを断ち切るように、イサはスマホの電源を落し、別の電車に乗り継いでタツミの元へ向かう。たっぷり数時間かけて辿り着き、いつものように、訪れを誰かに伝えることなく温室に足を運んだ。

 重たいガラスの扉を引く前に、何か妙な予感がして、イサはスマホをすぐ脇の木陰に隠すように置いていた。空は青く雨の降る兆しは無い。中へ入って、折り重なるような緑の奥へ進むと、いつもは古びた椅子が置かれている場所には、大きなカウチが置かれてあった。タツミは其処に横になり、うっすらと開けた目で高い天井を見ている。

「タツミ」
「…おぉ、イサ、か」
「呼び付けといて、何」

 わざと軽い言い方でそう言ったが、タツミの具合が良くないのは、すぐに分かった。顔色が良くない。息も少し浅い。ぼんやりと彼が見上げる天井に、蝶がひらひらと力なく舞っていた。彼の不調は、彼自身の蝶に反映するのだろうか。

 高いところを舞う蝶の中に、少し褪せた紫紺色をした蝶が混ざっている。もっと淡い青色の蝶もいる。それらがタツミの紫の蝶と共に、翅を翻し踊っていた。

「…増えた蝶、って、あの色が淡い青のとかのこと?」
「あぁ、そうだ…。今まであんな蝶はいなかった。そもそもここには、儂の蝶しかいない筈だ」
「………」

 タツミの言う通りだとは思う。けれど、どの蝶もどの蝶も弱弱しい羽ばたきで、色が違っていても変に似て見えた。それを暫し見上げていたイサが、ふと何かに気付いたように、こう話す。

「あのさ、これは俺の推測だけど。タツミ。蝶は増えたんじゃない。あんたの蝶が変化したんじゃないのか? 紫色が褪せて、青とか、白っぽくなっていってる。あれは多分、色が移っていってるだけだ」

 推測、と言いながら、イサの言葉は断言に近かった。別に自信があったわけじゃない。強いて言えば、そうであって欲しいと言う願望が、言葉に力を与えたのだろう。言い切ってから改めてよく観察してみても、飛び方がどの蝶もそっくりで、しかも別の色が増えただけ、元の色のが減っているように思えたのだ。

 それに。

「ねぇ、今、考えてること、当てようか。そうやって伏せるほど具合が良くなくて、もう島には行きたくても行けない、とか思ってるんだろ。あんたらしくないぜ? しゃんとしなよ。行きたきゃ明日にでも俺が連れてってやるさ」

 腰に手を当て、目の前にすっくりと立ち、そう言い放ったイサを、タツミは目を見開いて見た。ぐったりしていた体を起こそうと彼はもがき、それは出来ずにいたけれど、もう一度見上げた蝶は、さっきまでよりも余程元気に飛んでいる。

 タツミもそれに気付いて、酷く驚いたように、言う言葉を探している。イサは大袈裟に溜息をついて、傍らの樹に背を寄り掛けた。人の運命は、時には移り変わるものだ。あの島の花が、蝶が、ひとりひとりの運命を映す鏡なら、それもまた同じように姿を変えておかしくはない。

「勘弁して欲しいな。人騒がせが過ぎるよ、タツミ。こっちはギンコのことで元々いろんな心配事があるんだからさ。って…それはあんたも、か。あんたはあの島のことが大事で、気にし過ぎてるから、不安になったんだ。『タツミ』も、けっこう普通の爺さんなんだなぁ」

 イサが言うと、タツミはカウチに沈み込んで、儂はただのじじいだよ、お前んとこのと一緒にするな、と珍しく軽口を叩いた。目はずっと天井の蝶を眺めている。濃い紫から淡い色へと、彼の蝶の色が変わったそのことが、運命の変化を表すのなら、それはいったいどのように、なのだろう。

「タツミ」

 イサは踵を返す前に、もう一度だけ言った。

「島に渡りたくなったら、俺に言いなよね」

 タツミは睡魔に誘われたように、目を閉じたまま返事をした。

「同じことを彼も儂に言ったよ、渡守りの、あの…」

 静かな寝息を立てながら、タツミが眠ったのを見て、イサは今度こそ背を向ける。温室のガラスの扉を押し開けて、彼はそのままそこを後にしたから、結局何も気付かなかったのだ。タツミも、他の誰もまだ気付かない。

 温室のずっと奥、緑濃い草木の葉の陰に隠れて、様々な色をした蝶が、じっと翅を休めていることに。

 白に、赤、青、黄色。

 

 
 タツミの土地の外へ出ると、イサはついさっき通ったばかりの、草の迷路の中をまた歩く。出てくる前に厨房へ寄り、乾いた喉を潤すために、冷えたお茶を一杯貰ったが、いつもは居る筈のもう一人は、まだ戻っていないようだった。

 足が覚えている複雑な道を、難なく進んで行きながら、イサは静かに考えている。

 なぁ、ギンコ。
 渡守りで次にお前が来るのは、
 来月か再来月かい? 
 どうしようか。
 俺はお前を、
 もう此処に来させたくない。

 化野の妹のことがある。彼女とギンコが会うのが不安なのだ。ギンコが「化野」の名を言うのを、彼女が聞いてしまったら? 万が一何かの拍子で、真実が伝わってしまったら?

 お前の存在を気にして、タツミがあんなに不安になって、不調まで来たしているのも、出来るのなら知られたくない。

 自分さえいなければ、
 なんて、
 きっとお前は思うから。
 そう思ってずたずたに傷付いて、
 それでもお前はどうしても
 お前の唯一を、
 「化野」を
 求めずにはいられないのに。
 
 思い出して、イサはスマホの電源を入れた。メモを起動して、ぽつぽつと文字を打つ。内容は、ギンコが買い求めていった様々な品物だ。思い出す限りを打ち終え、今度は白也が渡守りだった時のことも、思い出しては打っていった。幸いにして前回は、このスマホを使った場面も多く、通話履歴が今なら追える。

 タツミは不調なのだ。具合が良くなくて臥せっている。だから自分がその分も手を貸して、ギンコがここを訪ねずとも済むようにすればいい。簡単なことだ。きっと出来る。不自然に思わせることなく、きっと、出来る。

 そうやって、家に戻ってからも没頭して居たら、いつの間にか目の前に爺様が立って居た。

「遅かったのぉ、イサ、戻っておったのか」

 声を掛けられて、スマホの画面ばかりを見ていたイサは飛び上がった。あぁ、とか、うん、とか、動揺を隠しながら返事をしていたら、もっと驚くようなことを言われた。

「タツミは元気じゃったか?」
「…なんで、行ったの知ってるの…? や、暇だからちょっと足を伸ばして行って来たけど、うん、元気だったよ」
 
 タツミが伏していたことさえ言えず、後ろめたさにイサの視線が下がった。爺様はそれに気付いた様子もなく、彼の問い掛けへ、のんびりと返事をしている。

「んん? さてのぉ。蟲の知らせ、といったところかの? ところでイサ、この頃勉強はしておるのか?」
「べ、勉強? なんの?」
「蟲の、に決まっておる。せっかく書庫があるのじゃから、暇なら用の無いところへ出掛ける前に、蔵の書物でも紐解くといいぞ。いつかきっと役に立つじゃろうて」
「…そうだね、そうするよ、ありがとう、爺様」

 イサはすぐに腰を上げ、言われた通りに書庫へ行った。爺様と言葉を交わすのが、どうにも辛かったからだが、実際に蔵の扉を開け、その奥へと踏み入ると、ひいやりとした空気に心が落ち着いた。

 していたことの続きをそこでしようとしたが、生憎電波が悪くて、ぶつぶつと通信が切れ、ろくに調べものも出来ない。しかたなくスマホを尻ポケットに仕舞い、イサは暫くぶりに蔵のずっと奥まで入って行ってみた。

 広い蔵である。地下もあり二階もある。随分と奥行きがあって、そのほぼ半分が書棚で埋められ、それら書棚は書物で埋められていた。一番奥の高い壁には、明かり取りの小さな小窓があって、そこから真っ直ぐ、床へと光が落ちていた。誘われる様に其処に行き、小さな宅に数冊重ねて置いてあった本の一つを手に取る。

『蟲の書』

「蟲の書、って、また大きく括ったタイトルだなぁ」

 こんなんじゃ何が書いてある書物なのか、さっぱりわからないじゃないか。呆れながら捲って、そのままイサはその本を読みふけった。それは確かに蟲のことを記した書物だった。特に、数百年、或いは千年近い年月を生き続けるだろう蟲のことを、幾種も記した本。

 冒頭の一文は、イサの脳裏に鋭く刺さった。理由も何も分らずに、イサの意識に、その言葉は刻まれたのだ。


 すべての生き物には終焉がある。
 命を終えない生き物は
 ひとつたりともこの世には無い。
 人も獣も植物も蟲すらもそれは同じ。
 すべての生き物には、
 己の移し身を、
 この世に残す本能がある。
 

  


「セキ、もう少しだ。息を浅く…っ」

「えぇ! は、ぁ…っ、は…っ、はぁ…っ」

「…もうちょっとだぞ。さぁ、いきんでっ!」

「ん…っ、ん、んんんッ、あ、ぁ…っ」

「よおしっ」

 赤ん坊の元気な鳴き声が、小さな島へと響き渡った。その日、新たな命がナキ島に生まれたのである。



 





 長めです。てか、セキの赤ちゃん生まれましたが、本当に生まれるだけで終わってしまいました。いろいろと話が進まず、もどかしい限りでございます。書くためのメモばかりが、日を重ねるごとにどんどんどんどん増えて、凄いことになっていますよ! 

 今回、殆どイサの回でしたね。彼は脇役だったんですけど、いつの間にか全然そんなこと無くなってたし、書くの好きです。作中で自分も言ってましたけれど、本当に健気で胸が痛くなります。ごめんなさい、私がそんな彼にしたんでしたね。でも好きです!

 次回は冒頭はコミカルな予定、でもその後は、ところによりどんよりするかもしれません(天気予報風)。とにかく頑張って書きます! 物凄く頑張らないと、このシリーズは乗りきれそうにありませんっ。頑張りますっ。



2017/06/18